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Photo by TANAKA Yuichiro
Courtesy of
Organizing Committee for
Yokohama Triennale

Performance view of “Manga Scroll” at Yokohama Triennale 2011

やさしいね 物語みたい ほんとのこと[*1]

The only thing that I had heard during that entire term that I could remember was a moment when there came this upwelling, “muggawuggastreamofconsciousnessmugga wugga,” and phoom!―it sank back into chaos. ―Richard P. Feynman

あのクリスチャン・マークレーが無伴奏の長編歌曲を作曲した、そう知ったとき、随分と落ち着いたものだと多少なりとも驚かずにはいられなかった。かつてこのアーティストがリリースしたファーストソロアルバム、《Record Without A Cover》(1985)[*2]と題されたそのレコードは、その名の示すとおりジャケットを持たず、保護膜を失い剥き出しの市場の暴力に曝されることになるであろう裸のLP盤として発売されたのだ。「商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる」[*3]と書いたのはマルクスであり、この文は直ちに「言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる」[*4]と続いていくのだったが、アルバムを手にレコードショップから戻り、ターンテーブルへと針を落としてからの数分間聴くことになるのは、移動によって知らぬ間に生じた盤面上の無数の傷である。それが市場万能主義(ブードゥー・エコノミクス)時代のジョン・ケージやマルセル・デュシャンのレコードによる賢明なリサイクル方法であることはもちろんなのだが、制作過程と交換過程の区別を暴力的に無効にしたというだけでなく、その行為が常々人の手を介して行われながらも一貫していかなる意図をも欠いているという点で、この作品はたんなるアーティストの主観的(サブジェクティブ)なアイロニーに収まるだけに終わらないオブジェクティブな貫徹性を持っていた。

2011年10月22日、ヨコハマトリエンナーレ2011の関連イベントにて超歌唱家・巻上公一によって歌われたクリスチャン・マークレー作曲の無伴奏の歌曲《Manga Scroll》(2010)、そのスコアは海外輸出を目的に英訳された日本のマンガのコマの内部に描かれた効果音(サウンドエフェクト)としての擬態/擬音語が、大きさを変えながら蛇行するひとすじの文字列の曲線としてコラージュされた20メートルのロール紙だった。このモノクロームのグルーヴと共にある図形楽譜というべき長大なスクロール、しかしそれはなぜこのように形作られねばならなかったのかと思わずにはいられないというのもまた確かなのだった。「マンガの起源は、絵とともに物語る伝統的な巻物に遡るわけですので……」という、演奏前に作曲者によってなされたその解説からは、第二次世界大戦後に育まれた日本製アニメーションと伝統的日本絵画という同一地域における異質な歴史区分へと分散する視覚的要素の数々を、抽象化とともに狡猾に現代美術作品という平面へと還元させたスーパーフラットからの影響を思わせなくもない(この日本と美術という地域問題については後にもう一度触れることになるだろう)。とはいえ、絵巻物の水平軸を時間軸として――ということはいうまでもなく楽譜として――解釈する試みそのものを痛烈に批判したのが他ならぬスーパーフラットを冠した村上隆であった[*5]ことからもわかるように、あくまでそれは部分的な影響にとどまっていたようだ。 実際、このスコアは、言葉と曲線のみによるボーカルスコアを作成したジョン・ケージ、カトゥーンを楽曲とみなしたジョン・ゾーンといったアメリカ実験音楽の伝統の巧みな、それ自体見事な再編集であり、日本のマンガというキッチュな素材、翻訳という変換過程、コラージュという間接的な手法の強調はむしろ、クリスチャン・マークレーという一人のアーティストの一貫性を保証するための身分証として集められたのだと思えなくはない。そして、さらにそれを巨大(モニュメンタル) なスケールへと帰着させるためのメディアとして用意されたものが巻物だというのは言い過ぎなのだろうか。 しかし、それはかつてスロッビング・グリッスルを率いたジェネシス・P・オリッジが先んじた時代の空気ではあったのだが、《Record Without Grooves》(1987)[*6]と題されたゴールドラベルで飾られた無音の溝無しレコード、No Waveの金字塔というアイロニカルなジェスチャーによって、マークレー自身がモニュメントを戯画的に先取りして自ら作品化してしまったそのかぎりにおいて、このアーティストを前にしたモニュメンタルという言葉はいかにも滑稽に響かないはずもない。そしてなにより、たしかに途方もない労作には違いないであろうこの《Manga Scroll》のスコアには、初期の作品にあったあのオブジェクティブな貫徹性を見ることは最後まで難しかった。 だが、ここまではあくまでも作品のスコアについてみてきたにすぎないのだ。ウィトゲンシュタインがいう[*7]ように、それが楽曲の思考の写像の一つであるとしても。いや、そもそも「「精神」には本来、最初から、物質に「取りつかれ」ているという呪いがかかっているが、この物質はここでは動く空気層、音、要するに言語という形で現れる」[*8]という言い伝えがあるではないか、眼で愛でられる声楽作品などナンセンスに他ならない。それにしても、コラージュによる曲線の文字列を歌うとはいかなることか。「歌うじゃないね……解釈する……」とふと漏らした演奏前の超歌唱家自身の言葉をかりそめの答えとするにしても、「客観的に話す場合には、表されるのは実際の関係であり、主観的に話す場合には、それは事物間の関係の各々に応じて意識の中で生ずる色合いに相当する意識の流れである」[*9]とウィリアム・ジェームズが定義したごとく、その解釈はいかにしてなされるのか。客観的(オブジェクティブ)にか?それとも主観的(サブジェクティブ)に? とはいえ「いずれの場合も関係は無数であって、それらのすべての色合いを正当に表すことのできる言葉はこの世の中には存在しない」[*10]とジェームズは続けているのだが。

