Body Arts Laboratorycritique

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Hideto Maezawa

動詞としてのダンスについて

ある日私は「ダンスとは何か」という問いを捨てました。ダンス公演を見るたびにこの問いを繰り返して答えが出せずにいるうちに、問題はそこにはないような気がし始めました。ダンスが「何か」はわからない。でも、ダンサーのことならわかる気がする。ダンサーというのは森羅万象の踊っているダンスを見つけてきて翻訳する人のことだと思います。それで私はダンス公演を見るときには「何処にあるダンスをこの人(たち)は拾ってきたのかな」「ダンスは何処から拾われてくるのかな」と自然と考えるようになりました。そして公演のなかで展開される出来事に夢中になることができると、私はそんな問いを持っていたことはすっかり忘れて、ただ呆然とそこにダンスが現れてくるのを見ているという感じになるのです。
もうひとつ「ダンスとは何か」という問いを私が不満なのは、ダンスという言葉が名詞で威張っていることでした。動くことそのもののようなこの単語を名詞形にして問いをたてるのが、どうも腑に落ちない。それは動物の剥製を見ながらその走る速さを議論することのような気がしてしまう。「ダンスとは何か(What is dance?)」と問うくらいなら、ダンサーに向かって「あなたは何を踊るのですか(What do you dance?)」と問いたいと思いました。

ダンス(動詞)には姿がない。ダンサー(名詞)には姿がある。いまダンサーという言葉を使いながら私が最初に思い描いている人は、福留麻里さんです。福留さんは古代ギリシアの哲学者みたいに生活とダンスをひとつの円環のように(または同じ意味をもつ言葉として)考えている人です。福留さんのダンスを何年も見続けているうち、そのように考える=そのように踊る人でなければ、私にはダンサーとは思えなくなりました。
十年近く前、私たちを引き合わせてくれたのは、小口美緒さんというダンサーでした。長い時間をかけてお互いの作品に触れ一緒に過ごすなかで、姿のない、動詞としてのダンスや詩について、感触を確かめ合うような作業を私たちは続けています。福留さんがこれまで各地で踊って東京へ帰ってくるたびに私に話してくれた様々な光景、湖の上に青い光を見たこと、ジンベエザメと泳いだこと、そのほかたくさんの光景を、私は自分の記憶のように持っています。どれも、姿のないダンスがいっとき光や動物の姿を借りて、福留さんに挨拶しにきたような光景です。

八月の終わる金曜日の夜、私は東京国立近代美術館で、高嶋晋一さん、高橋永二郎さん、福留麻里さんの三人によるダンスを見ました。人によってはダンスと呼ばないかもしれないけれど、私にはダンスに見えました。「Half of Us」というタイトルの公演でした。
会場の真ん中に設けられた客席が中央の通路を堺に半分ずつ背中合わせに並べられていて、舞台は二箇所に分かれています。一方の舞台を見やすい席に座れば、もう一方の舞台を見るのは困難です。観客は最初こそ、自分の前方の舞台だけを見て背中の側は諦めようとしますが、背中の方からも身体の動く音や会話の声が聞こえるので、どうしても気になってきます。我慢できずに振り向くと、向こうからもこちらを振り向いている観客と目が合います。そのうち観客の多くは水が波立ってくるように椅子の上に膝をついたり立ち上がったりし始め、見たいものを見ようと客席の外に移動する人もいます。 
そこで三人の出演者によって「何が」行われていたのか、私には説明できません。私はただ波の一部になりながら、その光景を眺めていました。その光景というのは——三人の男女が縫い針のように縦横無尽に会場を(人のあいだを)動き回り、果てしない、狂気のような論理の応酬がその鋭さを感じさせないほどほにほにとゆるやかに、ごく普通の会話然と繰り広げられていって、そしていつのまにか終わっていって、後にはコップの水が波立って雫が周りにこぼれたかのように、観客が立ったり座ったりしたまま客席からはみ出て、取り残されているという光景でした。「際立つ」「こぼれる」「はみ出る」……こうして書いていると徴のように、嬉しい動詞たちが浮かびあがります。私は、論理のダンスを垣間見た、論理が踊っているのを垣間見た、と思いました。
でも論理が踊っているとは、いったいどういうことだろう。私は論理というものをイメージするとき永遠に自転するひとつの宇宙を思い描きます。それ自体が宇宙なので、地球が含まれているほうの宇宙の範囲を越えてどこまでも進んでいけるものです。だからその進みかたが際どいときには、地球=宇宙の範囲で生活しているわれわれには狂気に感じられます。「Half of Us」で観客の波立ちを先導するように波立っていった三人の身体は、論理の会話を媒介にしながら、身体という宇宙に集中していくことで論理と同じちからを持とうとしているように見えました。われわれがイメージできる範囲の向こう側へ連れていってくれるのが論理だとしたら、三人のダンスは、イメージできない論理(動詞)の進路を身体(名詞)に向けかえ、通過させてみる実験だったのかもしれません。

おおさき・さやか|詩人]




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Hideto Maezawa

高嶋晋一《Half of Us》
出演:福留麻里、高橋永二郎、高嶋晋一

2012年8月31日
東京国立近代美術館 企画展ギャラリー
「14の夕べ / 14 EVENINGS」にて上演


写真提供:東京国立近代美術館