Whenever Wherever Festival 2021

山野邉明香|風景の中にだまができる

山野邉明香
《風景の中にだまができる》

地下から地上に上がっていく、長いエスカレーターの一段一段を縁取る蛍光色のギザギザがバランを連想させ、そこに乗せられて流れていく人の列を見て回転寿司を連想する。今日はそんな日だったようです。

私の胸の中に縦に長くかんぴょうが居座っています。かんぴょうは昔ながらの素朴な江戸前の、黒に近いぐらいの赤茶色、濃い味に甘くくたくたに煮てあるものです。寿司にされる前、カットされる前の、長〜い、太く分厚く、煮汁がびしゃびしゃしたたったものです。そのかんぴょうが舌の根元のあたりから喉にかけてみっちりぱんぱんに詰まっていていて、それは喉元、その下の胸の中のぽっかりした部分まで続いて、みぞおちの上のあたりでとぐろを巻いています。

かんぴょうと喉の間にはピッタリと隙間がないので、くたくたに煮てあるかんぴょうからは煮汁がしたたり、染み出し続けているのですが、それを染み出したそばから私の器官が吸い込み続けています。味覚のない器官なので味は感じませんが、甘くて味の濃いものを飲み込んだときの、もったり、少しびりびりとする感覚を満帆に抱えていて、あまじょっぱい液に反応して私の器官も液体を出していると思いますが、私の器官に密着したかんぴょうの方も体液を染み出るそばから吸い込み続けていて、お互いに染み出しては吸い込み続け、だんだんと境目がわからなくなって、混じり合い、その感覚はどんどん広く広域に広がって、私は膨張しながらかんぴょうと一体になっていく……
私は苦しいです!

地下から地上へ上がると一瞬の抜け感があり、開放感。けれど私には目的がありません。
「夜」になっています。人がたくさん動いてそこにいますが、今、人は人として目に映ってきていません。木もありますが、木も。ネオンと呼ぶには整然とした感じもするネオンサインの存在感、スクリーン広告映像のチカチカ光る動きが街の動きの主役になっていて、木も人も生物感は醸さずにそちらの方と一体化して視界に無機的に溶け込んで見えます。

路上生活者と思しき人が、何か探しているみたいな動作で心許なさげに動いてますが、それが風景から浮き出てきて人間に見える…。前を見るのに疲れたので上を見上げると、木の葉っぱの先っちょの2枚だけがなぜか、どこかからの空気を受けて、激しくぴらぴらはためいています…鳴いている虫の羽みたいに!

目的を持たずに歩いていると、ゆっくりなのに人にぶつかりそうになります。車にもプッとクラクションを鳴らされたりして…。人々がみんな目的を持って動いているので、その流れの中に混ざりあわずにぶつかるのでしょうか。川の中の石を連想する。私も目的があるときにはマシンのように街をすり抜けられるのに。今私も街の風景から浮き出て人間に見えるのだろうか…。
ネズミがいた!!こわーい!!
いつもは気にならない商業ビルのエアコンの室外機が妙に気になる。ものすごく沢山かべにはりついています。ひとつひとつにちゃんとテナント名が書いてあるんだ…
自分が風景から浮き出たようになっているとき、同じように浮き出たものにシンパシーを感じて響きに反応するのを感じました。

あ、大変だ、バイトに遅れます。駅へ急ぐ!駅に向かって歩き出すと目的モードに意識が切り替わっています。意識がシフトしたら走ったって全然大丈夫!街の風景の方に溶け込んでいく。駅の中も一帯に満遍なく人が動いているけれど、誰にもぶつからない!

Photo: Photo:Body Arts Laboratory

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