Body Arts Laboratoryinterview

大駱駝艦

旗揚げ公演は、牛込公会堂で、何かわけのわからない作品だったですよ。麿さんの演出だよね。私なんかぎりぎりまでショーをやっていて、出番だけ用意してもらって、飛びこんだ。

―あまり稽古はしないんですね?

いや、麿さんは演劇の方から来ているからちゃんとする。天児牛大も、大須賀勇も、田村哲郎も大駱駝艦の主要メンバーは演劇系でした。私とビショップは外来だよな。麿さんは人気があって、研究生を募集するとワーッて来るんだよ。だから、いつも人が結構いて、女の子も、男の子がすぐ見つけてきて、資金稼ぎでショーをやる。

―麿さんのところは、多少お金はもらえたんですか?

少しだけど。それで寮生活がはじまった。研究生には払わなかったと思うよ。皆で制作して、麿さんの給料も出たしね。その後私が制作に入った。次の年には、春、秋と2回公演をってね。京大の西部講堂や名古屋・七つ寺でやりました。京都は高瀬泰司のひざ元で、土方さんや唐さんが東京で公演すると必ず西部講堂でもやってた。

―では、土方さんとは、あまり関係がなくなっていたんですか?

そうじゃなくて、駱駝が旗揚げの年にアートシアター新宿の《四季のための二十七晩》に何人かかり出された。その後が渋谷の西武劇場でね、ビショップと大須賀がかり出されたんだ。

―いまのパルコ劇場。《静かな家》ですね。

そういう交流はあったわけだ。われわれも大森の山王に立派な稽古場を見つけて、土方さんの目黒とも近い。皆で車で走ってたから、土方さんが迎えに来いと言ってみんなで飲んだり、公演があると、土方さんが必ず観に来て稽古場にも来た。それで《静かな家》が公演としては……。

―イマイチだったんですよね。

イマイチというか、前半と後半で長かったんだよ。

―あの頃から東北歌舞伎を確立していたんですね。

いや、確立しだしたんだよ。《静かな家》の方が、テキストも吉岡実の詩で、東北一辺倒ではなかった。最初東北と言ってなかった《四季のための……》のほうが、いわゆる瞽女の踊りが入っている。玉が男のリーダーになっていて、駱駝の人たちも混ざって出演しているはずです。私は出ていませんが。この間ビデオを見ていたら、芦川さんたちが下駄でガサガサと瞽女を踊る「疱瘡譚」のパートは、エネルギッシュだし見ごたえがあるよね。そのときすでに土方さんは、「衰弱体」を踊っています。あれが土方さんの頂点。

―《肉体の叛乱》から《四季のための二十七晩》《静かな家》まで、土方さんの中ですごい変化があったわけですね。

そうだよね。東北歌舞伎を名乗るのはその後じゃなかったのかな。それで、アスベストの定期公演を、2か月に1回程度でやりだす。それが74年かな?

―芦川さんを中心にした白桃房が。ということは、76年の白桃房のファイナルの《鯨線上の奥方》まで、全盛期が短いんですね。

2か月に1回だから、やりすぎじゃない?

―その頃、駱駝系とアスベスト系は、室伏さんにとって、どのように見えていたのでしょうか? その違いなど。

土方さんは、生き残り的なスタイルを作っていった。額縁舞台だしさ。駱駝艦は違うじゃないですか。麿さんもわれわれもまだ若かったし、2年目、3年目の駱駝の公演が面白かったのは、皆のアイデアが稽古場で花開くわけ。麿さんが偉かったのは、それを小さくまとめないで、ワーッとやろうぜと、タフな「天賦典式論」で、皆のアイデアが面白おかしく派手になるわけね。男たちのエネルギッシュなスペクタクルを麿さんがまた好きだから。で、天児がタタキなんだよね(笑)、ウラの仕切りが天才的だった。
土方さんが《肉体の叛乱》をやった日本青年館で私たちもやりたくて、《陽物神譚》という作品を上演しました。澁澤龍彦にアルトーをベースにした小説があるんだ。ヘリオガバルスというローマの少年皇帝の話なんだけど、何故か土方さんが、「駱駝がやると似合うぞ」と言った。澁澤さんに会いに行きたかった口実なんだけど。それで、皆で澁澤さんに頼みに鎌倉へ走ったんですよ。《静かな家》の直後。その駱駝の公演が、土方さんの最後のナマの舞台になったんだよ。