《Manga Scroll》の巻上公一の超歌唱は、一発の鈍い破裂音とともに始まった。screeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeaaaaaaaaaamと冷たく聴こえる叫びがそこに続き、その母音はただちに無声の持続音へと変わりながら再び破裂音として終わるのだが、その後の空隔を埋めるごとくもごもごと口ごもりながら発せられた低音の持続は、次第にその音程を上行させ、そして唐突に、ホーメィ、あのトゥバ共和国の騎馬民族に伝わる倍音唱法へと変わっていったのだ。聴く者に、そして譜面上でなよやかに身をよじらせる無色の文字列へと加えられた暴力[*11]としての地理的移動、しかし、この色彩に満ちた知的暴力はそれだけにとどまることをしない。 トゥバとはどこか。いや、そもそもマンガの国、絵巻物の国日本とはどこなのか。『日本美術の誕生』と題されたその書物のなかで考古学者・江上波夫は、前期古墳文化と後期古墳文化の間のその非連続性を強調し、前期を「平和的・農耕的・呪術的・祭祀的な、また東南アジア的な性格」[*12]、後期を「現実的・戦闘的・王侯貴族的な、いわば騎馬民族的な性格」[*13]と定義したうえで、その要因を東北アジアの騎馬民族による倭人の征服――天神(あまつかみ)による国神(くにつかみ)の敗戦という神話――にあると断定しているのだが、その後期古墳文化の美術として武器と馬具を挙げ、さらに、『騎馬民族国家』においてこの時代の馬鞍と同種の原始的な鞍が現在でも「アルタイのトゥバ自治区のトジンスク地方の荷鞍にみられる」[*14]ことを指摘している。ここでその学術的真偽を問うことは控えたい。 ただ、「僕らが「日本美術史」とか「日本現代美術」といったふうに考えるとき、日本という国がはるか過去に起源をもっていて、「日本の美術」という営みがそこから連綿と受け継がれてきて、「古代」から「中世」、「近世」の美術、そして「近代美術」からついには「現代美術」をくぐり抜けて、二十一世紀まで至ろうとする、その連続性をどこかで素朴に前提としてしまってはいないか」[*15]という多大な影響力を誇る日本・現代・美術評論家の素朴なる思い込み、そして作曲者マークレーが不用意にも導入してしまったその日本というコンテクストそのものを、それとはなしに起源の最奥へと神話的に遡行するようにみせながら、巻上公一は考古学的な聡明さとともに《Manga Scroll》の冒頭のほんの数フレーズにおいて、それを一瞬にして瓦解させたのだといえなくもない。このトゥバ帰りの超歌唱家の過剰なる意識の流れ、その「小さな星 その小さな国の 小さな出来事さえも」[*16]呑み込んでいく意識の流れは、即時的に流通可能な程良い難解さを捏造しつづけずにはおれない現代美術に対する、まさに超人的な演奏家の解釈力の優位性を端的に示していたには違いないのだ。とはいえ、これを特権的身体性を誇る演奏家の優位として受け取るだけなら、それもまたもう一つの神話=美術史を捏造することにほかならないだろう。しかしこれだけは言えるのだ――演奏家の意識の上とも紙の上の文字とも会場の空気層とも観客の内耳とも指し示すことの出来ぬ空間のそのただなかを、たしかに騎馬民族は通過したのだ――と。《Manga Scroll》、それは反歴史主義的なるサーガとしてのまさしく雄大な歌だった。「アジアの中心の辺境チューバ、あの魅力ある切手の中の失われた里は、われわれのとてつもない夢どころかその極限をはるかに超越していたのだ」[*17]

