Body Arts Laboratoryinterview

《ラマッラーでの6秒間》
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Hugh Burckhardt

旅、ニューヨーク編 2

―例えば第二次世界大戦があって、その後に日本の経済が復興してくる状況に対してはどうお考えですか? アメリカとの関係も含めて。

最近会った人で、わたしより少しジェネレーションは下なのかもしれないけれど、彼女はわたしに言い切ったんです。60年、70年に起こった、基地に関する日米の条約をめぐる安保闘争、また新宿騒乱があったり、国際反戦デー、4・28沖縄デー、9条改憲阻止、反安保反戦、ベトナム反戦運動だとか、いろいろな状況を過ごしてきて。「でも、それを全部経て、今思うのは、皆まるごと、頭が洗脳されていたんじゃないか」と。その運動自体が。
当時に思ったこと、思っていた言葉、その時に抱えた言葉だとかを、時間が経ってわたしが生きてきた歴史がいろいろ起こったあとに、今、この住んでるニューヨークで、頻繁にインタビューで聞かれるわけじゃないですか。何故来たのかって。そしたらわたしは、時間を30年前に戻して、その言った言葉を整理して言おうとしてるのか? その辺は、わかんないのよ。一つの国、二つが重なっている国、三つ四つのときもある。土地、文化、言葉があって。70年というのは、やっぱりいろんな意味で過渡期だったと思う。自分を問う。自己否定なんて言葉も出て来て。日本に限ったことではなくて。世界にとっても過渡期なんだけど。わたしもやっぱり自分に問いかけて。
1967年、唐十郎は、新宿・花園神社境内に紅テントを建てて、《腰巻お仙》を上演したんだけど、神社から「国体に反する」なんて言われた。その頃わたしは、まだ大阪の下町に住んでいて、紅テントのことは全く何も知らなかった。紅テントが話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけた。新宿西口公園にゲリラ的に紅テントで公演を決行。機動隊に包囲されても最後まで上演を行ったそうです。噂の秘密のような刺激的な国体に反する行動でした。わたしもそれから何年か経って、金沢に住むようになって、噂を聞いて、「紅テントがね。花園神社でね。」という言葉を吐いていた。でも、噂の真相は、その時には、わたしは見たことがないんですよ。初めて紅テントを見たのは、大船で、74年くらいだったのかな。
「アングラ四天王」って誰のことか知っています?アングラ演劇の四人の演出家。「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信、「紅テント」の唐十郎。そこに横尾忠則や粟津潔ら、美術家が敏感に加わって、ポスターなんかをどんどん描いた。どこかで見たことあるでしょう。粟津潔さんは、2009年に亡くなりました。戦後から、亡くなるまでとても重要な役割を担った人です。今、ウェブを見ると、横断的アーティスト&デザイナーと名付けられている。その通りです。彼曰く、「旅とはまた一つの映画を見ることに似ている。あるいは、その主人公にでもなったように思い込んでいるところが無いでもない。旅することは見ることであるが、また同時に見られることが旅でもある」。その当時は、みんな、特別な旅をしていました。それは、個人の旅であったり、集団の旅であったりするんだけど、その集団の旅が、運動とかという言葉でくくられている。わたしなんかは、自転車旅行をしているようだった。でも、飛行機でニューヨークに移動する旅は、比喩の旅からのディパーチャーで、そこからほんとに本格的な映画になってきた。白黒映画に。

わたしは足立正生という人物に会ったことはないけれど、いつも耳を敏感にして、彼の行動を気にしていた。30数年経った今でも。足立正生は、60年代の学生映画界の寵児でした。35mmフィルムでもちろん自主制作です。「非公開を目的とした映画」と名を打って、《鎖陰》という映画を作りました。その一部がハプニングというかたちで上映され話題となり、学生が長蛇の列を作ったという噂があります。今、「非公開を目的とした何か?」と打って出て作品が出来るなら。けっこう洒落ているでしょ。それで、観客が長蛇の列になるなら最高です。みんな特殊な作家兼運動家でした。実験音楽も同一線上。足立正生、唐十郎や山下洋輔ら若手芸術家の筆頭の名前が、噂になって流れて、わたしもその噂に気が付いていた。
若松孝二という映画監督は《キャタピラー CATERPILLAR》で、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(寺島しのぶが最優秀女優賞) を受賞したでしょ。足立正生と若松孝二は、1971年のカンヌ映画祭のあと、パレスチナに渡ったんです。パレスチナゲリラの日常を描いた《赤軍-PFLP・世界戦争宣言》を撮影・製作。わたしはその頃金沢にいて、その上映会に出席している。その映画を見ました。でも、その映像の記憶はあまりないんです。うっすらとあるんだけど、それはあとからくっついて増長してきたものかもしれない。だから本当の記憶なのか、自信が無い。それからほぼ40年弱経って、わたしは今年の12月にパレスチナに初めて行きます。パレスチナの《ラマッラーでの6秒間》という作品の準備のためです。このタイトルは、ジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』をツイストした題名です。
アンダーグランドで映画を作っていった人たちの噂は広がっていって、自己を問う社会現象は浸透しましたね。末端のわたしのような人までにも、噂は聞こえていたんですから。過渡期の、その時代背景があるから、皆、すごい作品を作った。一人のアーティストが、作品の中に、とりたてて、声明を表現したかったのかどうかわからないけど、アブストラクト(抽象的)な映画が、結果的に、政治的な映画になって声明を示している。ナンセンスだし、同じ映像が繰り返し流れていたりして、見ていて退屈なんだけど、全部見終わったあとに、何かの声明が残っている。不思議な時間の経過で、映画を観ている。特別な旅でした。わたしが、その時点でどこまで理解していたのかっていうのは、答えは、そんなに理解していないんじゃない。今から考えれば。

