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透明なsite specificに参加して一番感じたことは、通行人、ダンサーに限らず、無意識に「気、意識」を発生させていることです。
waiting を行なっている私達は、現在の一点に意識を繋ぎ留めようとする。それも爆発寸前の内的感情を持ちつつ、表面上は何事も無いかのように平静を装いながら。一方、通行人の方々は、自分が「行く場所」へと意識を近い未来へ向かわせ、あるいは気兼ねして過去の思いを引きずりながら。
この「静」と「動」、「現在の一点」と「現在より先・後」の『意識』の方向性の相反するコントラストが、やってみた後に非常に面白いと思った感覚です。
また同じ空間にいたにも関わらず、隔絶された感覚もありました。
これはフィードバックをしたとき、他のダンサーの発言で気づいたのですが、waitingをしたダンサーが渋谷の一部と化し、いわば「擬人的(樹や壁)」になったのだとわかりました。
個人的には、「パフォーマンスとして宣伝せず街頭にwaitingする」ことと「パフォーマンスを宣伝してwaitingする」ことの、観客または通行人が『対象に使う意識の集中力の違い』も面白かったです。観客の心理的背景に関して言及すれば、前者は全く準備が無い。後者はしっかりと「はい。観ますよ ―。」と心の余白を作っている、いわば準備できている状態。
往々にして、常に観客の前でパフォーマンスしている私達ダンサーにとっては、「意識、集中して観られない」・「ダンサー自身の感情が高まっても表面上に動いてはいけない。ごく普通に佇む」状況下では異次元な感じを味わいました。同じ渋谷なのに。自分や周りの意識の使い方、状況によって見える景色もこんなに違うのか!!と驚きました。
今回は「意識」にまつわる様々な事象をたくさん体験できる貴重な機会だったと思います。
パフォーマンスに発展させるとすれば、このwaitingに一つないし二つの動きの情報を加えるのが好ましいと考えさせられました。いかに普通に、装飾ばかりでダンスが見えなくならないようなアプローチができるか、ダンスとして表現することができるのかが、この実験的な試みの進展に必要なのではないかと強く思いました。
最後に、企画を発案してくださった山崎さん、フェスティバルのスタッフの皆さん、新しい見地を見せてくださり、ありがとうございました。
report by 櫻井ことの
私たちは渋谷の雑踏の中で待つというパフォーマンスを行ないました。
それは一見するとただの日常風景にしか見えません。
しかし確かにそこにアートは存在していたのです。
実際は待っていないのに待つという行為はとても曖昧であり、明確な目的を持って来て行き交う人々と比べればとても不確実な存在でした。
そのため私は自身の身体がパフォーマンスをしているのか、日常にあるのか時々わからなくなりました。
そして行き交う人々もまたある時は渋谷の雑踏であり、ある時はパフォーマーであったのです。
そこにはとても奇妙な時間が流れていました。
気付きそうで気付かれない、だけど確かにそこにあるもの。
私自身がそれになることによりその存在を確認することができました。
このような貴重な体験をさせて頂きました山崎広太さんに感謝致します。
report by 石山千尋
Photo: Photo:Body Arts Laboratory