Body Arts Laboratorycritique

photo: bozzo

見ることを見つめる

1日4組ずつ、計32組の公演が8日間続く「ダンスがみたい!新人シリーズ13」の出演者リストに「ドラマトゥルク:川口隆夫」のクレジットを見つけて観に行った[*1]
立石裕美《1960イチキューロクマル》。彼女のホームページには「1960年代の革新的なダンスの実験。イボンヌレイナーとトリシャブラウン。彼女らが残した3つのトピックを基に、2015年新たなダンスのキセキを紡ぎ出す。」と書かれていた。

開演直前に出演順の案内があり《1960イチキューロクマル》がトップバッターと知る。それが想像させることを思い浮かべて間もなく、黒のパンツとタンクトップ、細い縞柄のピンクがかったベージュのジャケットに裸足の彼女が、35mmのスライド映写機と2、3冊の本を持って登場した。2、3冊の本に見えたのは本とノートPCで、それらやオレンジのスマートフォンを舞台上に配置していく。その準備する過程も見せることに組み込まれた作品に見える。とはいえそれは淡々と、ただ丁寧に行われた。物を置いて、また舞台裏へ戻り、ピンクのバランスボールを持ってきて中央奥に配置する。それは彼女に必要なものが置かれた部屋のような状況の舞台。
続いて90cm幅程の白のロールペーパーが持ち込まれる。それがくるくると広げられると、既に何度か体の輪郭がトレースされた黒い線が描かれている。ドローイングがトピックの1つなのかと思う。ドローイングはトリシャ・ブラウンが扱ったトピック。そしてそれはここのところ川口氏が取り組んでいるデッサン会のことも思い出させた。

短い記録映像で見た彼女の軽やかなダンスを生で見てみたいという平凡な期待は見事に裏切られたけれども、起こっていること、それを見ることに静かな興奮が続く。
既に描かれていた輪郭線に合わせて足を置いて座り、黒のマーカーでトレースする。足を伸ばし続きをなぞる。線はそのままゆっくり体を一周して新しい体の形が重ねられる。ドローイングというよりボディトレーシング。描くというよりストンとした転写。

バランスボールに座る。手をクロスして腕を擦る。太ももを擦る。膝下を擦る。体を温める動作。日常にある動作を少し譜面に起こしたような動き。でもそれは感情からは切り離されていて、物語を生まず、先を予測出来ない。ダンス作品を見る時、自分がどんなことを頼りに見ているのかを見つめる。
体の形の輪郭線に合わせて寝そべり、腕を天井に伸ばす。脱力して肘からバタンと降ろす。足を上げて、バタンと脱力する。右腕/左足/右腕と右足/両手/一本ずつ確かめるように伸ばしては脱力する。
ボディトレーシングは小さい子供が自分の体の部位を学んだり、体に対する想像力を養ったりする為に行われたりもする。そんな風にもう一度確かめ直すように体を探る作業のようだった。

バランスボールに座る。さっきの擦る動作が少し滑らかに繰り返される。また紙の上に寝る。さっきの持ち上げて降ろす動作が少し複雑になる。バランスボールに座る。バウンスしながら体を擦る。そして紙の上に寝る。胴体と胴体に付いた4本の手足が可能な運動、重心を細かく移動させて、手を使わずに裏返ったりする。徐々に動的になる。
座る 立つ 寝る 擦る バウンスする 脱力する そのいくつかの繰り返し/積み重ね。それは、トリシャ・ブラウンの初期作品《Trillium》の制作過程に題材を得ていると思われる。

