Whenever Wherever Festival 2021

キュレーターノート

WWFesが描く身体像とは


西村未奈

身体像や身体のあり方は、キュレーターそれぞれの方向性もかなり違うと思うので、まとめるの難しいですよね。個人的には、確立した有機体としての身体の物質性を超えて、知覚だったり気配だったり、不在の中の存在、だったりを含め身体の新しいオーガナイズの仕方に興味あります。広太さんの影響もありますが、そこから、やはり、分裂的で、アナーキーな身体や場所性の必然性もあり。そしてそのような身体や関係性の受け皿あるいは、呼び込む条件として、幽霊性や闇(陰翳礼讃ではないですが、全てが白日の元にあからさまでなく、常に霧がかってる状態)。明るい中では、動的なものは矢印になりがち。全てが明確にどこかへ向かって進むことを強要される。曖昧な状態では、エネルギーが分子状に漂い、常に、予想外の分子と分子が結びつき、全く関連性がないと見える、動的な現象でも、連なって繰り出すことができる。エネルギーの状態でいうと、空白は、無ではない。エネルギーが一方向に動いてアクションして形に出ないだけで、分子状にバラバラに漂っている状態。身体や空間のエネルギーの総量は変わることはないので、静寂や、無の時は、エネルギーが形を変えて潜んでいるだけ。予期せぬ形の現象や、未知のオーガニゼーションが生まれる為に必要な状態。


福留麻里

本当はいつでもどこでもいい。いつでもどこにでも行ける。あるゆる場所、あらゆる時間にいることができる。わたしたちは常にバラバラで、お互いを理解することができない。理解することはできないが見せ合うことができる交信することができる感じあうことができるお互いに浸食しあい、跳ね返し、混ざり合いながら、それぞれの知覚は変化する知覚の振動で身体は揺れ動く揺れ動くバラバラな身体が空気を揺らし、そこにはある磁場がうまれる。揺れ動くバラバラな身体は、またそれぞれの場所に散っていく。それぞれの場所で新しい磁場を生み出し、集い、また散り、言葉よりも速いスピートで、世界を変えていく。


Aokid

街の中 青い、山。目指してあるいているわたしんたいたち
2角目(ふたつのめ)とじると見える2つの街
2つのやり方 2つの目 2つの街
半分の体で歩いている。半分の街がわかってくる。
半分空白、半分街、
街のハーフタイム、
半分寝ている、半分歩いている、朦朧とたどり着く、
正体
青山さん、


木内俊克

WWFes2015と2018を両方通過して思うこととして、2015と2018のあいだで感じた空気感の違いは、端的に言って2018の方がより多方向に、多層的に開かれた感じがしたということだったかと思います。なんと言いますか、2015までは今回で言えばBIC的な明快さとストイックさに向かうものが多かった印象、2018ではそれがよくも悪くもゆるく花開いた感じがしました。凡庸で洗練されていない身体がそこにいてもいい感じと言いますか。未奈さんの言葉でいえば、明るさに非自覚的な矢印にとらわれてしまっている身体もそこにいて共存している、でも未奈さんや広太さんやその場で入り乱れるアナーキーを眼前にして、それ以外の潜在性に気付くチャンスが与えられているような。なんとかそのようなニュアンスがうまく出せないかなと。wwfes2018に感じた、日常と別次元がなぜか無理なく共存しマーブルになり、凡庸さにまみれながら、未知のものの強度が活性しているような感じが指摘できないかなとか。
今回の枠組みで言えば、だからこそ、BICの前後なのかまわりなのかにマーブル模様でWWFesが絡みついている感じに意味があるというようなことが言えないかなとか。


村社祐太朗

未奈さんの文から、「明るい中では〜矢印になりがち」「空白は無ではない」といったところは、待機のコンセプトが出てきたときに木内さんが指摘してみなで一番面白がっていたのとほとんど同じ意味だなと思います。そのときは木内山川沢辺村社でmtgしてました。コロナ禍の停止・非日常は、解像度を変えればもっと別の何かとしてすでに駆動して、それにみんな気づいている。そのことを何かのことばで名付けられないかと悩んで、待機が出てきました。わたしの書いたリード文はその肝心なところを明言しないかたちになりました。待機に塔をつけて、待機を読み手の頭の中で刷新させたかったというのと、これは多分ズルいですが、「明言すること」それ自体がこのーフェスティバルに向け高まっている中の人が抱える気運と逆行していると感じたからです。
個人的にはどんなコンセプトが掲げられようと自分の取り組みはなんの影響も受けない気がしています笑
また「待機塔」は個人的には一番大きな傘なので、にもかかわらず周辺にある実際の塔というイメージを皆さんに植え付けているといういまの状況はすごいスリリングで面白いです。代理戦争というかマイクロスケール実験というか。


山川陸

WWFesは、Invisible Cityから「らへん」を見つけ出しつつ、その見つけた「らへん」で自分も遊んでみるというか歩いてみるところまでやっているのかな、と思いました。WWFes自体に動きまわるような感じが出てもいいなと。地図は現地ではないが、地図を歩くことで現地に近づけたり、現地が変化していったり…?モデルと混同するのとはギリギリ違うことが起きているのでは?とも。


山崎広太

ダンスの持っている可能性は、至る所に既に存在し、至る所でダンスが起きている。この私(山崎広太)が現在書いている鉛筆さえダンスになる。そして、いつでもどこでも、いかなる場所でも、いかなる関係性においてでもパフォーマンスは成立する。日常とダンスとパブリックスペースを、有機的にかつ新しい視点で結びつけることを通して、アートとしてのダンスと、私たちがこの社会で生きるということの関係性や意義を、抜本的に捉え直し、今後のダンスに向けて新しいエネルギーを生み出す。どんな些細なことからでも立ち上がるダンスのアイディアを共有、経験していく。

Photo: Photo:Body Arts Laboratory

背景画像を表示