Body Arts Laboratoryinterview

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「ポスト・ポストモダニズム」

―アメリカにおけるポストモダンダンスの流れをお聞きしたいと思います。ヨシコさん自身がポストモダンなので、自分自身を客観的に伝えることは難しいと思うのですが。ヨシコさんにとってのダンスは、美術や社会的なことなど全てを含んだものにおけるダンスなのでしょうか?

ポストモダンをやっていたんじゃなくて、住んでいただけなのよ。もしもいわゆるミーハー的に言うならば、その頃のニューヨークのソーホー(Sounth of Houston)とか、トライベッカ(Triangle below Canal Streetという名前を持ち始めた頃)とかがあるエリアは、かっこよくて、今みたいに大げさではなくて、それなりに場所を持っていた。
イーストビレッジはファーストアヴェニューを越えた東側は廃退していた。住居を構える人は少なかった。大家は自分のビルディングを燃やして火災保険をもらっていたり。70年代を境に混沌としていた。マンハッタンのダウンタウンに住んでいるなんて言うと、一体どこ?って言われたりしたけど。自分はどこに行かなくてもこと済んでいた。サブウェイにも乗っていない。小さかったのよ、コミュニティが。コミュニティというより、集合場所。ワークショップもアルバイトもリハーサルもご飯も、もちろん住居も、圏内にいたのよ。圏内に、アーティストがいた。そのコミュニティで、全てが成り立っていた。パフォーマンスも自分でできた。集合場所で行われるワークショップ自体も、お金との引き換えじゃなかった。アーティストにはこういう人たちがいるんだと思った。お互いに会える機会と場所があって。そのときに全部会ってるね。考えてみれば、凄いテイストのある人生だったわ。何処かでご飯食べているというふうな寄り合いが結構あって、何本かのワインがあったり、ダンスパーティーがあるとか、そしてそのダンスパーティーがプライベートレベルであったと思うのね。それは、やはり秘密結社のパーティーだから、チケットがあるわけでもなくて、人との関係もあって成り立っていた。やはりダンスの関係の人たちだとか……今でも覚えているのは、シモーヌ・フォーティのパフォーマンスがPS1であったときに、シモーヌのロフトで皆会って、そのときは裕福な人もいっぱいいたから、ワインもフルーツもいっぱいあって、ご飯なんかも結構あったのよ。だから、そこに行ったら食べれるわけじゃない。そんなに喋ることもできなかったから。そのときコンタクト・インプロヴィゼーションという言葉を直接発したかどうかわからないけど、そこにいろんなダンサーがいて、あとカニングハムからの誰かだとか……。
ボブ・ウィルソンなんかのバード・ホフマン・ファンデーションという、すごく内密な集まりがあって、そこのパーティーに行けるか行けないっていうのは結構重要であったかもね。火曜の夜に、ボブ・ウィルソンの23スプリング・ストリートのロフトに誰が行ってもいいわけ。そこで適当に動いたり、音楽をならしたり、一般人のワークショップがずっと行なわれていたのよ。それを引き継いだのがレイター・オンのPS122で、フリーでムーブメントをやるとか。今もどこかで続いているみたいね。パーティーなんか皆凄いフリースタイルで、何かこうやってエクスプレッションしてね。一つはわたしは目立ってたのかも(笑)。それと、いろんな作品のインフォメーションが入って来たわけよ。リチャード・フォアマンの《スリーペニーオペラ》をリンカーンセンターの円形場に観に行ったり。フォアマンはブロードウェイにロフトを持っていて、大晦日にいつもそこで彼のパフォーマンスがあったんですよ。だからといってわたしたち、リチャード・フォアマンという人を知っていたから、バリシニコフだからっていうんで行くんじゃなくて、全然何も知らないでいろいろ見たよね。あそこに行けばいいよ、これ見たらいいよって、そういうdictionaryの中から観に行ってた。ボブ・ウィルソンの役者達、クリストファー・ノウルズとシンディー・ルーバーが作った《Emily Likes the TV》とかいう作品もよく覚えている。み~んなモノトーンでね。それらのものをコンセプチュアル芸術として見たわけではなく、勉強するとかじゃなくて、ただ同時並行で、それだけの事。いろいろな作品がわたしの周りに来たのよ。

―昔の作品のことを知らないで全然言えないんですが、ヨシコさんが当時打ち出した強烈な作品は、どんなプロジェクトだったのですか?

