Body Arts Laboratoryinterview

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アノニマス舞踏会

―現在、定期的に「アノニマス舞踏会」をされていますが、どういう理由があるのでしょうか。

森下スタジオを借りると朝から晩まで4,000円で使えるということに、ある日、ホームページを見ていたら気がついたんですよ。これを2日間借りて何か好きなことやろうよと言って周りに声を掛けた。皆、500円ずつ出して、経費をカバーして好きなことやろうと。誰かが一人で4,000円払うと、その人の意向で取り仕切ることになる。私が払ったら、私が気にいらない人は駄目でしょ。だけど皆で払うのなら何やってもいいわけ。チラシなんかは、その500円ずつ集めた中で作って。お客さんも500円、やる人も500円。それが溜まったらお酒を飲もう、で、これがその余りです(実は白ワインを飲みながらのインタビュー)。そういう仕組みを作ったので、まったくノーチョイスです。そうすると、もやもやしている人って、いっぱいいる。作りたいってね。大学などでプロセスを踏んで、発表することに対して躊躇しない人っているじゃないですか。だけどOLになってから習い始めて一度も発表したことがない人っているのですよ。そういう人が、ひょろっときて、やりたいって病みつきにね。ちょっとあそこにも行って、プロパガンダしようってのもOK。目的は何でもいいの。子供連れてきて、子供のお母さんに、私こういう踊りできるよってダンス見せている方もいますし、目的は定めない。一応、どういうことをやったかという記録をしています。
アノニマスの最初の集まりはこの部屋です。ここで勉強会を企画して、発表したい人が来て発表する、それを皆が聞く。そういう関係が1年以上続いていました。自分は今、こういうふうに音楽を作っているとか、ある人はテクスト、論文を書いているのだけど聞いてくださいとか、いろいろな情報の交換をして、ピナ・バウシュのDVD来たら皆で見ようかとか、内容は限定しない。だからアノニマス舞踏会は、勉強会が発展した感じで、まったく誰が参加してもいいのです。枠なし。暴力、おしっこ、水、火は駄目ですけど、それ以外なら(笑)。

―自然派生的に出てくるのは貴重なことだと思います。そういう、ささやかなコミュニティは持っているのでしょうか?

協力していただける方がたくさんいますが、合議制にするか、あるいは私一人ですべてを決めていくかということは難しいですよ。私の場合には、自分がすべてを決めて責任も持って、支出するお金が足らない、いわゆる赤字となったら私がカバーする、そういうセオリーでやっています。何故そうしているかというと、要するに合議制にすると、時間が掛かる。自分で決めて構図を作って、さあこれやってくれる?って頼んだ方が早い。私の敬愛するヨーゼフ・ボイスに従うならば、本当は、それは時間を掛けてやっていかなければいけないのです。だけど私には、もうそれを自由にやる時間がない。だから、少しずつ移譲はしていこうと思っています。でも今年の「Tokyo Scene」(東京ダンス機構による公演シリーズ)に出た人たちは、かなり自律してきた。自分の意見をきちんと言える、いい仕事をしてきていると思います。

―ダンスを続けていくには厳しい環境だと思うのですが、これからの人に向けてのアドバイスなどいただけたら嬉しいです。

まず、やり続けることね。それから自分がやり続けていることを、とにかく、人に伝えることです。そして協力を仰ぐということ。切符を買ってくれるなんて協力でしょ。そこから、いろいろな人がいろいろな意見を言うと思うのです。それを公開、発信する。それは求めた意見だけじゃなくて自分からつねに発信するということ。そして躊躇しない。広げる。3,000円の入場料、今晩の飲み代をはたいて来てくれと友人に言う。友達には友達を連れてきてくれと言う。日頃から広太くんが良くメールくれるように、いろいろな人に今度やるから来てくだくださいねって。あれこれ3回もメール打てば考えてくれる。でもそれすらやらない。自分は踊りを有料で公開しているということについての日常的なこだわり、アピール、それがない。広太くんだったらニューヨークに行って、いろんなことピリピリしているでしょ?

