Body Arts Laboratorycritique

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久保貴弘

私は何を見ているのか

大倉摩矢子さんの舞踏公演「明るさの淵」を見た。3年ぶりに見る大倉さんのソロだった。
他のダンス公演を見に行くときとは、観客として自分が期待するものが少し変わる感じがした。おそらく、度肝を抜かれるような意外な演出とか革新的な身体技法とかが待ち受けているわけではない。大倉さんが舞台に一人現れ、最後まで黙々と動き続けるのだろう。それがどのような紆余曲折を経るのかは分からないけれど。例えばそれは、相撲の取組を見るようなスタンスに近い気がする。そこで行われることの枠組みは決まっている。関取が出てきて、塩をまいて、組み合って、どちらかがどちらかを倒して、挨拶して去っていく。入り口と出口は決まっている。ただ、その中でどういう展開が訪れて、どのくらいの長さ持続して、どちらが勝って終わるかは分からない。私も含めて観客は多分、そのようなプロセスのわからなさに身をゆだねることを期待して、舞台が始まるのを待つ。

公演は、前半と後半に大きく分かれている。
冒頭、青いワンピース姿で、すっと舞台に現れる。普段着っぽいけど、前と後ろに深すぎるスリットが入っていて地肌が見え隠れするし、その肌は薄く白塗りされている。雑踏の音や、ポップス、電子音など、色々な音のコラージュが流れていて、日常生活的な雰囲気を漂わせながらも、動きは普通の人にしてはゆっくりすぎる。地面に根が生えたような低い姿勢を通って、光に向かって植物が生長していくようにじわじわと変化していく。動きの一つ一つに何かをしているという目的を見て取ることができないし、ある動作と次の動作に切れ目がない。いつまでも完結しないままずるずると続いていくその動きを見ていると、人間というより植物や自然の景観が変化していくのを見ているような気分になってくる。そして、体を置き去りにして踊り手の意識はどこか別の場所で、全然別のことをしているように思われる。
前半の最後、民族音楽っぽいリズミカルな曲がかかって、突如、という感じで踊り回る。何というか、どこにもないようなのり方で、踊り回る。例えば、ディスコというものに行ったことがない人が、ディスコで踊るってこういう感じだ、という信念と共に動いているような感じ。残像を空間に貼り付けるように、動き続ける。

しばらく暗転ののち、後半が始まる。ライトが付くと、白いロングドレスを着て、客の目前にポーズを取って立っている。汗で首の周りがてかてかと光っている。
日常性を装うような前半から一転して、踊り手の内的イメージに降りてきたような、象徴性の増した場に変わる。前半とは体の印象が違う。どっしりして質量を感じさせる立ち方。客席に近づいて動きも正面性が強くなるけれど、客を直視することはない。やはり意識は少しずれた別の場所に置かれているように感じられる。踊り手の体はより近く、生々しく感じられるのに、中身はすかすかしている。生々しさすら痕跡にされているような、不思議な体のあり方だと思った。見ている観客の意識の集中が、そのままこちらに反射されてくるような圧力を感じて、思わず身震いする。
最後は、とても時間を掛けてカーテンの向こうに去っていく。終わるということを忘れるために必要な時間と行為を費やすかのように。

大倉さんの体が発し続ける微細な動きを見守ることに、自分が飽きていないことを何度も確かめる。しかし同時に、何を見ているのか、何に面白さを感じているのかよく分からなくなってくる。舞台に集中している客席全体をふと見て、私たちはなぜこの地味なものを見続けていられるのだろう、と不思議に思う。
何も感じないまま、何かを見続けることは不可能だ。どんなに微かでも、一瞬前と違う何かをそこに見出すから、ほんの少しの変化を見て取るから、あるいは静止の先に今にも現れそうな次の展開を待ち受けるために、観客は対象を見続ける。
どうして、何かを見ても何か感じるときと感じないときがあるのだろう。感じるというのは、視界の中に異物を感知するということかもしれない。私たちは見るものの中に、日常で積み重ねられたパターンを読み取る。カーテンや、電線や、通行人は、それぞれ視界の中であるべきように機能している。認識しているパターン通りにそれらが動けば、目は何も見ていなかったかのように、特に痕跡も残さないまま視界の中を通過していく。でもそこに何かしら、そのパターンを破るものがあると、私たちは注意を喚起される。これは私が知っているはずのものではなかったと知らされる。
大倉さんの動きは、そのような小さな警鐘の連続のようなものだ。細かいタイミングのずれ、立ち止まり、不明瞭な方向転換、過剰な伸展、そうした細かいほころびを生成し続けるプロセスが展開していく。そして体のそれぞれのパーツが「え、そっちなの」という方向に、ゆるやかに脱出をはかり始める。

踊り手は、動きの元となるイメージを追いかけるのと同じくらいの強さで、それに追いついたときに発見する違和感のいちいちを感じているのだろうと思う。そういう、意識のコントロールから体をはみださせる仕組みが、舞踏の動きを作ってきたのだろうし、大倉さんを見ていて飽きないのは、そうやって生まれた「舞踏的」な形さえも、彼女は静かに食い破っていくように見えるからだ。彼女が内側で何を感じて何を追いかけながら動いているのかは分からない。でもそれは何かとても透明で抽象的な線のようなものだと、私は想像する。終わらない落書きの線のように、アップダウンを繰り返しながらも、それはとてつもなく遠くへ伸びていくもののように思う。

[かみむら・めぐみ|ダンサー・振付家、神村恵カンパニー主宰]


大倉摩矢子 舞踏公演 《明るさの淵》

構成・出演:大倉摩矢子
照明:神山貞次郎
音響:松下正己
衣装:江良智美(Costume Bank)

2010年5月22日・23日
テルプシコール


協力:大倉摩矢子