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Whenever Wherever Festival 2023レビュー

トライアングル・
プロジェクト
「変幻する」
Photo:
Eri Saito

目次

1|可能性空間としての都市
– 「アラウンドネス」はフェスティバルに何をもたらすか?
– 都市プロジェクトとしてのフェスティバル

2|プロジェクト概観
– ショーケース
– リサーチ・ワークショップ
– トークシリーズ
– スクリーニング・展示

3|powerlessなパフォーマンス


1|可能性空間としての都市

「アラウンドネス」はフェスティバルに何をもたらすか?

Whenever Wherever Festival(以下WWFesと記す)は山崎広太らダンサーを中心に組織されたフェスティバルであり、その都度様々なパフォーマーが出演しながら東京で開催を続け今年で10回目を迎える。今回は港区におけるいくつかの場所を舞台にしてパフォーマンスやイベントが実施された。「〈ら線〉でそっとつないでみる」というテーマが与えられており、〈ら線〉とは螺旋を当然ながら想起させるが、同時に漠然とその場一帯を指すときに用いられる語の「~らへん」にも由来する。これは、正確に場所を指し示すのではなく、おおよその位置や広がりを示す語であるが、「~らへん」ということによって指示される場所のイメージや了解が緩やかに広がる。「アラウンドネス」は「~らへん」の広がりを言葉ではなく芸術的な方法によって作り出そうとするコンセプトである。ある場所における経験とは、経験する個人の意のままではなく、むしろその場所を構成する政治的/文化的/社会的次元によって要請される規範的振る舞いに規定されている。そのような規定は歴史的な蓄積によって決まるのであり、言い換えれば場所が持つ記憶が私たちの身体的振る舞いを決定しようとするのである。それゆえに場所の持つ身体への働きかけを変更することはおろか意識することさえ難しいといえるだろう。しかしながら場所が記憶を持つことで人々に固有の振る舞いをするように働きかけるがゆえに、そこはアイデンティティを持ち輪郭を持つともいえる。「アラウンドネス」が働きかけるのは、このような土地と身体を持った人々との関係である。関係性の問い直しとしての「アラウンドネス」は、場所とそこを訪れる人々の間に入りこむ第三項としてパフォーマンスを差し向ける。いわばパフォーマンスは介入の手段であり、それによって関係の再考を人々に迫るのである。

「アラウンドネス」は、身体的な「~らへん」を開くのであって、カウンターとしての現実をその土地に作り出そうとはしない。「アラウンドネス」が目指すのは、土地と人々の接触の方法あるいは関係の持ち方は唯一ではないことを示すことであり、両者の関係は変更可能であるということである。この変更可能性はパフォーマンスをつうじてそのすべてが具体的に呈示されるわけではないので、あくまで潜在的な可能性に留まる。潜在的な可能性があるということこそが、「~らへん」の緩やかな領界である。〈ら線〉とは各々の「アラウンドネス=~らへん」を結んだ線である。それと同時に、パフォーマンスを通じて土地と人々が同じ関係に収束するのではなく、潜在的可能性のうちにずれていく螺旋でもありうる。

都市プロジェクトとしてのフェスティバル

ドイツ語圏では劇場を超えた演劇が主流になってきた2000年代に「都市プロジェクト(Stadtprojekte)」が注目を集めるようになる。現代のフェスティバルは単なるショーケースであるというよりも、この都市プロジェクトの性質を備えたプロジェクトであることが多い。

ウィリー・ドルナーの《urban drifting》(2010)や、リミニ・プロトコルの《コール・カッタ》(2005)や《カーゴソフィア・X》(2007)を代表例として、上演芸術の様々なアーティストが都市という場所において都市をテーマにしたプロジェクトを公開するようになったのである。都市という「一つ」の現実に対して、芸術的な(かつユートピア的な)現実を構築することで介入するのではなく、都市の現実が潜在的には複数あることを示そうと試みる。「一つ」の現実は、機能や目的に応じて都市の構成要素が有機的に統一され、人々がその構成に即して都市を知覚することで生み出されるものである。都市プロジェクトは一つの現実を構成するために規範化された人々の知覚を、そうではないような方法で知覚する可能性へと開こうとする。それゆえに都市プロジェクトは、都市の物理的条件を変更することもなければ、人々が気づくべき都市の本来の姿を具体的に示すわけでもない。都市は多様かつ異他的な要素が含まれており、これらをまとめる唯一の構成原理は存在しないが、その一方で社会的・経済的・政治的機能によって統一され現実を生み出す。それゆえに都市の現実は何らかの機能に応じて現前するが、それは複数の潜在的可能性を後景とするのである。したがって都市プロジェクトは異なる現実を現前させるのではなく、後景に広がる潜在的可能性を芸術でもって間接的に示そうとするのである。

都市という空間が互いに異他的な要素の並列によって成り立つと考えるのであれば、演劇学者ハンス=ティース・レーマンによれば、劇場と都市は潜在的可能性を内包するという点において同一である。舞台上では互いに異他的な事物や行為という要素が配置されるが、特定のジャンルやスタイル——すなわち芸術的規範——に応じてそれらは統一されることが多い。しかし演劇は、原理的に言えば、舞台上に異他的な事物や行為の配置を際限なく許すことができる。規範的な力によって諸要素が統一されることの背景に諸要素の配置の自由があるということは、都市の規範化の背後にある潜在的可能性の関係に等しい。したがって都市プロジェクトは、都市と劇場に共通する潜在的可能性を相互に参照させることによって経験可能にするのである。そして都市プロジェクトは、都市と演劇とのいわば本質的なつながりを見出すことができるために、都市への「介入」を上演芸術固有の方法で目指しているといえる。

フェスティバルは劇場内外での公演を組み合わせながらひとつの都市プロジェクトとして成り立ち、都市と演劇に備わる潜在的可能性のための空間を開こうとする。その意味で都市プロジェクトとしてのフェスティバルは、都市の機能を芸術的な手段で補完するだけに過ぎないわけでもなく、都市機能から隔絶された例外状態として芸術を披露するわけでもない。フェスティバルは都市と劇場のそれぞれの規範からずれた移行領域、すなわちトランジットな空間として現れることで、その目的を果たそうとするのである。それゆえにWWFesが介入を試みるのは、参加者の規範化された知覚であり、それによって都市の中において仮想現実としての芸術的空間を開くのである。

今年のWWFesはまさしく都市プロジェクトとしてのフェスティバルとして開催されていたのではないだろうか。冒頭に示した「らへん/アラウンドネス」から読み解ける土地の潜在的可能性は、都市プロジェクトが目指すものと一致する。今年のWWFesを都市プロジェクトと位置付けたうえで、個々のプログラムを確認していきたい。

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