スマートフォンを操作する。バランスボールに背中から体重を預けて、スルンと床に流れる。ポーンとボールを蹴る。スマートフォンからアラームが鳴る。片手で持ち上げて直線的に歩いて回る。と思うと突然倒れたりする。動作と動作の間の脱力。開いたノートPCにどこかの部屋の映像が流れる。それはグラグラと揺れ始め、外の風景も揺れていて地震の映像だと分かる。少し唐突に感じたその映像が、この作品の中でどんな意味を持つのかは分からない。それでもそこに、意図が必ずあるであろうと探ってしまう私の習慣的な脳の運動が、彼女にとっての大きな記憶なのかと想像したりする。それは私にも身に覚えがある、足元が不安定になった出来事。無意識に体が影響を受けて反応している、環境や社会のことかも知れない。

photo: bozzo

地震の映像とアラーム音が響く舞台にポールが持ち込まれる。写真を撮影する時のバックペーパーのように、輪郭線のトレースされたロールペーパーが吊るされる。そこに彼女がどこかでポーズをとる写真がいくつか映されていく。それは連続していない、いつかのポーズ。それに合わせて同じポーズをとる/直線上に点を記すように移動しながら。次に投影されたスライドは、ポーズの輪郭だけがトレースされた線。もう一度、直線を移動しながらポーズをトレースする。次にスライドなしでそれが繰り返される。ポーズとポーズの間に脱力が加わる。もう一度繰り返す。体をトレースするように擦る動作、動作をリセットするような脱力/休止符。

ある点からある点へ移動する運動の軌跡がドローイングであるなら、そしてドローイングとは、まだ描かれていない線を描こうとする即興だと言えるなら、彼女はここで、ある時点の自分のポーズを点として配置したドローイングの繰り返しからフレーズを紡いで、必然的に動く身体を引き寄せていった。いつかのポーズは彼女のボキャブラリーとなり、動きと身体が結びついて、能動的に流れる線になる。エモーショナルな情動が、何を理由にどこで起こるのかを知るような時間だった。それは私の中で起こる。重ねられた動きの記憶が、描かれる線の一瞬の加速に納得をする。体の中心を見ている。

私はもっと彼女の動きが見ていたいと思ったけれど、動きを止めて、ロールペーパーの端を伸ばし、もう一度体のトレースを始める。そこで照明が落ちて終わり。最後まで、作品側の「見せる」ボリュームは、私の「見る」そして考える余白を埋め尽くしてしまわなかった。

この作品は問いと分析、そして解答の入口で構成されていたと思う。ダンスへの思考の過程が振付けられた作品。こうした試行を経た身体のダンスを模索する彼女のセルフポートレイトのようでもあり、何が見たいのかを観客側に喚起させる問いのようでもあった。例えばこれがシリーズだとして、今回の作品がその第1作目だとしたら、次はどんな展開をするのか、それがとても見たい。

ダンス作品を見る時、写し鏡のように自分が見たいものを見るのか、見せることは目的なのか、それは何を? 見るとは解釈や理解なのか、何を見たいのか、ダンサーのパーソナリティは私にとって大事なのか、作品の中のリアリティって何なのか、それは必要なのか、考えずにいられない。そして軽やかに踊る立石裕美も、私はいつか見たい。

うえの・てるよ|執筆、朗読など]

photo: bozzo


執筆にあたり、以下の資料などを参照した。

・Ramsay Burt, “Judson Dance Theater: Performative Traces”, Routledge, 2006
・岡崎乾二郎監修『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』(ときの忘れもの、2006)


《1960イチキューロクマル》
作・出演:立石裕美
ドラマトゥルク:川口隆夫

2015年1月13日
日暮里d-倉庫
「ダンスがみたい!新人シリーズ13」

同作品は、2月7日「福岡ダンスフリンジフェスティバル~ダンスの発火点~vol.8」(ぽんプラザホール)でも上演された。

movie
https://www.youtube.com/watch?v=HpayOgDj6hM

  1. 川口隆夫と立石裕美は2012年初演のエルヴィ・シレン振付作品《KITE》で、ワークショップ参加者の中から選ばれた5人のメンバーとして共演している。2013年、立石裕美の1stソロ公演「Pi~inspiration~」でも川口隆夫がドラマトゥルクを務めている。Back