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「えぇ、あぁそうですね。」
深緑のネクタイに新調したシャツに身を包んで鞄も持たずに駆けていく。
「たしかにあの人は雨の日にコーヒーを砂糖3粒掻き雑ぜて飲んでいました。」
9月にしては肌寒く太陽も出ていない。ひとっけも少ない道を進むと不意に、家の前から聞こえてきたショパン ワルツ第1番華麗なる大円舞曲。今は気分じゃないと思いながら気づけば肚に力が入る。そういえばあの子もこの曲をよく弾いていたな。ライオンの様に髪を振り乱し、金と銀の彫刻が天井へと高鳴る。
ライターを取り、縒れた皮膚を伸ばしてみてみかんを1つ頬張る赤らんだ顔と窓に映る二つの目。
「元気にしてましたか?」
「久しく、島には帰っていないもので。」
ひどく黒光りした鴉が寄ってきて湿った身体を擦り寄せてくる。自分もからだを湿らせて、目の奥は何をおもうのだろう。何も考えずひたすらただひたすら居たい。坂道から覗く月を2人で歩きながらポケットに手を入れるとそういえば駄菓子屋で買った飴が入っていた。最近テレビは煩いのでラジオをつける。ショパンの大円舞曲が今度は心地よく聴こえた。
耳の奥から沈んでいくビー玉の様に深く透明で特徴の無い物体が身体を駆け巡り、熱くなり、熱くなり、熱くなる。
煌びやかなタワーなんてないけども。高級なデパートなんてないけども。みかんを頬張る赤らんだ顔をじっと見つめて。
Photo: Photo:Body Arts Laboratory