Body Arts Laboratory

コンテンポラリーダンスの定義と人材育成のための政策について

文化庁「実演芸術家等に関する人材の育成及び活用について」への意見

1-2|実演芸術家等を育成及び活用する必要性

審議経過報告を読み、その政策の方向性が、コンテンポラリーダンスの一元化、アーティストの小粒化、ひいては、コンテンポラリーダンスの停滞を招くことになりうるのでは、という懸念から、コンテンポラリーダンスに対して正しく認識することの必要性を感じました。

コンテンポラリーダンスを一言で定義すれば、「基準がなく何でもありのダンス」です。そのため、コンテンポラリーダンスでは、アーティスト個人の身体を通して独自の世界を作ることで、自由で多種多様な表現方法がうまれます。一般的に、既成のダンスには、バレエやモダンダンス、民族舞踊やヒップホップ、ミュージカルやコメディがあります。それらは、わかりやすい感動を観客に与える、娯楽性のあるものです。これらと比較すると、コンテンポラリーダンスは抽象的でわかりにくい場合もありますが、その魅力は、自由で多種多様であり、時代と共に変化し続けるため、予想できないところにあります。観客は、独自の身体を通して創られた新しい世界に触れることで、これはいったい何なのか?と問いかけられ、能動的にその世界へと関わっていくことを求められます。享受されるのみの、娯楽的な既成のダンスとは異なり、観客それぞれの想像力もまた、コンテンポラリーダンスを成立させる要素となります。その関係性には自由があり、観客は身体を通して生み出された正直な創造物に触れたことに喜び、自らが能動的に関わることで、それぞれ胸を揺さぶられる感動を体感します。グローバル資本主義でインターネット中心の世の中、人々に最も必要とされているのは、各々の生の身体を通してリスペクトしあえるコミュニケーションです。コンテンポラリーダンスは、正々堂々と胸を張って各々の独自な世界を現わすことができるアートであり、それは、未来に向けて必要とされるものと確信しています。

また、コンテンポラリーダンスは、自由で多種多様な表現媒体であるため、年齢問わず誰でもが実際に参加して、身体と向き合うことができるため、教育の場でも活用されることが望まれます。一般社会においても、流行のフラダンスや社交ダンスのように皆が同じダンスをして、そのアイデンティティを見出すのではなく、もっとも個人を知ることができるコンテンポラリーダンスは、それぞれの個性をリスペクトしあう市民社会が構築されることを促す役割を果たすのではないでしょうか。

残念ながら、日本は北米やヨーロッパなどコンテンポラリーダンスが幅広く一般市民に受け入れられている国と違い、雑誌や、新聞などのマスメディアにおいても、娯楽性の高い舞台芸術ばかりがとりあげられ、そのポジションは非常に低いです。創造的な未来を構築していく上でも、重要な役割を担っていく舞台芸術として、コンテンポラリーダンスの支援に力を注ぐ国も、海外では増えています。


一方、日本におけるコンテンポラリーダンス界では、もっとも重要な振付家、アーティストを生み出すためのシステムが大学教育機関の中でさえありません。審議経過報告の3ページ3段落目に、「人材育成に向けた諸条件の整備を進めてきた結果、基盤の充実は着実に図られてきたが、高等教育機関の有無、分野による発展の歴史の違いなどがあるにもかかわらず、幅広く公平に配分することが求められてきたため、第一線で活躍する人材を数多く輩出するには限界があり、このままでは人材の小粒化が危惧される」と述べられているように、日本において歴史といわれるほどの歴史がまだない、新しい舞台芸術の様式であるコンテンポラリーダンスは、たとえば、同じ舞踊の中でも、バレエとはその存在意義が基本的に異なり、同じ文化政策を適用することはできないのではないでしょうか? 

