Body Arts Laboratoryinterview

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ウェン・ウェア・フェス2018とインフラのデザイン

―今回のウェン・ウェア・フェスで空間を担当していただくにあたって、BUoYっていう空間自体、元銭湯っていうことが形として残っていたり、色々な痕跡が、ここを使った何十年前の人たちの幽霊がうようよしてるんじゃないかみたいなことも、現在BUoYっていう場所になってから残されたものも混ざっているような、結構特殊な空間だと思います。今回、ウェン・ウェア・フェスが、ある意味、中心がはっきりしないまま進んできてる中で、そのBUoYという場所を使うことになって、色々話し合いながら、今は「仕切りを作る」っていうことが出てきてるんですけど、木内さんから、その空間について何かあったらお願いします

今回は、インフラのデザインというか、基盤のデザインに振ったものをやりたいというのはあります。予算的に、軽い材料を選ばないといけないのはあるんですけど、でもそれくらいのレベル感にしたいのはあって。それで、今回のが「インフラ」と呼べるかは、僕はわからないところがあるんですけど、むしろ道路にしかれている「白線」とかに近いのかもしれないですけど。

これからデザインを詰めていく先で、どうなるかわからないですけど、建物の骨格をなぞったような、それが強調されるような、それが強調されすぎることによってさっき言っていたような、劇場っていう形式に対して、別なルールが与えられることによって、形式性が相対化されてしまうっていうことが起こらないかな、というようなことは考えていて。

―私も、今第一案を伺っている段階なんですけど、劇場って何かを見る場所じゃないですか。で、今回のアイデアって、すごく「視線」を意識するものだなと感じて。それは良くも悪くもだと思うんですけど。それで「悪くも」って言って想像することは、今自分が一番見たいものじゃないものが入ってきちゃう。みたいなことで。それは今、「悪くも」って言ったけど、それが、「ハッとする」とか「ソワソワする」とかそういう状態をひきおこしそうだなと思って、それは面白そうだなと感じました。何も自分では意識していない人が、演劇的なふるまいに見えてきたりとか、人のふるまいに作用する仕組みだなというか。

僕がこうしたいな、と思ってることは、火のないところに煙は立たないっていうか、これがこうでなきゃいけない、リアリティの強さは作っていかないと、狙ったものになっていかないと思うんですよ。だから、この形式にはこの形式のこうじゃなきゃいけないっていうプラティカルな機能の担保みたいなことがすごく丁寧にやられる必要があって。

―「待ってる場所」っていうか、いろいろな組み合わせができるって考えのもとに考えてもらってるじゃないですか。こう使いたいっていう内容を待ってるっていうか。それによって、組み合わさることで初めて必然的なものになる感じがします。

いいアプリとかインターフェイスにならないと、そういうことがきちんと作動されないんで、そこの作り込みをどれだけ真っ当に、この場所の必然性、需要に対して、まっすぐに作れるかってことが多分勝負になるような気がしてるんです。

だから今から詰めていくデザインは、立て込みの事とか、使いやすさとか、歩きやすい歩きづらいとか、座りたい座りたくないとか、そういうことが丁寧に編み込まれていくことと、それがいわゆる丁寧なだけには見えずに、そんな所にこだわんなきゃいけないんだっていうディテールが積み上がっていくってことがよくて。

―勝手に期待することとしては、ちょっと困っちゃうっていうか、困らせないといいうよりは、困っちゃう部分が、アトラクション的に、よくわからないでっぱりみたいなものがあると嬉しいですね。最初の頃に、観客が介入することで変化してく空間みたいな話をしてたじゃないですか。その要素が入り込む余地がないかな、とは思っていて。介入し合う、みたいな。

やっぱり、一個一個の切実さを紡いでいくことって、狙ってそういう方向にいきたいとは思わないんですけど、明後日の方向に行く可能性は常に孕んでいて、全く意識せずにそこに飛べた時って、「笑いの神様」じゃないですけど、神様降りてきたって感じになると思うなって気はしていて。だからそこを待ちながら地道にコツコツ作るってしかないなと思っていて。

―わかります。ダンスでも切実さとか実感って言葉はよく使って、そこがない状態で動けないというか。まずは実感があることで、形の始まりになるみたいな。何か楽しみですよね。

例えば山川君が加わったっていうのが大きくて、主体が一致することもあれば分離もしてしまうみたいな不安定性の中で、やりながら、キュレーターの4人の人も入ってきてしまうっていうことが、フェスならではというか。やれる可能性は十分あるんじゃないかなって気がしますね

―小さな誘惑がありますよね。BUoYそのものも誘惑が多い場所だと思いますし、山川さんがこの間見せてくれた空間を見て触発されて、こういうこと考えたいなって思い始めるというか。だから小さい誘惑が連なって、フェスに向かって知らず知らずに形が見えてくるといいな、というか。

それがうまく走ると、「このフレーム取ってくれ」みたいなことを言い出す人も出てくる気はして。

―それってフェスを実際にやっている合間もできるんですか?

