Body Arts Laboratoryinterview

東南アジア・日本・コラボレーション

京都でワークショップ・フェスティバルを1991年から毎年4回やり、僕自身かなり疲れました。オーガナイズするのは物凄く疲れるんですね。お金の問題や、いろいろな世話、事務手続きの問題、泊まる場所、食事のケアなど、もちろん色んな方に助けられましたしボランティアもオーガナイズして来ました。でもやっぱり疲れる。そこで、これからは本当に自分が学びたい人のところに行って学ぶ方向にしようと。日本に東南アジアの人は物凄く呼びにくいです。まずビザが難しい。それと当時インドネシアが政情的に問題があって、いろいろな現代アーティストがブラックリストに載ったと聞きました。その人達が海外に行くときに、高い税金が課せられる。これだったら、タイかシンガポールに拠点を移して、そこでコラボレーションしたほうが呼びやすいと考えました。1996年にアセアン文化センター(当時)の委託事業でタイとシンガポールのダンサーを京都に連れてきて6か月位いろいろな作品作りをするパイロットプロジェクトをやったんですね。
そのときに、タイで特に有望なダンサーが一人いまして、そのダンサーの所属しているパトラバディーシアターという、タイで唯一現代的なことを継続している劇場で活動していた。その劇場のオーナーは桁違いの富豪で、作品作りのスポンサーであり、本人もアクトレス。その人が舞踏に興味を持ち、作品を作りなさいという事になり、チュラロンコン大学の演劇科の授業も持ちながら、タイでのレジデンスが始まりました、1997年です。
たまたま、幸せな事に、タイのジャパンファウンデーションの所長の小松(諄悦)さんが非常に舞台芸術に造詣が深く、好意的で、色々お世話になりました。その当時は日本のアーティストが東南アジアに来てコラボレーションするという例は乏しかったです、日本のアーティストは欧米に目がいっていましたから。そこで1、2年位いてしっかりコラボレーションしようと思ったのですが、足掛け5年はいましたね。それはもう人も食べ物も良かった。

―(笑)そんなに美味しいんですか?

食べ物は最高です! タイは絶対リピーターになる! 人はまず親切。そして、男女ともにマイルドで魅力的です。何よりもリラックスして仕事ができる、一年中寒くない、アジアのダンサーを呼びやすい。タイ人のアバウトでいい加減な所も馴れれば扱い易い、とにかく人はいつもニコニコしてポジティブ。タイマッサージは安い。だからリハーサル後はタイマッサージをする。それと、バンコクは世界で最も日本人コミュニュティが発達していまして、つねに10万人位いるそうですね。食べ物もちゃんとした日本料理がありしかも安いんですよ。そしてプール庭付きで家が保証されると。

―いいですね。

だから、どうしても長かったですね。
東南アジアで踊りのコラボレーションするときに、ヨーロッパの影響を排除したなかで独自にモダニズムの、現代的なものを作っていくことができるのか。おそらくは、日本人は江戸時代くらいまではできていたんじゃないでしょうか。もちろん、オランダ、中国の影響はありながらも独自の文化で独自の近代化を進めていきましたから、平和な鎖国時代に既に様々な文化芸能が発達し今日の漫画とアニメーション、ハイテクやロボット産業にしても土壌があるのですね。だから明治に開国したときに近代化の速度が他のアジアとダントツに違っていた。そしていつの間にか、俺たちはアジア人を超えている、どちらかというとヨーロッパに近い。つまりはアジアを見下す。