現在、振付家を輩出するには、トヨタが主催する振付コンクールをはじめ、コンクールの形式をとることが通常のパターンになりつつあります。これで振付家を輩出することになるのでしょうか? このパターンでいくと、振付家は特定の価値基準をもって行われる審査に依存することになり、画一化が進む傾向になります。特に若い振付家は日本の社会において、なんとか、その存在価値を見出そうと、娯楽性のある作品を創ることで大衆にアピールするか、または審査に依存する傾向に流されていきます。これは、コンテンポラリーダンスが、本来の存在意義から外れていくことであり、既存の文化価値基準の枠組みの中に、無理やり、コンテンポラリーダンスを押しこめていることに他なりません。また、マネジメントを行う方々も、そのような傾向の下で、成功した振付家のみを企画に載せたり、スター発掘のようなことを行ったりと、コンテンポラリーダンスの一元化に拍車をかけている状態です。これらの傾向は、ダンス格差、孤立化を助長することにもなり、これから振付家を目指す人にとって、その可能性を狭める結果にならざるをえません。


上に述べた論点と重複しますが、もう一つ、気にかかる点は、国の文化政策が、選ばれたもの(優秀なもの=エリート)のみへの支援を示唆していることです。一般に、芸術の分野において、エリート芸術家を生みだすという志向は、国全体の文化の疲弊化と、これから生み出されるであろう新しい芸術家の小粒化を促しかねない要素をはらんでいます。舞踊では、多くの場合、名声を残す振付家は、既成のものへの反発から新しいスタイルを見出し、すぐれた作品を残す結果となっています。はじめから、既成の価値観の中で選ばれたエリート振付家が、新しい文化価値を切り開くような独自のスタイルを築く可能性は、非常に少ないのではないかと思われます。特に、振付の分野においては、スポーツや音楽で、身体能力や音感など資質の判断基準に使われるものが存在しません。何をもって才能とするか判断不能な中で、最初から選ばれた方のみに、希少価値を見出すことには疑問を感じます。どこから天才振付家が輩出されてもおかしくない以上、小数精鋭主義とは逆に、既存の判断基準の枠組みでは落ちこぼれとされても、誰でも振付家になれる可能性があるという希望を抱かせる環境が必要なのではないでしょうか? 誰もが創造できるという突破口をまず与え、真剣に創造することを促す環境を整えることの必要性を感じます。

また、選ばれたもののみを支援する近年の文化政策が、芸術家同士の不必要な競争と、孤立化を招いています。芸術に必要なのは、競争ではなく、コミュニケーションです。日本や、フランスなどでも、かつての偉大な芸術家たちは、同時代を生きる芸術家たちとのコミュニケーションの中で、その才能を育み、開花させてきました。そして、芸術家同士が、お互いサポーティブになることは、特に、経済的に困難に直面している現在においては、芸術がその本来の存在意義を守りながら存続していく上で、とても重要な要素です。日本の現状において、天才振付家は、そのような環境の中で、うみだされるのではないでしょうか?

また、一般市民と芸術との関係において、優秀な芸術家を尊敬する、優秀な芸術家の公演を鑑賞するような志向が強調されすぎることは、ある意味、市民が享受することのみに重点がおかれ、その関係が一方通行で終わってしまう懸念があります。文化が一般的に普及するには、芸術家と市民の間にコミュニケーションが行われる環境の設定が重要であり、コンテンポラリーダンスにおいては、特に、一緒に作品を経験し、考えていけるような環境が理想です。現在のような、経済破綻の中においてさえ、市民の方々がアートを身近に感じ、触れあい、主体的に関わっていくことで、今までの日本の歴史にはなかったような豊かな市民社会を構築することが可能になるのではないでしょうか?


少しでも、振付家とともに、一般社会において理想的な環境を整えていきたいという思いから、現役で活躍する振付家を中心として、社会とコンテンポラリーダンスを橋渡しするためのオーガニゼーション、Body Arts Laboratory(BAL)が、2009年1月に設立されました。日本のコンテンポラリーダンスが一元化、または衰退の一途をたどるのではないかという危機感を抱いている振付家は多く、アーティストの側から主体的に環境を変えていくために、BALは設立されました。実際のアーティストが組織、運営することで、少しでも、理想的な環境が設定されていくことを目指しています。(活動内容等については、参考資料を添付させていただきました。)

山崎広太[2009.3]

Photo: Ryutaro Mishima

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