―いや、そんなにしていません。

例えば、あの人に会いに行こうとかさ。

―いや、していません。どちらかというと、お金になりませんけど日本の方に重きをおいています。

じゃあどうして仕事が来るの?

―貧乏で、ぼつぼつとです。

でもDTW(Dance Theater Workshop)でやりたいといったらDTWに行くでしょ。

―はい。

それをやんないんだよね、日本の人は。やっぱり自分でやらなければ。アメリカだって小屋にお客さんが付いているのだから。そこで採用されれば、しかるべきお客さんは来る。日本はレンタルで、小屋にお客さんなんか1人も付いていない。これが困った問題。あれだけ長い時間やっているシアターカイに、お客さん付いていない。チラシを見て来た人は皆無だね。

―やはり劇場は、コミュニティと直結していないと難しいと思います。アメリカは少なからずあるので、どういう劇場でも、パブリシティもある程度はちゃんとしていますから。

いや、それもあるし、DTWでやったら新聞に出るでしょ。

―ダウンタウンのアーティストにとって、DTWが頂点ってのもあります。現在、運営ができなくなり、New York Live Artsという名前に変わり、ビル・T・ジョーンズと共同運営していますが、ちょっと残念です。

ニューヨークの人は、ダウンタウンもミドルタウンもアートを大事にする。意識だよ。日本では、見に来て、と言ったら、勝手にやっているんでしょって言われたもんね、私。自律できない……。

―あるインタビューで、日本のパフォーミング・アーツのダンスにおけるアートマネージメントは皆無だと言ったことがあります。

精神としての舞踏

―最後に、土方さん、大野さんが亡くなり、舞踏の未来に対して、どのように考えていますか?

踊りっつうのは舞踏だよ! ポスト・モダンダンスは舞踏だもの。

―(笑)そうですか。

日本人がイメージする舞踏の土方さんは、理性的な部分っていうのを放り出しちゃって、そういうものに従う社会ではないところで出てきているものだから、皆がビックリする。だけどポストモダンにも、そういう要素はあると思う。理性とかキリスト教とかいうものを、一応こっちにどかしておいてやろうという。

―六さんも、マギー・マランの《May B》も舞踏……。

私、そう思うよ。だから型に嵌った、非常に理性的な判断のもとに作られたダンスってのは、こっち側にある。そうじゃないものが面白いのであって、そうじゃないものこそ、それは舞踏なんだよ。だけど、《May B》は、ある意味では、欧州、ドイツ、フランスが持っているデカルト以来の理性というものを下敷きにした上で作っているから、皆に非常に受け入れられる。だけど、マギーはそんなもん吹っ飛ばして作ったと私は思っている。だから舞踏には、そういう意味での未来はもの凄くあると思う。だって芸術が大人しく纏まったら、面白くない。皆、スタイルでものを言うんだよね、舞踏的な動きだったとかね。

―《禁色》のときは、まったくスタイルなど関係ないところで?

スタイルとしての舞踏っていうと、あの頃はそうじゃないけど、精神としての舞踏だったら、もう《禁色》からあるね。土方さんのなかにね。土方さんが、映画監督の篠田正浩さんに、俺は人の真似はしないと、俺は俺の新しいものを作るんだと、はっきりと言ってたっていうからね。人がやったことは全部、避けて通る。……と思いますよ、きっと。舞踏論をやんなきゃ駄目だね(笑)。

[2011.8.11/東京にて]

構成=山崎広太、印牧雅子


長谷川六はせがわ・ろく
ダンスワーク編集長。ダンサー、コレオグラファー。朝日ジャーナル、アエラ、毎日新聞などの寄稿、NHK BSエンターテイメントのコメンテイターなどを勤める。ダンス作品代表作には《薄暮》、《櫻下隅田川》など。《薄暮》は大阪などの国内公演を始め、リトアニア、バングラデシュなどでも上演された。2012年8月には新作《隅田川断章》を上演予定。TOKYO SCENE、アノニマス研究会、アノニマス舞踏会、PASダンス自由大学企画者。http://ameblo.jp/hasegawaroku/

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