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Tatsuo Nambu
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Aichi Triennale 2010

コンセプチュアリズムが流産するのは原理上避けえないことなのか?
―ジェローム・ベルの方法を端緒として

観念に似たものは観念以外には存在しない―ジョージ・バークリー

1.

あらゆる作品の価値を、「アート」の名の下に一元的に判定できるのか。あるいは、文化的な多様性を、本当は相反するかもしれない諸々の価値を、一緒くたに温存しておける都合のよいごみ箱が「アート」と呼ばれているだけなのか。コンセプチュアル・アートは、作品がどのように位置づけられ受容され、どのような評価基準によって意味づけられ、そもそも何が「作品」や「アート」を定義し規定しているのかを、作品それ自体のテーマとしてきた。コンセプチュアル・アートの方法論をダンスに導入した振付家として知られているジェローム・ベルは、だから極めてスマートに、「良いダンス」をつくろうとするのではなく、ダンスの良し/悪しを決定する基準を問題にする。
例えば、パリオペラ座に委嘱された《Veronique Doisneau ヴェロニク・ドワノー》(2004)では、端役ダンサーをそのままの役柄で一人舞台の中央にすえ、もともとの作品の中心ではない一要素を切り取って見せ、その他の部分を想像させる。それと同時に、普段は隠されているプライベートやバレエ団の仕組みについてダンサーに語らせることで、通常劇場からは排除されているもの、ないし背景化しているものを前景化させ、そのヒエラルキーを転倒させる。あるいは《Pichet Klunchun & Myself ピチェ・クランチェンと私》(2005)は、タイの伝統舞踊とコンテンポラリーダンスという異なる文化的コンテクストにあるものを並置し、それぞれのジャンルを成立させている社会的背景とその齟齬を浮かび上がらせる。
いわゆる「無垢の眼」のような純粋で中立的な価値、ないしは「ありのまま」「現実そのもの」など存在しない。われわれは何らかの概念=図式によってそのつど何かを判断し、「現実らしき(のような)もの」を形づくっている。概念=図式である限りは「現実そのもの」ではないが、しかし「現実」は概念=図式とのズレでしか測れない。不完全な複数の表現形式と、そのズレや齟齬(互いに通訳不可能な部分)があるだけだ。これがコンセプチュアル・アートの方法全般に通底する認識である。

2.

昨年彩の国さいたま芸術劇場で筆者が見る機会を得た、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルおよびアンサンブル・イクトゥスとジェローム・ベルの共同作品《3Abschied ドライアップシート(3つの別れ)》も、それらの延長上にある仕事とみてよいだろう。今作はマーラーの《大地の歌》最終楽章「告別」をモチーフとしている。そして、マーラーが自身の死を意識してつくったとされるこの曲が、さらに癌で死を覚悟したオペラ歌手によって歌われたというエピソードや、それを取り上げることになったきっかけ、またこの《ドライアップシート》自体をどのようにしてつくったかを、ケースマイケルが観客に向かって語るなどの自己言及的な仕組みが主要な設定になっている。冒頭、舞台中央にはアンサンブル・イクトゥスが登場しているにもかかわらず、なかなか演奏は始まらず、舞台脇のケースマイケルも、わざわざその曲の録音を流し、椅子に腰掛けて黙って聴き入るばかりで、ダンスをなかなか始めない。例によって「作品それ自体」の存在は、遅延と中断によって先送りにされる。
コンセプチュアル・アートの基本的な欲望、その操作の対象となるのは、時間あるいは因果律に関わるものである。目指されているのは主に、理論と実践、プラン(計画)とドキュメント(記録)、宣言(指令)と記述(説明)ないしは批評(評価)といった時間差によって生じる二項対立の消去であり、特に焦点となるのは、作品が制作される過程と作品の流通する過程の埋めがたい溝にある。つまり、対象(オブジェクト)化されることを避けるために、対象化という誰もが行なっている所為をいかに操作可能な対象にするか、である。
いったい、作品それ自体、すなわち作品自身の構成要素と、作品に付随する諸々の関係とでは、どちらが作品を価値づけていると言えるのか? こうした懐疑のもと、「芸術として(のため)の芸術」というトートロジカルなテーゼが、それ自体である、それそのものとしか言いようがない存在の絶対性(人が見ようが見まいが関係なく存在する)を希求し、その自律性、単一性、完結性を要請するのに対し、「芸術についての芸術」であるコンセプチュアル・アートは、寄生的であるがゆえに慎ましく、芸術を目的ではなく手段、ツールとして扱う。定着せず消えゆく出来事のみか、いまだ実現していないプランのみか、すでに起こってしまったことの記録のみかといった、それ自体に意味はない(けっして「それ自体」はない)という断片性を保ち、他と接続されることを組み込んだ未完了的(観客の能動性の要請、すなわち人が見ることでつくられる)、ないし遂行不可能な命題としてのみ存在するような作品のあり方を採る。

3.

