Whenever Wherever Festival 2010

気象と終身—寝違えの設置、麻痺による交通


橋本聡


小林耕平


冨井大裕


高嶋晋一


中井悠

笹本晃


アサヒ・アートスクエアのほぼ全空間(4階と5階、その間のエレベーター)で、6名の美術家が、同時にパフォーマンスを伴う作品を7時間にわたって発表したイベント(笹本晃は映像作品でのみ参加)。

時間が進むにつれ、作品それぞれの展開に応じて変化する様相が、異なる複数の時間軸を生みだしていた。また、それは単に、同じ空間に複数の作品を並置するあり方ではなく、それらを俯瞰して観賞する(作品を作品として識別/区分しようとする)さいに起きるコンフリクト・干渉に焦点が当てられ、提示されていたようだ。

橋本聡は主に5階の回廊で、散乱する本などとともに来場者にブロワーで風を吹き付け、追い回していた。あるいは、手錠に添えられた「手首に手錠をしてください」の指示(キャプションという命名行為が命令となる)などによって、そこでは、あからさまに来場者の行為が阻止または促され、干渉される。
小林耕平は4階で、様々な物品を使用しながら、例えば「目の前のあらゆるものがゆっくりと消えてゆくためには、何を準備すればいいのか?」「この筒は押すと倒れるのか? 倒れないと信じて倒してみる」など、ユーモラスだが禅の公案のように実現困難な65の命題(シーン?)に解を与えるべく、出演者(core of bells)を監督し、その上演と撮影のプロセスを公開した。またその撮影された映像も撮影と交互に上映された。
冨井大裕は、綿密な指示書でパフォーマーに委託し、5階の鏡のある2部屋で、手をポーズさせることによる彫刻と、その場で飲み干したビールの空き缶を手でつぶすことによる彫刻をそれぞれつくらせた。そして、自身は台車でビールケースとエアーパッキンを交互に運んだり、4階に展示された、スポンジなどの既製品が一定の秩序のもと積み上げられた自作品を、別の形態へと再構築する作業などに没入していた。
高嶋晋一は、顔を壁にぎりぎりまで近づかせ(視界に映るものが肌理としてしか認知できないほどの極端な至近距離)、爪先を床と壁の接線につけたままの微細な足の運動の繰り返しによって、4階の場内を壁伝いに一方向に延々と移動し続けた。結果としてその軌跡上にある物体は、人間であれ作品として組織されたものであれ、壁と看なして知覚され、その行為上に現れる空間として再編される。

これらは、指示するものと指示されるものの明瞭な分節という共通した特徴をもつが、来場者が観賞するさい、異なる時間秩序と空間組織が互いに齟齬を生じさせる(例えば、場内のある作品の音が大きいために、別の映像作品の音声が聞こえないなど)。つまり、一方の作品が作品として認識される瞬間、同時に他方の作品が成立することへの亀裂を引き起こす。その齟齬は、一つの会場を複数に分割するという物理的な領域の確保と排除をめぐって生じるというよりは、行為の関係が複数のレベルで設定されていることにより生じた、ネットワーク上のほつれのようなものだ。
それがとりわけ顕著に現れているのは、中井悠の作品だろう。中井は解説者を装い、来場者に話しかけては、そのつど異なる(つまり出鱈目な)それぞれの作品間に張り巡らされた見えざる関係性を説き、その声は、場内に複数浮かべた風船に吊るされたラジオによって伝播される(付け加えれば、中井が来場者に接する親し気な態度は、橋本が醸す緊張感と対照的だ)。互いに干渉しあう物体と行為とが作りだす空間に対する、言葉のレベルでの干渉・フレーミング。それが場内に張り巡らされる。一見混沌とした状況から垣間みられたのは、それぞれのルールに従う身体と物体のアンサンブルが、複数のレベルで干渉しあうことによって形成する、伸縮する可変的な時空間の可能性である。

report by 印牧雅子


小林耕平、笹本晃、高嶋晋一(企画)、 冨井大裕、中井悠、橋本聡(企画)

2010年7月3日
アサヒ・アートスクエア

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Photo: Photo:Body Arts Laboratory

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