ひとつは「アート・オン・ザ・ビーチ」。ワールドトレードセンタービルが丁度できた頃で、バッテリーパークシティの野原はまだ埋め立てだったんですよ。そこに「アート・オン・ザ・ビーチ」という企画があって、そこで、チャールズ・デニスという、とてもボブ・ウィルソンと関係のある、PS122の発起人である彼とわたしがデュオをしたのが始まりかもしれない。それの写真は彼が持っている。わたしがブランケットを持って走っていて、後ろにあるWTCビルが、もうパフォーミング・アートの部類でね。その後、考えてみればプー・ケイというアーティストと一緒に作っていて、彼女がわたしに影響を与えた。その関係で、いろんな作品に出ていた。78年にワシントンスクエア・チャーチで、わたしとプーとクレア・バーナードらで、3つの椅子を置いて何かやった作品だとか。あとは、プーの《Six thousand leaves》という作品で、キッチンで、枯れ葉をかき集めて全部動きはロームーブメントで。プーは、ロームーブメントを初めて見つけたオリジナルの人です。そんなの本には載っていないけど。70年代はそんな動きがあったから。ダグラス・ダンがワークショップを持ってわたしが初めて出たパフォーマンス。

―いままでの言葉で、ニューヨークがどういう状況だったのか、なんとなく理解しました。

1979年に「ポスト・ポストモダニズム」っていうとこまで行ったわけよ。MoMAのサマーガーデンで5日間に渡るパフォーマンスがあって、その一日に、シモーヌ・フォーティ、プー・ケイ、わたし、という日があったんですよ。ムーブメント・リサーチのメンバーの人たちがわたしに言ってきたのよ。あなたはこれから出てくる人だから、ここのプログラムに入ったんだと。プーはそれをやるので、頭が可笑しくなって、怖くなって降りちゃったのよね。それでわたしとシモーヌだけだったのよ。雨が降っていて、そのときでも1000人くらいは来たのかな。出たのは、ウィンディ・ペロン、キャネス・キング、アンディ・ディグロウ……あと誰だったかな。それが初めてムーブメント・リサーチのような小さなオーガニゼーションがMoMAとコネクトして何かをやったときだった。今はいっぱいあるけど。その次にシンフォニーホールで、ムーブメント・リサーチのベネフィットをやったのよ。その時に、大々的にパブリシティを掛けたのが「ポスト・ポストモダニズム」というので、出演したのが、アニーとビル・T・ジョーンズの二人のデュオ、ディナ・リッツ、ジャーディ・パディオ(この人弁護士になってやめちゃった人)、ダグラス・ダン、そしてフリーランスダンスの一人スティーヴ・パクストンと、わたしだったのよ。

[2010.6]

構成:山崎広太、三石祐子、印牧雅子


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Shu Nakagawa

ヨシコ・チュウマ(中馬芳子)
ダンサー、振付家、演出家。ザ・スクール・オブ・ハードノックス芸術監督。1976年渡米し、80年にザ・スクール・オブ・ハードノックスを創立、以来同カンパニー芸術監督を務める。二度にわたり、NYのパフォーミングアーツ界で優れた作品に与えられるベッシー賞を受賞(1984年、2007年)。全米芸術基金やグッケンハイム基金、国際交流基金などからも助成を受け、アメリカ国内はもとより中央ヨーロッパ、中東、アジアなど世界各地で精力的な活動を続けている。2000-03年には、アイルランドのダグダ・ダンスカンパニー芸術監督も兼任。現在最も革新的なコレオグラファーの一人として認識される存在である。
そのキャリアの中で、スティーヴ・パクストン、クリスチャン・マークレー、メレディス・モンクなど現代米国を代表するアーティストらと交流を深め、近年はマケドニア、ルーマニア、ヨルダンといった非西欧社会を中心に、地域コミュニティと深く関わった創作を行なっている。2009年7月『Newsweek』誌による「世界が尊敬する日本人100人」にも選出された。http://www.yoshikochuma.org

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