しかしながら、《ドライアップシート》の自己言及的な発話は、あらかじめ決められたプロットに収まらないような問題に解を与えるための生々しい葛藤や、何が起こるかわからない不確定な出来事を孕んだ制作過程を作品自体に組み込むために導入されたというより、何を読み取るべきかを観る側に誘導し、わかりやすくプレゼンテーションするもの(自作解説)でしかない。それまで客席に座っていたベルが舞台へと上がり、ここから先がケースマイケルがどう踊るべきか考えあぐねていた箇所だと注釈をいれ、「告別」のテーマである「死」を表現してみると言って、3つの異なるやり方で実演していく後半部でもそれは同様だ。「死」という本来的に不可逆的であるものを反復し(何度も試せるものとして)相対化しようという身振りは、それを表象として捉えるかぎりにおいてしか成立しない。
では、生命の象徴ともいえるダンスにおいて、それと対立する死がつねに排除されてきたとするなら、そうした表現形式の臨界はどのように示されるべきなのか。確かに、死にまつわる哀悼ではなく(いわゆる「死の舞踏」のように死を役柄として擬人化するのでもなく)舞台に死そのものを持ち込むのは至難の業だ。死こそまさに生のどんな過程とも無関係に訪れる、プロセスなき究極の完結性である。死に様すらあくまで生き様の範疇にある。翻って、生命はつねにすでに徐々に死んでいると考え、「プロセスとしての死」を具現化するとしても、作為的な中断や失敗の繰り返しは(偶然を繰り返すことで必然化させることとは逆に)、メタレベルの操作、個々の出来事を囲い込む枠組みの恣意性を強化する方向に作用してしまう。
コンセプチュアル・アートのプログラムは、「作品」概念を暗黙に支えていたアナロジー、「自律した作品=自律した主体(個人、個体)」を分解するところから始まった。私が存在しなければ、私は死ぬことはない。作品が同定しえなければ、対象化し評価を確定することもできない。個々の作品の良し/悪しの判断よりも「作品」の成立が先立つ。なぜなら「作品」という単位自体がある価値判断によって可能になっているから。ゆえに、「作品=個体」という単位を一端外し、例えば細胞という別のレベルの単位で考える。「行為(activity)以上、所産(product)未満」(ブルース・ナウマン)の領域を開拓するといったように、氷山の一角のその水面下にあった生産プロセスの一部分を、唐突に浮上させる。あるいはアトリエという限定されたニュートラルな空間ではなく、様々なネットワークの中継点たる特定の場所で、もしくは流通過程の場(メディア)において、制作を行なう(全世界をアトリエにしてすべてのドアを開け放つ)。
こうした拡張的展開が起こりえたのは、個体(主体)の成立とパラレルである「死」を回避し、いわば単細胞生物的な(近似的には無限の)増殖に賭けたからではなかったか。けれど問題なのは、「良い作品か悪い作品か(良い人間か悪い人間か)」よりも「作品か作品でないか(人間か人間でないか)」の判断が先立つとしても、「良い作品しか作品と呼ぶに値しない」「悪い作品は作品でない」との転倒した判断が実際には始終起こる点にある。そうした芸術文化につきまとう排他的な性質は、あらかじめ作品=個体としては死んでいるはずのものが(造物主たる作家の召還によって)個体と名指されることで、覆い隠されてしまう。
近年、ダンスというよりダンサーを主要モチーフとした作品を発表し続けるジェローム・ベルは、自分の方法論(メタルールとしての思考操作)を、作家のトレードマーク(商標)のように扱いはじめたがゆえに、躓いているように思われる。つまり、図式を批判する方法が図式化してしまった観がある。その傾向は、自らの名前を冠した《Jérôme Bel ジェローム・ベル》(1995)での、伝記的に記述しうるような要素を一切排し、固有名詞をあくまでも一般名詞と同等の機能に還元したようなラディカルさからは、遠く離れている(そしてまたこの初期作品では、チョークで書かれたパフォーマーの名前をパフォーマー自身がその場で放出した尿によって掻き消すという場面すらあったのだが)。

4.