[くさかり・しろう|音楽家]


(c) Christian Marclay /
Courtesy of Gallery Koyanagi
Image courtesy of
Graphicstudio/USF,
Tampa, Florida, USA
Photo by Will Lytch

Christian Marclay《Manga Scroll》2010

《Manga Scroll》

スコア:クリスチャン・マークレー
ヴォイス・パフォーマンス:巻上公一

2011年10月22日
日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)、BankART mini
ヨコハマトリエンナーレ2011関連イベント

  1. 巻上公一「小さな星」、FAIRCHILD《UKULELE》(ポニーキャニオン、1989年)所収Back
  2. Marclay, Christian. “Record Without A Cover”. 1985. Recycled Records, LP; 1999. Locus Solus, LP, Japan.Back
  3. マルクス『資本論』(一)、エンゲルス編、向坂逸郎訳、岩波文庫、岩波書店、1969年、p.152Back
  4. 同前Back
  5. 「そうじゃないだろう。絵巻物というのは映画的だ、といいきったとたん「絵」ではなくなってしまう。映画のように時間軸によって左右されずに、右から左、左から右と、もちろん動線の約束事があるにせよ、時間からは自由なんです」とシンポジウム「原宿フラット」において村上隆は発言している。 浅田彰・岡崎乾二郎・椹木野衣・村上隆「原宿フラット」、『美術手帖』2001年2月号 No.800(美術出版社)所収、pp.177-178 Back
  6. Marclay, Christian. “Record Without Grooves”. 1987. Ecart Editions, Edition of 50, 12″ black vinyl grooveless record with gold label in black suede poche with gold lettering.Back
  7. 「レコード盤、楽曲の思考、楽譜、音波、これらはすべて互いに、言語と世界の間に成立する内的な写像関係にある」 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、p.41 Back
  8. マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』服部文男訳、新日本出版社、1996年、p.38Back
  9. W. ジェームズ『心理学』(上)今田寛訳、岩波文庫、岩波書店、1992年、p.226Back
  10. 同前Back
  11. 「言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる」[*4]という一文に対して、マルクスは次のような注釈を施していた。「かの篤信をもってきこえた一二世紀においては、これらの商品の中には、往々にしてきわめてなよやかなものも現れている」 マルクス『資本論』(一)、エンゲルス編、向坂逸郎訳、岩波文庫、岩波書店、1969年、p.153 Back
  12. 江上波夫『日本の美術 2 日本美術の誕生』、平凡社、1966年、p.66Back
  13. 同前Back
  14. 江上波夫『騎馬民族国家――日本古代史へのアプローチ』中公新書、中央公論社、1991年、p.287Back
  15. 椹木野衣「新・日本ゼロ年」、『美術手帖』2001年2月号 No.800(美術出版社)所収、p.167Back
  16. 巻上公一「小さな星」、FAIRCHILD《UKULELE》(ポニーキャニオン、1989年)所収Back
  17. ラルフ・レイトン『ファインマンさん最後の冒険』大貫昌子訳、岩波書店、1991年、p.78Back