大駱駝艦からの分派

次の年、74年に、われわれは多摩川の川っぺりを借りて、8月から9月の毎週末、6週間《皇大睾丸》を公演したんですよ。台風シーズンで、毎回みんなで電源車をロープで引っかけたりしたけど、9月になって本当にトラックが流されて、上の方からもピアノとか家が流れてきたよ(笑)。機動隊も来て、素晴らしい公演でしたよ。電源車の数百万円と、4トントラックが潰れて、そんなこんなだよ。それでもわれわれ金持ちだったんだよ(笑)。秋の公演を中止しないで、やったんだ。また、土方さんが「《男肉物語》だな」とタイトル=題字を書いた(笑)。ショーがはねると六本木のディスコに天児とかと寄るんですよ。あるとき、国士舘大学の空手部がトイレにいて、こっちは革ジャン着て丸坊主だろ(笑)。「どちらさんですか?」と聞かれて、踊りやってると言ったら興味持って、「手伝いたい」と言うから、お前ら一緒に遊びに来いとなって、大塚主将が空手部の連中を連れて来たんだよ。麿さんは、舞台に出そうと(笑)。みんなの背中に富士山の絵を描いて、エキストラで出した。そしたら、国文学者の松田修先生が喜んじゃってさ。そうして楽しくやっていくうちに、それぞれの個性が分派するようになって、最初はビショップが東北の鶴岡に拠点を借りて、北方舞踏派をはじめた。

―それはいつですか?

私の「背火」も76年だから、75年頃だと思うよ。駱駝の分派は麿さんが許したんですよ。ヤクザ的なんだけど、条件は、3割を本艦に入れることだった。私はカルロッタ池田さんを中心にアリアドーネの会という、女性の会もプロデュースして、彼女はモダンダンスのキャリアが長いから、駱駝とは分けたんだよね。その私のマネージメントが稼ぎ頭だった(笑)。

―やはりショーで稼ぐんですか?

そう。作品は駱駝とは違う感じで、ショーっぽいキャバレーの要素を持たせようとした。土方さんもキャバレーでしょ。どちらかというと、東北歌舞伎より暗黒宝塚と言ったほうがよいかも(笑)。アリアドーネの会は、《天国と地獄》の曲で、女の子にカンカンを踊らせてみたり、《牝火山》(笑)という作品をシリーズものでやったの。土方さんも見にきて、面白いと。われわれはエネルギーがあったんだよ。女の子の裸がふんだんに見られるでしょ。別に裸が売りではないんだけど、私なんか強引だから、スポーツ新聞や週刊誌に売り込んで、あの頃はアングラのノリだから、取材に来てくれた。だからお客さんがたくさん入ったんだよ。

2.

裸について

― 裸体になることは、どういうことでしょうか? たとば裸を人前で晒すことが、社会的に風俗的捉え方もされることについてはどうでしょうか? 土方さんも白桃房以降、舞踏をやめて、ショーのお店を経営することに楽しみを見出していました。僕は、昔からそういうことに少し抵抗を感じていました。

風俗壊乱はひとつの叛乱ですね。剥き身という生は、犯罪に接している。裸体になることは、非日常的な状態なわけです。だから衣装を着けているものからすれば、プライベートの、私的所有の部分が曝されるわけだから挑発的だ。誰のモノかって。制度的な衣装=日常的なものの死、裏返し。ステージに出てきて裸体になることは、いわゆるAというアイデンティティの死であり、AがAじゃない、非Aになるわけだ。ひえ~って(笑)。女の子にすると恥ずかしいわけじゃない? 男だってそうですよ。土方さんのときは、最初裸体になって稽古場に立つ。一番痛烈に自分の身体の他者性=死に直面させられることですよね。それからどうやって立たせるかということなんですよ。

―また、共同体だからできることもあるんですか?

不可能なものの連続性、明かしえぬ死の共同性。土方さんの志向も実際そうなんでしょうけど、裸体が並ぶと、いわゆる個性が際立つと同時にその否定、無個性というものがでてくる。物質としての肉体が強調される。男が5人くらい一緒に顔を隠してグーッと傾いている作品がありますよね。ああいうマテリアルのなかにある生命体(の死)、つまり非常にアンヴビヴァレントな状態は、身体にとっての「危機」だよね。そうすると、「踊る必要ない、立って傾け」となる(笑)。そこで倒れませ~んと立っている残酷でかわいくてちょっと真面目な滑稽さ加減。死体の模擬。それが、土方さんの、クライシス=危機に立つ身体にある。それは多分、カッコよくショーダンスしてしまうことの裏で、そこでは、インポテンツな存在そのもの、あり方そのものが踊りとして成立していくよな。そこが私の好きなところなんだよ……。

