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生西康典[演出家|wwfes 2015キュレーター]
2013年の春、文化人類学者で在家密教行者の佐藤剛裕さんに、彼がネパール山間部のチベット文化圏に滞在して修行しているとき撮影してこられたマニ・リンドゥ祭でのチベット密教舞踊の映像を見せて頂いた。この仮面劇を見ると、インド、チベット、韓国、日本など広大なアジアの文化圏の連なりというものが一目瞭然であるように思われました。
この事が契機となり、今回、アジア圏のシャーマニズムや舞踊などに詳しい識者の方々を招いて、資料映像を見せて頂き、レクチャーをしてもらうことを企画しました。
「アジア的身体について」と大風呂敷を広げてみたものの、その企画者である自分自身が、今回の登壇者の一人である武藤大祐さんに問い直されて初めて「アジア」と「身体」がどう接続されるのか、きちんと考えたこともなかったことに気づきました。
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最近、西洋と東洋での視点の違いに思いをはせることがありました。
コルビュジエが設計したラ・トゥーレット修道院についての本を見ていたときのこと。彼に仕事を依頼したアラン神父が設計図を見ている写真が掲載されていました。床に図面を置き、直立して、それを俯瞰から見下ろしている神父の姿。僕はこの見方に衝撃を受けました。これがひとつの西洋的なものの見方の典型ではないかと。
では、対する東洋的なものの見方は何かと考えた時に思い出したのは、版木に額が擦りつくくらい顔を近づけて彫っている棟方志功の姿でした。限りなく対象に近づき、全体が見えていないはずなのに、不思議と全体は調和していく。
私見ですが、西洋では一点に集中していく消失点の存在する遠近法を持ち、唯一の神と対話を重視します。そして教会では残響音が重視されるそうです。残響を聞く意味は多様にあると思われますが、ひとつには自身が存在する空間の広さを把握し、全体を捉えること。それは空間への身体の存在のさせ方を指し示していると思います(自然界でも、鳴き声を遠くまで響き渡らせる反響という音響効果は、多くの動物たちにとっても魅力的であると言われています)。
東洋では霊的な存在が空間に無数に遍在し、視線が決して一点に集中することはありません。そして音は空間の広さを指し示すのではなく、むしろ大気に溶けていくように感じます。そして、その音は消えるわけではないのです。鳴っている音だけではなく、その間の沈黙をも音楽と聞き取ることとも、このことと無関係ではないと思います。
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西洋と東洋という比較は、ざるな議論でしかないとは思います。アジアとひとくちに言ったところで、あまりに広大なのです。ですが、そのアジアの極東に位置する島国に住む自分のことを思い返してみても、知らず知らず西洋の基準が規範になっています。そして東洋、アジアというと、途端にオリエンタリズムや、フォークロアの範疇に入れられてしまうのです。このことは身体表現の世界を見ても感じることだと思います。
今回は「アジア的身体」がテーマですが、そうした自分の立っている足元についても、改めて考察することになるはずです。これは2015年秋に開催予定のwwfes whiteのテーマである「不可視の身体」へも繋がっていくことでしょう。
Photo: Photo:Body Arts Laboratory