山下残《庭みたいなもの》をめぐる一考察
Review|越智雄磨
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Kazuyuki Matsumoto
山下残の《庭みたいなもの》には、ダンス公演としては少し風変わりな前置きがある。上演前に観客はまず、いくつかの電球が灯されただけの薄暗い空間に通される。そこにひしめいているのは、どこからどのように集められたのか、大量の「オブジェ(物)」である。工具箱、扇風機、ランプ、自転車、レコード、電気ヒーターなど。なかには残骸と化した舟、どこかの船着き場にあったと思しき看板などもある。その時代を感じさせるデザイン、色調、汚れ、錆などは、見る者の視線を引きつけ、これらのオブジェに染み付いた時間を思わせずにはいない。それぞれのオブジェが過去に誰かに使用されてきたものであることは確かだろうが、オブジェたちは既にその役目を終え、その機能を放棄している。また同時に、この空間は何かしら人の存在の痕跡や手触りを感じさせる空間であり、誰かの部屋のような印象も持っているが、その合理性を欠いた配置は我々の日常的な世界とは異なる秩序、「他者」の存在をぼんやりと浮かび上がらせている。この異質な空間を通過し、階段を上ると、目の前に観客席がある。つまり、観客は舞台の地下に設えられていた空間を通過してから客席につくようになっている。
そして、ダンスが始まる。だが、ただのダンスではない。観客が先ほど通過してきた空間の中から、パフォーマーたちがオブジェを持って這い出てくる。7人のパフォーマーがモノを媒介にしてペアになり、一方がその物について発話すると、他方がそれに対してまた別の言葉や行動を起こす。Tシャツを媒介として「ティーシャツ」と言う言葉をたどたどしく応酬することもあれば、極めて明瞭に「プレステ3」について説明することもある。そして、それらのオブジェを本来の使用とは異なる方法で使用し始める(モノの色や形など外見的特徴をコメントしたり、電気ヒーターを抱えて激しく動き、そこからぶら下がった電気コードとパフォーマーがデュオを踊ったり、レコードを紙ジャケットから半分だけ取り出して床にあて、リム回しのように転がしたり)。オブジェから誘発された言葉をパフォーマーたちはかけあい、そしてそのモノから連想される動きをお互いに生み出していく。パフォーマーたちは言葉と身体によってオブジェと戯れるなかで、その意味や関係性、コンテクストを紡ぎ直し、共有することでコミュニケーションの回路を形成していく。この作品をダンスと形容することに固執するならば、このプロセスそのものがダンスと呼ばれうるものなのだろう。オブジェを起点としてダンスの文法を大幅に書き換えたそれは、観客席とは異なるもう一つの世界(「庭みたいなもの」)のありようを絶えず規定しなおし、更新し、拡張し続ける一種の言語ゲーム[*1]でもある。
身体とオブジェを通して舞台上で生起する出来事は単なる視覚表象であるという以上に、その背後で身体とオブジェを動かしている何らかの方法論、システム、規則の存在を認識させるものだった。観客はその認識を通して、「庭みたいなもの」という特殊な場を生成するコミュニケーションのプロセスを知覚し、そこに関与することができる。ただ、一観客として、このコミュニケーションの回路に立ち入り辛いと感じたことも事実である。おそらく、その感覚は舞台上で展開されているコミュニケーションの生成規則を観客が完全には共有することができないことに由来しているのだろう[*2]。たとえば、木村覚氏が指摘した「一つ一つの出来事の発端に置かれた『もの』の選択理由が曖昧」であることはその一つの原因と言える[*3]。今作においては、パフォーマーの身体とモノの組み合わせを決定する上で、コンピューターによるプログラムが利用されていたようであるが[*4]、作品だけに接した観客の側からはその過程は一切見えない。観客にとって、舞台で生起する言語ゲームへの参加は、その規則を類推することによってある程度までは可能だが、ある部分から先は不可視のブラックボックスである。
たしかに、山下とプログラミングを担当した濱が対談において述べていたように、作品の展開においてコンピューターによるアルゴリズムを利用することによって作者が思いもよらない間や組み合わせの可能性を導きだし、方法論の一貫性を保つことには成功したかもしれない。しかし、意識的にせよ無意識的にせよ、そのような上演前になされた創作のプロセスを不可視のものにしてしまったことによって、(ありえたはずの)観客とのインタラクティヴィティの領域は制限されてしまったのではないだろうか[*5]。また、山下はプログラムの結果を「普遍的なものとして信じていいのか[*6]」と述べ、観客がその結果現れた一連のシーンを観た時に、それを自然に認識できるか、つまり観客とコミュニケートできるか否かを危惧していたわけだが、その不安はある程度的中してしまったと言えるだろう。私を含めた複数の観客は、ある部分では上演中に傾注すべき対象を、つまりコミュニケーションの糸口を見失ってしまったからである。「普遍」(ここでは観客とのコミュニケーション)を志向するならば、プログラムの結果そのものもだが、モノを選択する上で作動していたプログラムとそのプロセスを何らかの方法で可視化し、観客と共有することも課題にするべきだったのではないか。それによって山下の危惧した「普遍」の問題は解消されたはずだと考えられるからである。
パフォーマーの言葉の緩急、テンション、存在感、またオブジェが持つ存在の強さ、オブジェを介したパフォーマー同士のコミュニケーションは、この作品のシステマティックな部分と好対照を成していた。しかしながら、おそらく、この作品で展開された言語ゲームを最も楽しんだのは舞台上の出来事の背後にあるシステムを認識し、アクセスが可能であった特権的な作者であり観客であった山下残本人だったのではないだろうか。もし観客にもそれが可視化されオープン・ソースとして解放されていたとすれば、「庭みたいなもの」はより広大な空間になりえたのではないかと思うのである。
[おち・ゆうま|早稲田大学博士課程、ダンス研究]
photo
Kazuyuki Matsumoto
《庭みたいなもの》
振付・演出:山下残
出演:黒田政秀、小坂浩之、酒井和哉、末森英実子(おかっぱ企画)、立蔵葉子(青年団)、富松悠、増田美佳
舞台美術:カミイケタクヤ
共同開発:YCAM InterLab
企画制作:STスポット、アイホール[伊丹市立演劇ホール]、山口情報芸術センター[YCAM]
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2011年9月9日-11日|アイホール
2011年9月22日-25日|KAAT神奈川芸術劇場
2012年1月28日・29日|山口情報芸術センター
写真提供:STスポット
筆者はKAAT神奈川芸術劇場にて本公演を鑑賞した。
- ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが『哲学探究』で表した概念。またユルゲン・ハーバーマスは『意識論から言語論へ』において、「言語ゲーム」論を批判的に継承し、独自のコミュニケーション論を展開している。Back
- 佐々木健一によれば、コミュニケーションとは美的体験と対置しうる経験であり、「芸術作品の創作から公表、その受容と解釈にいたる、意志的かつ公共的なプロセス全体」と定義される。そして、その成立のための必須条件として生成規則の共有が挙げられている。詳しくは佐々木健一『美学辞典』の「コミュニケーション」を参照。Back
- 『artscape』に掲載された木村覚氏による評論(http://artscape.jp/report/review/10011933_1735.html)を参照。Back
- 山下残と濱哲史による対談(http://www.danceplusmag.com/c1/8956)を参照。Back
- 同上。Back
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