Body Arts Laboratorycritique

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体験を言葉にするということは、私が何を知覚したか、それがどのような意味をもつかということを説明するばかりでなく、その体験によって私自身にどのような反応が生じたかということまで思考することなのだと思う。たいていの物事はこれらを全て網羅しなくてもだいたい伝わってしまうけれど、ある種の体験はこういうことを考えないと体験と言葉が釣り合わないという気がしてくる。演劇を観ることはそういう体験のひとつだと思う。観客は演劇の体験を言葉にしようとして失敗することによって演劇が生々しい身体的な体験であると知るけれど、そこでさらに言葉を尽くさないと自分の体験は遠ざかってしまう。私たちは、自分の体験を言葉にすることの失敗からさらにその先に言葉をつないでいくことで、ようやく今の自分と体験を共有できる。そういう二重の迂回によって観劇という一回の体験をつかまえることができる。

先日オフィスマウンテン《ホールドミーおよしお – “2人”版》を観て、そういうことを考えなければならないと思った。そうしないとなんだかフェアじゃないと感じた。

《ホールドミーおよしお – “2人”版》は野毛山の高台に建つ横浜市民ギャラリーの地下一階で2022年12月17日と18日にかけて3公演行われた。会場を目指すと住宅地の坂道をどんどん登っていくことになる。横浜市民ギャラリーは普段は横浜市内の団体の美術作品を展示するギャラリーだ。入ってすぐのインフォメーションで公演について訊ねたら、呼ばれて出てきたのが作・演出・出演の山縣太一さんだったので、そのフランクさに驚いた。どっちの道から来ました? 裏のお寺の境内を突っ切って帰ると早いですよ。そんな話をして開演を待った。地下の会場は劇場ではない。舞台もなく、特別な照明や音響装置もなく、客席は簡単な椅子だった。普段は絵画などを飾っているのだろう白い壁には、パートごとの台本とそれに対応した「マイライン」(俳優が演じるために書いたもうひとつの台本)、そして振付ノートが貼られていた。ここには劇場的な環境はない。しかしないものがはっきりしているぶん、そこにあるものもはっきりしている。俳優の身体がある。観客の目がある。共演の飯塚大周さんが簡単な注意事項を説明したあと、「では始めます」と言って始まった。

飯塚さんがしゃがみこんで火を炊くような振りを見せ、次第に燃え上がる火を挟んで山縣さんが椅子を置き、座る。肩を動かしたり目をキョロキョロと動かしたりしながら、徐々に二人の動きが共鳴し増大していく。極大に至ったところで飯塚さんが離れ、山縣さんの「今あなたの目の前に立っている私はどう見えていますか?」という台詞が始まる。視線は飯塚さんを捉えているが時折観客のほうも向く。「あなた」は誰なのか、誰に向けられた言葉なのか、視線の動きだけで多方向に意味が伸びる。飯塚さんが左耳を山縣に向けてそっと近づいてくると、椅子に座る山縣さんも左耳を向ける。二人が徐々に近づいていく。

今回は2017年に初演されたものの再演で、当時7人で演じられたものを2人で演じる。何人かの登場人物がいる。トイレでるるぶを読みながら北海道へ想像力を伸ばす人。「フェス」に行く男、「フェス」に誘われる男、「フェス」で会った男を覚えていないキャバクラの女。女は北海道出身だろうか。二人の俳優によって演じられる人々が、「フェス」という非日常の場所へ向かう運動の中で交差し、混線したり、脱線したり、交わってまた離れていく。離れた場所を想像し、移動し、時間が経ち、それを語る。そのような時空間的な運動が起こる。俳優には奇妙な動きが振り付けられている。走ったり、滑ったりという大きな動きから、手をもぞもぞとさせたり、口角を上げ下げしたり、目をキョロキョロとさせたりという小さなものまで様々で、ひとつとして同じ動きがない。台詞にはナンセンスな言葉遊びが随所に飛び出し、観客は整合的な物語を構成しようとしながらも、たくさんのほころびを抱え込むことになる。これらは通り一遍の解釈を寄せ付けないが、観客を解釈の運動の中に誘い込み、観客は意味に対して宙吊りにされる。解釈の着地点は示されないが、可能性があらゆる方向にひらかれている。