大変だと思うからどういう形になるかわからないけど、それをなんとか着地させるとか、すごい苦しいんだけどとりあえずやるとか、それはクリエイションになりそうですよね。それって建築が建築になる瞬間とか都市が都市になる瞬間と似てるなって思って。

ダンスと空間

―ウェン・ウェア・フェスはダンスのフェスで、それぞれの方にとってのダンスのことや、ダンスを見るとき、何に期待してるかみたいなことを聞けたらいいなと思っています。

話は重なってしまうと思うんですよね。どうしても、身体があるとかいるとか、それが何かふるまうことについての、新しい経験を求めているというのが多分率直なところで。そこを経由すると、身体ってこういうことがあり得るんだっていう、言葉とは別次元で了解されちゃうっていう経験があるのがいいなあとは思っています。

―最後に、さっき話していた観客が一人で経験することと集団で経験することっていう話と、繋がるような気もするのですが、木内さん的に今回の見どころとか聞かせてもらえますか。

見所は難しいけど……。居場所って呼ぶ程のものにはならないくらいの、でもある程度居場所的な機能を果たしてもらえたらいいなというか。

―さっき話していた、一瞬目的を忘れる、一瞬目的ではなくそこにいるみたいなことが起きるといいな、という感じはしますね。

そうですね。それくらいの温度感のことが実現されるといいのかなと思いますね。あと七里(圭)さんのロケは気になりますね。そういうある場所で成立しうるってことに想いを巡らせたことがなかった行為が現れるといいのかなーと思いますね。

―七里さんのは強いですね。空間を全く意識せずに在れる方法を考えた結果、めっちゃ空間に介入してくるみたいなのは、そういうのがあったか!という感じですね。

そして今、喋れない言葉とか、そういうものを喋ってる自分が生じるようなプロセスを目指したいですね。空間の解説とかもやっぱりやりたいですね。

―この空間がここにあるには、この板がここにあることには、色々な考えや予感や期待が染み込んでいるんだってことがわかると、そこに触れることで、その場所を歩く時の気持ちも変わるというか。

そういうことを、例えば自分の両親とか、あんまり興味がないかもしれない人にも聞いてもらうのもなんかいいですよね。それを経由して、僕とか山川君の身体なのか、ふるまいも変容してしまうっていうことも面白そうだなと思いますね。

そうですね。それを聞くつもりで来てなくても、背中を向けてても耳からは入ってしまう、みたいなことが起こるといいですね。お客さんとかダンサーじゃない人たちの、身体の状態とかふるまいが変化すること自体も、踊ることの中に位置付けられるって考えもあるかもしれないっていうか、踊ってしまっていたみたいな。それはちょっといい感じに言い過ぎかもしれないけれど。

踊るってことに入るとか入らないとかって、建築というかモダニズム的な視点でいうと、踊ることを面白いっていうことは、経験的なことなのか批評的なことなのかとか、それを面白いって認定すること自体が批評的な俎上に挙げられて、専門的な一部の人にとっての範囲での話じゃないかってことにもなりやすい議論ではありますよね。ただ、そういうことよりはAっていう人が、何かを感じ取るっていう、主体とか客体だとかっていう定義の中に落ちない、明確性・明瞭性が定義できない事態っていうのが、それの意味するところなのかなっていう気がしていて。そこにコミットできるってことなのかなって気がしますね。主格の透過性っていうのが強度を増すっていう感じなのかな。

―踊るって、例えば動きでいうと、揺れるとか揺らぐ、みたいなことだとしたら、すごく雑にいうと、ちょっと自由になるみたいなことだとしたら。例えば街を歩く時の歩き方の、知らず知らずにきちっとしてるみたいなことが、別にそうじゃなくてもいいのかもしれないって、街の中ではささやかな影響で、感じる可能性があると思うんですけど、そういう感じのことというか。自分の中に知らず知らずにあるふるまうルールのようなものが揺らぐのか拡張するのか、それが、今木内さんがおっしゃっていた、主体とか客体とかが混ざっちゃうのか。

だから主格を妙に定義する感じって、 〇〇は、〇〇をするっていうよう定義付けが可能な状態にある身体であり、ものでありことであり、状態を固定しようとする意志の働きだと思うんですけど、そうではない状態。こういう話しをしていると、モダニズム的な教育を受けてるというかそういう風に育っている人からすると、だからそれって何?誰にとって面白いの?みたいな話になってくるんですけど。

―そういう視点に晒された時に、大丈夫か?みたいな、ツッコミが自分が物事を考える時にも、ある気がする。これは誰に向けてどういうことなのか、ちゃんと論理的に説明できるのかみたいな、実際、そういうことが得意不得意かは別として、そういう視点に対して恥ずかしくないか、みたいな。

そうですよね。だからそこをどううまい事を外れるかみたいな。さっきのダンスを見たいときの欲求って、そういう事と関係あると思いますね。

―空間にもそういう力はある気がしますね。ワクワクするとか走りたくなるとか、ゴロンとしたくなるとか、見上げたくなるみたいな、そういう感じの事っていいなっていうか。満月の時とか、みんな空見上げたりしてるのとかすごいなっておもいます。

そのくらいの事かもしれないですね。

―今日はありがとうございました!

[2018.1.25]


木内俊克Toshikatsu Kiuchi
1978年生まれ。東京大学建築学専攻を修了後、Diller Scofidio + Renfro(2005-2007, New York)、R&Sie(n)(2007-2011, Paris)勤務。2012年木内俊克建築計画事務所設立。建築から都市に至る領域横断的デザインの傍ら、コンピュテーショナルデザイン教育/研究に従事。代表作に都市の残余空間をパブリックスペース化した『オブジェクトディスコ』(2016)など。イスラエル・ホロン市開催のUrban Shade Competition(2014)では歩道や広場を横断して設置する巨大なキャノピーによる都市介入で勝利案受賞。

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