首くくり栲象 庭劇場への雑感─2012年11月《白雪》
Review|生西康典
庭劇場はその名の通り、栲象さんのご自宅の庭で開催されている。そして、首くくり栲象の名が示す通り、首をくくるパフォーマンスである。自宅の庭で首をくくって、それを他人に見せるのである。観たことがない人は、きっと過激で衝撃的なものを思い浮かべるだろう。しかし実際に、首をくくり、宙にぶら下がった栲象さんを観た人達の心に去来するのは、不思議な静けさなのである。
中央線の国立駅で降り、南口に出ると、正面に大学通りと呼ばれる広い道がある。片側二車線の車道の左右に桜並木の緑地帯と歩道がある広い通りである。庭劇場へは真っ直ぐに延びたこの道をひたすら歩く。庭劇場に辿り着くまで、徒歩だと30分とは言わないが20分はゆうにかかる。この緑地帯の木々に季節を感じながら、並木道をゆっくりと歩いて行くことは、大袈裟な例えかもしれないが、参詣する際に通る参道のような感覚も少しばかりある。庭劇場に向けて、心を徐々に整えて行くのに必要な時間にも感じるのだ。一橋大学を通り過ぎ、桐朋学園を越え、国立高校の直ぐ手前を左折する。そこから3分ほど歩くと、右手に高校の北門があり、その向かいに駐車場がある。そこに入って行くと左手の奥に木々の茂みに覆われた古ぼけた小さな平屋がある。その家の本当に小さな庭が庭劇場である。劇場とは言っても、庭の片隅に二列に並べられた手作りの小さなベンチが3つばかり置いてあるだけだ。庭だから当然屋根も無く、吹きさらしである。そして一本の乙女椿の木。縁側の軒下から、その乙女椿に向かって一本の材木が渡されていて、そこに首くくりのための赤い縄が掛かっている。簡素な照明が軒下にひとつだけあり、その辺りをぼんやり照らしている。
開演時間になると、栲象さんが室内から縁側に現れて、静かに庭に降り立つ。ゆっくりと縄の方に歩いて行き、鉄製のアンビルを踏み台にして、縄を首に通す。観客に静かな緊張が走る。台から足を離すと、栲象さんの身体が宙に浮き、縄が軋む音がする。その音は随分長い間聴こえるような気がするが、やがて宙に揺れる栲象さんの身体が静止する。数分経過したのだろうか? 永遠のような長い沈黙の時間が訪れる。栲象さんは静かに顎にかかっている縄に手をかけて、懸垂するにように身体を持ち上げ、地面に降り立つ。それから、ゆっくりと庭を歩き、再び、縄の方に歩いて行き、首をくくる。これを凡そ40分ほどの間に3~4回ほど繰り返す。台詞は無く、終始無言の行為である。
パフォーマンスとは書いたが、栲象さん自身はアクションという言葉を使われているようだ。そういう意味では60年代に生まれたアクショニストの系譜に連なるのかもしれない。しかし、僕が栲象さんから聴いた言葉は、たしか「日々の行為」、もしくは「営為」だったと思う。栲象さんが首くくりのパフォーマンスを始めてから既に40年以上の月日が流れており、この家に住み始めてからも30年くらい経っているそうだ。庭劇場は月に2~5日ほど行なわれるが、行なわれない月もあるし、何か月も行なわれないこともある。しかし栲象さんはここ十数年、誰も観ていなくても、休むことなく毎日首をくくり続けているという。
近くに高校があり、日中は賑やかだが、庭劇場が通常始められる夜の8時ともなると、辺りはしんとしている。庭劇場での栲象さんの動きをじっと見つめていると、観ている自分の集中力が増していき、同時にすごく静かな気持ちになる。栲象さんは台風の眼のように穏やかな中心であり、その存在が消えていく。そして普段はノイズとしてしか意識されない町のざわめきや、肌に触れる風などが、クリアに浮かび上がって来る。終始、雑念が鳴り響いている自分のような人間には、こうした意識が澄んだようになる時間はとても貴重で、庭劇場にはもう何度か訪れている。
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僕が首くくり栲象さんを知ったのは、そんなに昔ではない。ちょうど今から2年ほど前のシアターカンパニー・アリカの公演《蝶の夢/Butterfly Dream》に栲象さんが出演された時だ。それから川口隆夫さんの公演を観に行った時、公演後に隆夫さんに感想を伝える栲象さんの話のユニークさに改めて強く興味を惹かれて、庭劇場を観に行った。最初に訪れた時には、本当にここなんだろうかと不安になりながら、木々の茂みを抜けて庭劇場に入っていった。開演時間にはまだ少し早かったのか、栲象さんに、まぁ上がりなさいと言われてお宅にお邪魔して飲み物を御馳走になった。ブルーベリー味のお酢が入った水を一杯。隅に本が乱雑に積み上げられた部屋の真ん中には炬燵が置いてあり、日常の生活を感じるその食卓の上には何故かカナブンの屍骸も乗っかっていた。わざわざそこに置いたわけではなく、たまたまカナブンがその上で死んで、そのままそこにいるといったような風情で。部屋の中と外の境が曖昧である。風通しの良い栲象さんの家は、庭園のあずまやのようだと思った。