劇場にその外部を持ち込むというジェローム・ベルの方法は、結局のところ、日常=現実の側から劇場=虚構を批判する、という単純な図式に則っている。しかしその「日常=現実」とは、正確には社会的な環境に規定されている自我のアイディンティティのことであり、それもまた劇場と同じく(それ以上に強固な)一つの制度である。どちらかに優位があるわけではない。「告別」の詩は、幽冥境と走馬灯体験がない交ぜになったような、まどろみの状態において死にゆく者の側から友に向けて書かれているが、このグレーゾーンは、ジェローム・ベルがジェローム・ベルであり、ケースマイケルがケースマイケルであることを基盤とした「現実」からはこぼれ落ちる。社会的な諸関係を炙り出すことで劇場の虚構性を批判してきた彼を、別の虚構性(=極限的な現実性)、すなわち、いつかは起こることは確定的だが、いつ起こるのかは偶然であり、どのようなものかはいつまでも不可解であるという、生にとってどこまでもフィクショナルな存在である「死」が復讐する。
「死」のテーマは、これ以上ないほどありふれており通俗的ですらあるが、一端「死の表象」として扱うことからはみ出れば、つまり「死」が、作者の属する社会的な文脈と作品の属する芸術史的な文脈、双方の外部として存在するものを指すならば、コンセプチュアル・アートの方法論を漸進しうるものでもあったはずである。
コンセプチュアル・アートの方法の核心の一つは、「作品の位置づけ(解釈)が、当の作品よりも先行する」というアイロニカルな事態を逆手にとることにあった。場合によっては見るまでもないような「作品」や、「実際に」ギャラリーや劇場で経験しなくとも、二次情報、伝聞によってでも十分に(の方がかえって)了解可能であるというケースを考えてみればよいだろう。例えばインターネット・オークションに「タイムマシン(本物)」(実際に2000年にYahoo! オークションで出品され話題を呼んだ)が出品されたときに焦点となるのは、タイムマシンという作品の不在を埋めるべく、殺到した質問に出品者がどう受け答えしているか、その一連のやりとりである。芸術文化がどこまでも依存する、信用/信頼の制度(流通過程はそれによって担保される)。「わざわざ見るに値しない」を「そもそも見ることが不可能」と意図的に混同することで、いまだないもの、誰も見たことのない存在、あるのかないのかが不確かな存在をどうやって認知する(させる)か、という手続きに介在する政治性が、そこでは顕在化する。すなわち、懐疑の深度と直結するような想像力の喚起をいかにポジティヴに活用しきるか。
勿論このような寓話的な事例を挙げなくとも、現在ではもっと直截なモデルを、われわれはただちに想起できるだろう。人間がいっさい知覚しえず、間接的なデータを通してのみかろうじて把握でき、その身体への影響も潜在的で、長期的な時間スパンを経なければ表われてこない(因果関係を証明しづらい)、脅威的な存在。2011年4月のいまも福島第一原子力発電所から現に漏れ続けている放射能の存在は、どこまでもエクササイズ的でケーススタディ的でしかないというコンセプチュアル・アートの欠点を軽々と超えている。その欠点の所在は、あくまで概念上の区分間の齟齬を際立たせる批判の方法であるがゆえに、事実を、列挙しうる一群の可能性のなかの一例、サンプルとしか扱えないという性質に帰着する。内在的(ある概念=先入観や信仰を相対化するために、その概念=図式を徹底させ矛盾点を抽出する)であるにせよ、外在的(ある概念=先入観や信仰を相対化するために、別の概念=図式を立てて並置する)であるにせよ、何らかの概念=図式を超えるもの(概念=図式化不可能なもの)を想定しなければ概念批判は完遂しえない。しかしそれを「この現実」に求めないとしたら何に求めるのかという問いは、解かれなければならない問いとしてなお残っている。

[たかしま・しんいち|美術家]


《3Abschied ドライアップシート(3つの別れ)》

コンセプト:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、ジェローム・ベル
出演:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、アンサンブル・イクトゥス(音楽)ほか

2010年10月30日, 31日|愛知芸術文化センター 大ホール(日本初演)
2010年11月6日, 7日|彩の国さいたま芸術劇場 大ホール


協力:財団法人埼玉県芸術文化振興財団