Body Arts Laboratory

ダンス教育に関する意見

文化庁「実演芸術家等に関する人材の育成及び活用について」への意見

2-1-iv|学校教育における専門人材育成の推進

日本の大学における既存のダンス教育は、いまだに、非常に狭い視野の中でしか、成立していません。舞踊学科を設けている大学の数が、世界レベルでみて、圧倒的に少ないことはもとより、ダンス(舞踊)を、総合芸術であるパフォーミング・アーツとしてではなく、体育の授業の一環である創作ダンスの延長としてしかみていない学生、教育者も多いのではないでしょうか。スポーツ感覚でテクニック向上のみに焦点をあてた教育スタイルや、他分野とまったく交流をもちえない学科およびカリキュラム設置の仕方が、ダンスそのものに対する捉え方の狭さに拍車をかけているような気がします。

もし、このような志向性のもとで、教育機関の拡大が行われるとしたならば、テクニックのある優秀なダンサー、もしくは、ダンスを教える体育教師は育つかもしれませんが、創造的なダンスをうみだす振付家を輩出する可能性は極めて少なくなるでしょう。スポーツ選手のようなダンサーの人口ばかりが増えていっても、踊りをうみだす振付家が育たなければ、日本における舞踊の価値や存在意義自体が危うくなり、それらが根本的に問われる事態になりかねません。

たしかに、優れたダンサーは、自らの身体を使って多種多様な表現ができ、人を感動させることができるかもしれませんが、振付家なしにはダンサーは存在しえません。また、ダンサーのみの表現は、しばしば、自己表現の域を超えることができないものです。バレエやオペラのような、価値基準の定まった既成の舞台芸術を存続する上では、当然そのような、優秀なダンサーが必要になるでしょう。しかし、舞踊のすばらしさは、自らの身体をつかって、新しい価値観を切り開いていけるところにあるのではないでしょうか。それが、振付家の目指すところでもあり、たとえ、作品を創らないダンサーだとしても、その重要性を認識することは、舞踊を続けていく上で、非常に大きな意味をもちます。


欧米の大学では、生徒は、ダンスの専門授業以外にも、哲学、音楽、美術、建築、文学、科学など他ジャンルのカリキュラムを受講することができ、各々がダンスを客観的に捉え、独自の舞踊の可能性を探ることができるシステムになっています。また、卒業後、ダンサーや振付家の道を選ばなくても、アートマネジメントや劇場運営に積極的に携わるなど、彼らのダンスに対する情熱と知識を活かし、何らかのかたちでダンスに貢献していけるよう、大学が支援しています。また、舞踊学科と交流をもった他学科の学生も、ダンスに興味をもつようになり、このような学生たちが、卒業後、サポーティブになることで、ダンス界そのものの活性化へとつながっています。

狭い視野で設置された、日本の既存の舞踊教育では、優秀なダンサーになれない学生は、その道をあきらめ、まったく違った道を見つけなければなりません。これでは、ダンス界の人材が枯渇する一方です。日本の現状は、ダンス界における競争と格差社会をどんどん促しています。そして、その価値基準は、まったくダンス経験もない大学教授や、ダンスとは関係のない分野の評論家によって決められ、国は、こういう人たちに依存しているのです。

この志向性をもって人材育成を推進することに対しては、何か重要な根本が見落とされていくのではないか、という懸念があります。未来の新しい価値基準を切り開いていくのは、常に、次世代を担う若者なのです。既成の価値基準に基づき、優れた人材を育成するという志向ではなく、新しい才能が輩出される可能性を少しでも高めることのほうが、芸術の枠組みで捉えた舞踊教育として意義があるように思います。


また、小・中学生に対して行われる早期舞踊教育においては、尚のこと、各々の独自な身体の可能性に気付かせることが重要です。一般の児童対象の教育においても、身体を伴ったコミュニケーションと同時に、身体の独自性、そこから、何かを生み出すことができる喜びを体験させることは、殻に閉じこもりがちな現代の子供の心を外に解放させる、有効な手段となりうるのではないでしょうか。また、幼少期から、プロフェッショナルのダンサーを目指す子供には、スポーツのように身体をつくる、または技術を向上させるトレーニングばかりを受身でさせるのではなく、自発的に身体を通して自分を主張していけるような、より創造的な指導をしていくことが、最終的には、人の心を揺さぶるような、優れた舞踊家をうみだすことにつながるのではないかと思われます。

山崎広太[2009.3]

Photo: Ryutaro Mishima

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