Body Arts Laboratoryinterview

contents

more

1.

―ユンさんのルーツを教えてください。

私は東京生まれの東京育ちですが、両親は韓国から渡ってきました。言葉は、日本語とハングルのチャンポンです。

―ダンスに触れたきっかけは?

幼い頃に通っていた朝鮮学校での、民族舞踊のクラブ活動からです。7歳くらいのときです。それからは民族舞踊一色で生きてきて、自身の作業をはじめたのは大人になってからです。高校生くらいの頃から「何かが違う」と思いはじめ、ヒントを求めて、いろいろな公演を見て歩くようになりました。広太さんの公演にも、何度も行きましたよ。

―作品を作りはじめたときに、民族舞踊を自分の世界のなかでどのように捉えていましたか? その二つがすごく混ざり合っているような印象を受けるのですが。

はじめに習った民族舞踊は、日本で言うところの、クラシック・バレエに対してのモダンダンスのような位置のもので、民族的な素材や要素を現代的に発展させようとするものでした。基礎トレーニングではバレエもするし、「基本動作」という、体系化されたメソッドの数々を徹底的にマスターするし、とにかく「動ける」身体を目指すのです。作品としては、民族的要素に根ざしたもの、ドイツ表現主義による影響が大きいもの、日常の生活感情に則したものなど様々でした。そのなかで私は、それらの優れた面を吸収しつつも次第にもっと起源の方に、古典に惹かれるようになり、並行して伝統音楽や舞踊を学んでいきました。それぞれの共通点や差異を自分なりに捉えながら、自身にとって「いいもの」を残すようにしていきました。その頃のものが踊りに出てくるのは、やはり染み込んでいるからですし……。特に呼吸の使い方やリズムの捉え方などには、民族的なものが色濃く反映されていると思います。

―ユンさんのリズムはとても特徴的ですね。いつも心地よさを感じます。

そうですか。でも、それらを一時期「封印」したこともありますよ。「自然に」動いてしまうことをどうにかしようと、徹底的にブロックしてみたり……。何もできずに、「動けない」時期もかなりありました(笑)。

―山田せつ子さんとの出会いは?

きっかけは雑誌で、せつ子さんと枇杷系の存在を知り「ここに行こう」と稽古を見学に伺ったのですが、いざ行くと、目の前に透明なシャッターが降りるような感じがして……。「今じゃないな」と思い、それからしばらくは再び孤軍奮闘。正式には、98年から参加しました。

―せつ子さんと接したことで、どのような変化がありましたか?

踊りに対する考え方だけではなく、世界の見え方までもが決定的に変わっていく時間でした。せつ子さんの稽古は「いつも同じやり方」ではないので、毎回が「出来事」でした。はじめのうちは何が何だか分からず、どうすればうまく対処できるのか??と、とても困ってしまいました。でも、どうもそうではなくて、私とせつ子さんとメンバーとを含めた一瞬一瞬の出来事のなかで、自分が何をどう感じ、考え、選択し、発信するかだと気付いたのです。意思を持って、決断するということ……。決断の日々(笑)。

―それはとてもいい体験だと思います。

2.

―いまの活動について聞かせてくださいますか?

いまはとても複雑な時期です。腰の大怪我から、一時は歩けなくなるほどになりました。これからは、いままでのような身体との向き合い方だけでは、ながく踊ることができないような気がしています。私の踊りは、ただ身体が動けばいいという種類のものではないけれど。また違う方法を、もっと考えなければならない。

―それに対しての具体的なプランはありますか?

「イメージとメタファーと少しの動きとで、何が生まれるのか?」ということに絞って、2か所での本番を終えたところです。そこでは新しい発見もあり、おもしろい体験になりました。なんと言おうか、「制約」から発想しつつ超えていく楽しさだとか、念力(?)のようなものでステージを引っ張っていく快感だとか(笑)。ただ心のどこかで、身体を思いきり過剰に奔らせていた、かつての感覚が懐かしかったりもしました。

―教えることについてはいかがですか? アーティストにとって、教えることは大変な作業ですが。

ワークショップってどうなんだろう?という考えが、私にはずっとありました。かつて受けに行くことはあったけれども、自分で教えることはありませんでした。しかし、ある視点を持って、昨年の夏と冬に特別集中ワークショップを行ないました。基本的には、踊りなど教えられるようなものではないという意識はそのままに、その時々に巻き起こる出来事と向き合う、舵取りをする/しない、というような稽古にしました。心身のストレッチやウォーミングアップ、キーワードを提示しての即興や意見交換などをしながら、一期一会!!という具合に。いくつもの、踊りが生まれる瞬間に立ち会えて、とても刺激的でした。

―アメリカなどでは、よくレジデンシー・プログラムがあり、たとえばアメリカのコレオグラファーが日本に何日か滞在して、日本のコレオグラファーと意見交換したり、最終的にはコラボレーションして作品を作るということがあるのですが、そのような企画で他のアーティストと積極的にかかわっていきたいと思いますか?

ぜひやってみたいです。本格的に「自身の作業」をはじめてから10数年が経ちますが、一巡り廻ったように感じています。私はソロの発表が多く、「密室」で、独りで探って、出す、というタイプでしたが、昨年、指輪ホテルの羊屋白玉さんとダムタイプの川口隆夫さんと一緒に作ったあたりから、とても変わりました。よく分からないことも含めて話し合ったり、試したり、出したりするうちに、自分は意外とこういうことを愉しめるのだなあと、強く実感しました。

3.