冒頭、「今あなたの目の前に立っている私はどう見えていますか?」という台詞で始まるけれども、実際にはそれを言う山縣さんは椅子に座っている。そこに対応する山縣さんのマイラインを読んでみると「沼。後ろ向きに座っている置き物はあなたを見ていますか?」と書かれている。ためしに交互に読んでみる。「今あなたの目の前に立っている私はどう見えていますか?」「沼。後ろ向きに座っている置き物はあなたを見ていますか?」「今」「沼。」「あなたの目の前に立っている」「後ろ向きに座っている」「私は」「置き物は」「どう見えて」「あなたを見て」「いますか?」「いますか?」

台本とマイラインを行き来すると、そこに音があり、声があり、動きがあることに気がつく。意味としてはナンセンスな、言葉遊び、ダジャレのようだけれど、マイラインには台本の言葉や文字が喚起した何らかの身体的な反応の痕跡があり、ひるがえって台本に戻ってみれば、今度はその痕跡をなぞるように台本を読むようになっている。そういう自分に気がつく。台本とマイラインの差異の中に体験が保存され、往復運動によってその体験がよみがえる。

言葉と身体、情報と経験、記憶と想起。その往復の中に保存されたものが再生され反復される。なまの体験とフィクションがつながり、一回きりの出来事が繰り返される。言語と身体は相互浸透していて、言語は身体の固有性なしにはありえず、身体は言語的なフォーマットなしにはありえない。人間の普通の生活の中には、言語的にも身体的にも、繰り返されるものと一回きりのものが同時にあるのだ。日常的な言葉と身体の使用は凡庸でどこかで見たような安直なものなのだけれど、それによって他者と体験を共有して生きることができる。またそれと同時に身体にはただのノイズのような意図せざる音や動きがあり、人と意味を共有することが困難だからこそ、どこまで辿っても無意味なものへと逸れていって、私たちの日常が多様に開かれる可能性をもつ。

だから、この作品に対して私自身の応答をしないとフェアじゃないと思うのである。なんというか、もったいない。これは真剣な、人の共存と自由についての実践だと思うのだ。

ちょっと恥ずかしいのだけれど、私が観ながら考えていたのは「どっちと友達になりたいかな」ということだった。モハメド・アリ対アントニオ猪木の試合映像を少しだけ見たことがあるけれど、そういう感じと言ったらいいか。二人は同じ台本に対して全然違うことをやっているように見えた。山縣さんがさりげなく「変」な動きをするのに対して、飯塚さんは踊りながら山縣さんの台詞に応じて何かを言って煽るような振りが目立っていた。最後のパートで山縣さんが飯塚さんを袋叩きにしながら「そういうとこだぞ!」みたいなことを言っていたのは、なんだか最後に飯塚さんが逆襲を受けたようにも見えた。二人は全然違うのだけど、お互いにがっぷり組み合って、戦っていた。二人という極小の関係の中で応酬が凝縮し、全てが相手との対照において光っていた。相手がいるということの美しさを感じた。二人は対戦相手でもあり戦友でもある。アリ対猪木なのである。

そんな二人に対して「どっちと友達になりたいかな」と考えるのはめちゃくちゃ野暮なのだけれど、そう思っちゃったんだからしょうがない。思えば、「ホールドミーおよしお」という作品そのものも「友」という要素を含む。男は友達とフェスに行く。別の男はバイト先の同僚からフェスに誘われるけれどうまく友達になれていない。この作品はフェスそのものよりもフェスへ行くまでの道中が描かれている。それは移動すること、誰かと一緒になることで、つまり「遠い距離を近づける」ということだ。フェスの遠さ。北海道の遠さ。人とお近づきになれない。移動には供が要る。友とは距離がある。とも、とも、とも。やはりこれは二人の人間がどう共存しどこに自由があるかと問うている演劇だ。

中学の入学式のときになんだか気になって声をかけた友人は今も親しい。大学に入ってすぐに声をかけてくれた友人も仲良くしている。一緒に電車に乗って帰ったりした。そういう写真のような、あとからとってつけたようなイメージとともに、学校に入りたてのそわそわした高揚感が蘇ってくる。山縣さんは裸電球のようにきらめいていた。飯塚さんは大きな鏡だった。額縁のある大きな姿見に映る光に誘われた私はそのうち必ず姿見の装飾性や手触りのある存在感に興味を持つだろう。友達になるというのはそういうことだと思う。そんなことを考えた体験だった。

ますも・ゆうと|精神科医、Podcast「読みながら考える」、tw: @yutomsm


オフィスマウンテンvol.12
《ホールドミーおよしお – “2人”版》
作:山縣太一
演出・振付・出演:山縣太一、飯塚大周

2022年12月17日−18日
横浜市民ギャラリー地下1階展示室
YPAMフリンジ