―質問は、そこで日本人として何を感じますか?ですよね。

現在、近・現代化が急速に進んでいっているアジアの状況を日本人として見ていくと、例えば京都でも、東京で作れないお能の世界の衣装や舞台上の小道具の伝承者がだんだん消えていっている。それがないと困るわけです。タイだとケーンという、笙に似ている楽器の例がある。そのタイの民俗音楽楽器とその文化を牽引していた歌手が年老いて消えてゆく、そしてそれに合わせた先祖伝来の楽器を作っている人も西欧音階に合わせるようになってくる、そして昔のものがだんだん消えていっている状況があります。そこで私たち日本人も高度経済成長の中で、ひょっとしたら知らないうちに失くしているものがいっぱいあるのではないかということに気づく。日本にいたら気づかないけど、消えつつある現場の東南アジアにいると気づく。
舞踏は失ったものを採集するってことが実はテーマとしてあります。日本人、または先輩として、日本のシフトの急ぎ過ぎを気づいた者として、アジアに何か貢献できることは、警告することですね。アジアの若い世代に対して、君たちはマクドナルドとかのアメリカの文化みたいなものにファッション性を感じて、そっちの方が好きだろうけども、でも君たちの古い文化は凄い大事なんだと。それは君たちがヨーロッパ、アメリカに行ったときに逆に問いかけられるんですよ。
アーティストとして大事なのは、ユニークな発想をどれだけ持っているかってことですね。コラボレーションするときに伝統的なものを拾い集めるだけでは若い人達は見向きもしないです。それよりは伝統的要素を抜き出し、現代的な感覚で今を問う作品に還元していく、先祖が継承してきた文化を大切にして伝えていかないと、いつの間にか悪い意味でグローバル化してしまう。そこら辺を日本人として気づく、あるいは逆に気づかされる。そして、出て来たギャップは芸術的なコラボレーションというかたちで提示することができる、特に舞台芸術はそれが可能だと思います。

―逆に東南アジアに接して、自分のルーツの発見はないですか? 似ているところを再認識するというか……。

はじめて東南アジアに6か月間行った時、日本に帰って来て、日本人ってどこにいるんだろうって思いました。周りの日本人を見たとき背後霊のようにその人の背後にこうダブるんですよ――この人はアボリジニのルーツ、この人は当然台湾、この人はモンゴル系の人、この人はひょっとしたらロシアやイスラエルの血が混じっているかも?みたいな感じで。そういう意味で言うと、日本人というのは純粋でも単一でもなくて、物凄いハイブリットだと。だからそのハイブリット性みたいなものが集まっているのが日本人だ。つまりマイノリティーの集まり。いつの間にか奢っているけど、実はマイノリティーが集まっている、そういうのを背負った民族。ただし実際に東南アジアでコラボレーションすると、問題が起こります。
日本人の感覚でいると、時間の問題、人間関係、上下関係や習慣、意識の問題などで、かなり差を感じますね。だから逆に言いますと、東南アジアの人とコラボレーションするときは、ヨーロッパやアメリカの人とのときよりはもっと気をつけます。ヨーロッパやアメリカでは、一度契約を結んで、お互い、所詮他人であることをはっきりさせるんですよ。東南アジアはなんとなく家族っぽい。そこで油断すると足をすくわれるんですよ。えっ、そんなこと考えているのかと、むしろ、あんまり家族と思わない方が、非常に違うってことを思った方がいい。つまり言語が全然違うでしょ。インドネシアはマレー語のアルファベットを使っていますけども、ジャワに行くと複雑なジャワ語です。バリ島はバリ語ですからね。マレー語ルーツのインドネシア語は過去形もなくてフラット、取っ付きやすいけど痒い所に手が届かない。

—次に、アジアにいて日本の現状はどのように感じているのか? 

これ大きな問題ですね。例えばJCDNの佐東範一さんや水野立子さんらが頑張ってダンス人口が増え、裾野が広がっているし、海外の人が来てアーティスト・イン・レジデンスしながら、いろいろな地方の村々が海外とコミュニケーションしやすくなった。日本に帰ってきて、驚くのは日本のコンビニが目を見張るほど進歩していますよね、ダンスもそうなんでしょうか?
僕が日本を離れたのは、一つは自分自身を客観化するというのもありますけども、何となく日本のシステムや若者に期待が持てなくなった。僕としてはハングリーで、どんどん吸収してくれる人に目がいきますからね。
でも、2010年でしたか、パリで大駱駝艦の麿さん率いる若手の振付家の非常に面白い作品を見せてもらいました。麿さんがそういうことをさせている、すごい親方だ。かなり前ですが、確か大駱駝艦の30周年記念に、大阪の吹田ホールに久しぶりに見に行ってがっくり来た。何故かというと、妖怪(麿さん)の周りに幼稚園の園児が戯れている感じだった。しかし、パリで若手の作品を見て、舞踏は不死鳥だ、まだまだこれから面白いことが起こるのではないかと嬉しくなりました。山海塾や笠井叡さん、室伏さんにしても若手を育てているし、しかも伊藤キムさんや山崎広太が、舞踏を懐刀に忍ばせ、コンテンポラリーな作品にチャレンジしている。このアーティスト達が日本の舞踊界のなかで中堅として活動している。という意味では、これからもいろいろな可能性がある。いいライバルが出てきたな「がんばろう」というのが印象です。