―ダンスをはじめた動機は、社会的に在日であることと関係していますか?――このことは誰もが軽薄に聞くことかもしれませんが。

はじめの入口は民族舞踊だったわけではなく、もっと幼い頃です。部屋の戸を全部閉めきって、独りで三面鏡の前で何かブツブツ言ってみたり、女優ごっこみたいなことをするのが好きでした。

―まさしく、土方巽が押し入れだったかな?に閉じ込められたときに、身体で遊ぶことを体験したと言っていました。

自分のなかで、いろいろなものになりきって動くのが好きでした。その流れで民族舞踊の方へも入っていったのですが、続けていくうちに、身体を「教育」してしまうことへの疑問を抱いたりもしましたし、踊りに対する考え方も、どんどん変化していきました。民族舞踊を踊るときは、同胞たちに喜んでもらうことが第一義だったのですが(もちろん、そのこと自体は非常に意義のあることですが)、他者の喜びになることの根本では、個、自身を見つめることが重要だと考えるようになりました。それこそが、翻って、他者の喜びと繋がることではないかと。民族舞踊手としてだけやっている限り、まずはカテゴライズされてしまうことからも、いったん距離を置きたかったのです。ですから、慣れ親しんだコミュニティを離れ、単身、別世界へ飛び込みました。

―僕は、自分の作品を発表することがすでに社会への主張、社会性を帯びる行為であり、社会に貢献することだと思っているのですが、それについてはいかがですか?

(それには全く同感ですが)国や思想や争いだとかを、幼い頃から考えざるをえない環境に育ったためか、権力に対する反発心が非常にあります。主義主張や大義名分を掲げることへの嫌悪や疑念も……。ですから作品では、政治的なことや社会的な問いかけをそのまま持ち込むことには慎重で、角度を変えた、別のやり方で、そうした事柄に届くようにありたいと思っています。アートと呼ばれるようなものは、本来的には「価値のないもの」ですし、そのようにあれる方が、実は「いいこと」だと考えるのです。

―民族舞踊も現在の表現として、様々なあり方で成立していると思うのですが、コンテンポラリーダンスの分野で創作されているユンさんご自身にとっての、その位置づけについて、さらに聞かせていただけますか?

私が胸の扉を開かれたものの一つに、巫俗舞踊があります。シャーマンのおばあさんの踊りだったのですが、「うわ……」と心を奪われました。頭だけで考えても、感情だけでのめりこんでも分からないもので、混沌としているのだけれど、秩序がある。すべてが含まれている……。陳腐な言葉ですが、そこに宇宙があったのです。おばあさんの身体は、器。いまでも私の、踊りの世界の原型としてあります。ここ数年は民族舞踊を踊ることはありませんし、特に意識的でもありませんが、本質的にはいつも、自分の中の物差しの一つになっていると思います。

[2008.12.20/表参道にて]

構成=印牧雅子


尹明希(ユン・ミョンフィ)Yun Myong Fee

ダンサー/振付家。東京生まれ。7歳より韓国/朝鮮舞踊の踊り手として活躍。バレエ、気功、ヨーガ、ミツバ・テクニークなど東西の様々な身体技法を学ぶ。 1995年、独自の活動を開始。98年、ダンスカンパニー枇杷系(BIWAKEI)のメンバーとなり数々の作品を上演。現在はフリーとして、活動の場を拡げている。近年の活動に、イタリー各地やNYでのソロ、指輪ホテル《EXCHANGE》への出演など。主な作品=《-Schein-》《Aktamokta≦》(第1回TORII AWARD大賞)、《=pebble<》《FEVER》《ペヴェラーダ》《交際とカナリア》《外出、》(指輪ホテル公演「EXCHANGE_autotype」として)、《ドブラ》など。


インタビュー後記

ミョンフィさんのダンスを観て、その後打ち上げで初めてお会いしたときに、この人とは以前にも会ったことがあるような、ずっと懐かしい知り合いのような、デジャブな体験をした。そのときの打ち上げで、いきなりミョンフィさんから「私、違う日に、広太さんに大切なことを話したいの」と言われ、初めて会った者同士にも関わらずこのような会話が出たことに、びっくりした。そのときは、いつものごとく僕はお酒に負け、眠りこけてしまい、起きたときは数人の連中のみで、朝帰りとなってしまった。月日は経ち、僕がBAL始動の行動を起こそうというときに、手塚夏子さんの提案で、アーティストの意見を聞くことから始めることになり、インタビュー候補になっている他のアーティストから、いきなりミョンフィさんのインタビューの案が出た。そうだ、在日のアーティストとして生きるミョンフィさんのなかでは、きっと社会とダンスの関係が明確なはずだと察し、ダンスに生きる彼女の生きざまを、是非お聞きしたいと思った。

一方、インタビュアーとしての僕はといえば、バレエにたくさんのジャンルを結びつけようとした故井上博文先生の影響を強く受け、同時にどっぷりと舞踏社会、ファッションの世界にもつかり過ごした若かりし日々。自己分裂的にならざるをえなくなり、かつての自分のカンパニーrosy Coも、違うジャンルのダンサーを使うことをモットーに、アーティスト同士が交差することを目指していた。そして7年のニューヨーク生活の間におのずと学んだ欧米のダンス環境をヒントに、日本のダンスアーティストのためのオーガニゼーション設立の必然性を強く感じ、BALを立ち上げることになった昨今。

こんな、人生を通して自己分裂傾向をもった僕と、ミョンフィさんとのインタビュー。しかし、そこにはダンスの核を知る者のみが浸ることのできる静かな至福に満ちた安らぎの時間が訪れた。ミョンフィさんは、最初からビールを飲み、僕はここぞとばかりコーヒーで、楽しい会話はつづいた。インタビューが終わっても、会話は途絶えることはなかった。隅っこから首をのばし、ミョンフィさんのこれからの決断と軌跡を、ずっと見守っていたい自分がいる。(山崎広太)