―白桃房のときも、ほとんど動かない暗いシーンもあると思うのですが……。

あそこはもう完全に暗黒宝塚で、ダンスだよね。私は初期の舞踏(?)は見ていないんですよ。《肉体の叛乱》の前のものは、映像の記録も少ないし、聞いたり、写真で連想するしかない。ムーブメントとしては、日本のアーティストたちも混ぜこぜになって何かやろうと、非常に前衛的だった。音楽も美術もそうだけど、あるジャンル性を崩してしまうことが主流としてあったでしょう。そこがスリリングですね。

危機に立つ身体

―室伏さんは、木乃伊になっていますね。

そうそう。踊りが「お」で止まってしまうところで、踊りの前に踊りを発見するというかな。一つの様式としてあったかたちをそのままなぞることに対しての不可能性がある。だから素直に絵描きにもダンサーにもなれない。ダンサーでオーケーという人だったら、それでいいんだよ。

― 僕の最近のプロジェクトでは、ダンス経験のない人を対象にして、どのようにパフォーマンスするかということを考えています。それは僕にとって、すっごくアーティスティックな取り組みで、今後続けていきたいと思っています。ダンス・テクニックは全然使わないで、しかし、あるルール・システムが必要です。そういうテクニックは必要になってきます。まったく踊らないことが面白いですね。

それは何故?

―世界的に「動かない」作品が玄人受けしているんです。JCDNなどでの、ダンス未経験者の方との仕事で僕なりに考えさせられ、数日前のイベント「We Dance」で、動かない踊りを模索し、少し自分の回答を得ることができました。

ワークショップをやると、自分の身体の質への自制、自覚のために手を貸すベースを私は持っていると思うんですよ。でも、舞踏を技術として教えていくみたいなことは、ほとんどない。そうすると何やってもいいわけだよね。

―(笑)でも、室伏さんのクラスには、しっかりしたメソッドがありますよね。

何だお前、見たことがあるのかよ。

―インパルス・タンツ・フェスティバルで、僕のパートナーの西村未奈が受けたので。土方さんとは違った意味での、室伏メソッドがありますよね。

身体能力や身体の可能性みたいなものを掘り出す、そのためのエクササイズでしょ。技法以前の技法、それがなにかなっていっしょに探す。それが踊りなのかどうかは、まあその生徒が自分で創るときに利用できればいいね。たとえば、硬直するとか、痙攣するとかいろいろある。でもそれも使わないで、みんなでインプロしてみない?って、水のイメージ、氷のイメージでまっすぐ歩くだけでもいい。それによって動いてくるんだけど、その後のインプロになると、その場で彼らが即興的に、踊りにたどり着こうとしているのか、踊ろうとしているのか、すごく目覚しいものが見えてくるときがあるよ。

―僕は、ある行為をすることを否定することによって、なおそこに存在することで、生命、ホモサピエンス、哺乳類というものが見えてくる瞬間が好きです。あー、やっぱり人間は生き物なんだな~と再確認。

木乃伊

―室伏さんは何故、木乃伊を見出したのですか?

出羽三山の周りに7体くらいあるよね。異様だけど、ただし、見ていると刻々と変形し続けている(笑)。「へ~長生きしてますね」と。木乃伊は死んだわけではなくて、死というものに毅然として、死を体現しつつ生きているみたいに見えるわけですね。土方さんに、必死で突っ立った死体という言い方があるけど、結局死体だって踊るじゃない?すべての生は崩壊の過程だし、崩壊そのものが踊りだと。木乃伊がそれに近いと思った。即身成仏。自分が在ることがミイラ化していってる身体。木乃伊を最初にやったときは、福井での《虚無僧》という公演だったんだけど、ちゃんと棺桶に入って、中に火をグワ~ッと燃したりして(笑)。麿さんが全体を演出したんだよ。でも麿さんに、今回は私が主役だから出ないでくださいと言って(笑)。福井の昔の蚕の農家を稽古場に改造したんだよ。すごく大きな蔵が付いて、そこでみんな寝泊りができて、すばらしいところだったよ。

―それは何年ですか?

76 年。春ずっと工事にかかった。全国から1000人くらい来ちゃった。入りきれない村の人たちのために一日余分に公演した。面白い公演だったと思うよ。『アサヒグラフ』のトップ記事にもなって、2階のステージに200人くらいのところを、300人くらい入れたから、終わってみんな立ち上がると建物がワーッと揺れるんだよ(笑)。土方さんも芦川さんや玉野さんと来たしね。越前海岸で皆で泳いだ。私の木乃伊は迫力あったんだよ。泥に埋もれてね。

―相変わらず猫背で?

そうそう(笑)。動くことの不可能性が、ミイラの問題で、でもそこから動くにはどうしたらいいの?ということがテーマになっていたと思うよ。それをほぐしていくには、どうしたらその動作が発明できるか。電気風呂なんかで稽古していたな。