台風の晩に、雨合羽を着て、観に行ったこともある。宙に浮いた栲象さんの足元の穴に水が溜まり、足先が水に触れていた。水溜りが鏡のようだった。天地が逆になり、まるで天から栲象さんが降りて来ているように感じた。
また、2012年11月28日《白雪》と題された公演を観たときには、それまで観た時と同じように周囲の音や空気にフォーカスがあって、異常にクリアに感じたのと同時に、これまでならスッと消えていった栲象さんの存在が、消えるどころかどんどん強まっていった。恐るべき緊張感だった。これ以上、この緊張感に耐えられそうにない、だがしかし、このままずっとこの中にいたいとも思った。時間の感覚が分からなくなる。すごく長い時間が経ってしまったような気もするし、ほんの一瞬の時間のような気もする。僕が一瞬の時間を長い時間に感じたのは、他には車に撥ねられて宙に浮いた時だけだ。
公演後には、観客の多くは、そのまま栲象さんのお宅にお邪魔して、手料理を御馳走になり、お酒を飲み、しばし時間を忘れて話をすることが多い。そんな、ある時、栲象さんが五衰の話をされていた。その中でも、本当に恐ろしいのは、生きているのに飽きてしまうことで、飽きるのは欲望にではなく、生きること、つまり命に飽きることなんだ、と。
本来、首をくくるというのは死ぬため、命を捨てるための行為だが、栲象さんの首をくくるという行為は、まるで生きるために行なっているように思えてならない。そして観ている自分もどこか生きるということを再認識するために観ているような気がする。どこか観ている人達にとっての死の疑似体験なのかもしれない。庭劇場を体験することは、生きてることと、死んでることの狭間に立ち会うこと。生と死の狭間に身をおいてみることで、その境界が溶けて行き、生きてることも、死んでることも、意識出来る。そんな気がする。そして死との狭間を目撃してから、浮かびあがって生に触れる。
こうして言葉にしてしまうと、なにか意味があるようだが、意味は無い。意味は無いけれども、それが大切なことだということだけは分かる。一見、ショッキングな栲象さんの行為も、特別なことではなく、彼にとっての日常なのだ。そしてその日常の行為こそが、実は特別で大事なことなのだ。
こんな記事を読んだことがある。東北の震災で家族を亡くし財産も全て無くした若い女性が、何もなくなってしまって困るけれど、無になってみないとわからない清々しさがある、と語っていたという。ものすごい境地だと思った。
五月に咲いた花だったのに
散ったのも五月でした 母・寺山ハツ
庭の乙女椿が咲くのは五月だが、その時期には不思議と観客が一人も訪れないことも多いそうだ。乙女椿が満開になる時、栲象さんは庭劇場の唯一の照明を自分にではなく、乙女椿に当てているという。そんな時には、首をくくっている自分なんかではなく、満開の花を観れば良いんだから、と。僕はそんな首くくり栲象という人間を信じている。
[いくにし・やすのり|演出家/美術家/映像作家]
首くくり栲象氏からの返信[*1]
印牧さんおはようございます 先日いただいた 生西文章 拝読しています なんらもんだいはありません ともかく わたしは強烈な批判を獲たい と願っていました
そして 生西さんの文章で見つけました いま 電車でその文章をもっていませんが 首くくり栲象は自宅(自分が住んでいる借家)の庭で 首をくくる行為をやり それを人に見せている といった記述です
これは首をくくって死んだご仁と 同じ系譜でありながら 一方は死に 一方はそのときさらに生きる といったベクトルを示しています 死んだご仁の強烈な批判が この事実のさりげない記述に燦然とかがやく 首くくり栲象への強烈な批判です
わたしは 他の劇場でやりたいと考えません 庭でやるからこそわたしは行為の核に触れることができるのです だれもいないときにやる庭は 庭公演でも それはたいへん重要なのです
ともあれ その記述を見つけて これは首くくり栲象の庭を見た目だと思うのです そういった目に貫かれて庭の行為は日々遂行される
これを渇望しています
首くくり栲象
追伸 競馬馬の切手気に入りました
首くくり栲象 庭劇場《白雪》
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2012年11月28日, 29日
くにたち庭劇場
- 生西康典氏によるこのテキストについて、首氏よりメールでご返信をいただいた。掲載をご承諾くださった首氏に感謝いたします。印牧雅子(編集者)Back