東京では最先端のニューカルチャーが近い距離で体感できる。今でも変わらない感覚ですかね。東京に興味がありました。わたしは金沢に5年住みました。金沢から東京。金沢から北陸線の夜行列車で、直江津線に乗って上野に出て、初めて泊まったところが、米軍ハウスだったんです。立川にありました。1970年頃から、米兵が基地内のハウジングエリアに移り始めるようになって、立川米軍ハウスは、空になっていたので、うろうろと集合場所を探していた多くのミュージシャンや小説家、美術家が、便乗してそこに移り住んだ。何かの運動、例えばカルチャー的運動があるときに、そこから率先して、インフォメーションを持って、特別なウィンドウを掲げている人がいるわけよね。そうなった時に、いつも反対の条件が起こることがあるよね。ベ平連とか、いろんな運動をやっていて、いわゆる東京の文化人達が起こした思想、その戦争反対、云々。だから時代背景的には、その人達と、いろいろコネクトしていると思うんだよね。そのわたしたちが米軍ハウスの空き家に移り住むとか。その最先端の人たちがやっていたレコード屋が、南青山のパイド・パイパー・ハウスっていうところで、売ろうとしたレコードは、否定形で言ったら、演歌は置かない、ポップソングっていうのは置かない。何があったのかというとフォークソングとクラシックとニューウェーブの音楽だったよね。

―70年代後半のその頃、僕は、大衆に対して戦うことで、大衆そのものを嫌っていた。つまり大衆と一緒にならないこと、違うことをすることが自分の使命でした。西武やパルコが出た時期で、その後にマイケル・ジャクソンが出ました。ヨシコさんの場合は、60年代を引きずっているようにも思えるんです。

わたしが高校時代に、丁度私の後ろにいつもいた男の子が村田くんといって、その子はジャズが好きだったのよ。彼が難波かどこかのテイクファイブだったかジャズ喫茶に連れて行ってくれたことを覚えてる。その時に、わたしがジャズがわかってきたとかじゃなくて、何か物珍しさ――ミニスカートとボレロが一緒になっているのを履くとか、ジーンズを履く、タバコを吸う、髪を長くする(笑)、その、最先端を行っているという、物珍しさの主張があったと思うのよ。今は、ユニクロにしても、物珍しさに対して大衆文化じゃないですか。ユニクロを着たって別に主張しているわけじゃなくて、プラクティカルに安いし、軽いし、長持ちするし、ユニクロならば、やっぱりユニクロなのよ。
わたしがニューヨークに来たのは必然だったかもしれないけど、偶然の重なりの必然でね。いままで喋ってきたこととか、あとは破綻したニューヨーク。散々たるニューヨークというものがあって、危険であるハーレムがあって、もう物騒なところだと。それと相反してアメリカン・スピリチュアルが揺らいできたのよね。ヒッピー、フリーセックス、ドラッグといろいろあって、一方、ベトナムという凄く深刻な戦略戦争――そんな言葉使ったことないけど――みたいなものが、かなり長い間続いていた。それに関して、アメリカが正義として戦争に介入していく議論があり、日本に対しても原子爆弾を正義として落とさなければ戦争が終わらなかったという、その肯定として提議があったりしました――その辺を言えば、もっと複雑なんだけれど。でも巨大な資本国というアメリカから、リーク、漏れた、カルチャー、ニューウェーブ・ミュージックだとか、いろいろな運動がアメリカの土台の上に乗かって、それが日本と握手して、それがウィンドウになっていった。
ニューヨークという街自体はアメリカじゃないから、その辺はまたクリアーに、そうだったのかどうか……。20世紀の初めに、アイリッシュ、ジューイッシュのゲトーから始まってきたものがあるじゃない。だから、わたしのことを直接的に言う前に、わたしよりも前のジェネレーション、1960年代くらいにマンハッタンに来ている人たちが何故来たのかはインタビューした方がいいかもね。それをニュージェネレーションって言うじゃない。ティピカルな中産階級の、文化とか何とか言いつつ、ボソッと来たわたしたちのような人たちとは、また違う歴史を持っているんじゃない? 大地のなかで、1965-75年くらいの一つのものすごく激しいスパンだったと思う。その後の残りとして、わたしなんかは曖昧な判断で、曖昧な状況で来たんだよね。だからはっきり言えば適当だったんじゃない?(笑)