Body Arts Laboratoryinterview

1.

振付・リレーションシップ・ムーブメント

―まず、ダンスをはじめたきっかけは?

中学、高校と指揮者をやっていました。たとえば、小澤征爾とカラヤンでは振り方が違いますよね。つまりムーブメントが違う。ダンスに近い状態で指揮をしているというか……。それで、自分自身の独特なムーブメントができるんじゃないかと。そこからきていますね。
東京にきて、最初にアスベスト館に行ったのですが、稽古が深夜だったこともあり、笠井叡さんの天使館に行きました。そこでの稽古はだいたい即興だったのですが、感情的なものを自由に出せると同時に、即興には時間とともに旅をしていく雰囲気があり、それが愉しかった。稽古は休まず2年間ずっと通っていました。それで、笠井さんがドイツに行くことになり、いままで教えていた人たちと回顧的な公演を行なうことになりました。その公演を19歳で踊ったときから、ダンスをやっていこうと確信しました。そこからが泥沼(笑)。

―なぜ舞踏だったのですか?

最初から舞踏をめざしたわけではなく、自分独自な動きがあると思い、一番近いとっかかりが舞踏でした。たとえばバレエにはきちんとした形がある。ましてや僕は運動神経が良くないし、身体に柔軟性がない。既成のダンスよりは、舞踏のほうが自分の気質に近いのではないかと。

―私は自分独自の動きへ至るまで、20代半ばくらいまで悪あがきしていました。バレエも習っていたし

新潟で情報がない環境のせいもあったのかもしれません。クラシック音楽をやっていたので、バレエはよく見に行っていましたが。東京にきてからは、いまから振り返れば、大衆や社会に対して抑圧されたものを身体を通して出すような意識で、暴力的な表現になる傾向がありました。20代の頃は、ほとんど作品を作るという感じではなくて、ただ暴れているだけ(笑)。当時は、舞踏というソサエティのなかで何か貢献したい、そこで自分のすべきことを見出したいと思っていました。けれど同じ時期に、クラシック・バレエのレッスンを毎日受け、文化服装学院で服飾も学んでいたので、とてもチグハグな状態にいました。そこで一番影響を受けたのは、井上博文先生です。井上先生は、バレエと同時に日本舞踊やフラメンコなどを生徒に教えていた。ひとつのカテゴリーにとらわれないダンスの捉え方は、自分の作品のなかに反映されています――なぜ、モダンダンスっぽい動きのなかに舞踏っぽい動き、あるいはバレエっぽい動きがあるのか……。

―キャリアをはじめたのは、どのような活動からだったのですか?

「ヨコハマアートウェーブ」(1989年)の企画で、佐藤まいみさんの薦めでCNDCアンジェに行き、ダニエル・ラリューとともに作品を作りました。そのとき(言葉の問題がほとんどだったのですが)失敗を経験して、積極的に人と一緒に作品を作ることをしはじめました。それで、木佐貫邦子さんや、パパ・タラフマラと仕事をした後、人生で二つ目の振付作品《inflection》がバニョレ国際振付賞を通りました。1994年です。

―それまでの即興から、作品を作ることで変わったことはありますか?

《inflection》は、バニョレでは自分を含めダンサーは4人でしたが、ベースになった作品は、3人のリレーションシップで作っています。その意味で、それまではソロを前提に作っているので違います。そしてリレーションシップは、僕の作品のもっとも重要なコンセプトになっています。

―リレーションシップから作品を作る難しさはないですか?

僕はあまりシビアに捉えないで、ムーブメントをダンサーに与えることが多いかな。全部僕の振付でやりますが、ムーブメントをその人が勝手に解釈してくれてよしとします。カンパニー、ジャントビにジャンメイ・アコギーと共同で《ファガーラ》を振り付けしたときは、ワークショップ期間がすごく長かった。彼らも自分も同じ時間を過ごすなかで、いろいろなアプローチを模索することができた。このときは自分と異なるバックグラウンドのダンサーたちにムーブメントを与えて、それをどうするかという過程で、ダンサーがサポートしてくれました。最終的に、アフリカンをベースにして彼らが紡ぎだしたものを、僕がピックアップして編集したかたちになりました――すごくコンテンポラリーなムーブメントもありますけど。

2.

ダンスのかたち/型

―いまの広太さんにとって「ダンス」とは何でしょうか? 目に見えるムーブメント、動きをダンスと考えますか?

イヴァナ・ミュラーのある作品では、ダンサーが“I imagine”などの言葉を喋り、ほとんど動かない。その言葉と、動かないフォルムを纏う身体が、物語を語るんですよ。動かないことで、身体をどのように見せるかという意味では、ピチェ・クランチェンと一緒にやったジェローム・ベルにも同じ志向を感じますね。
僕はムーブメントを中心に作品を作っていきますが、そこにいるだけ、存在するだけでダンスになることがあると思います。今度、舞踏の踊り手とダンス経験のない普通の人が何もしないで同じ空間にいて、どう違うのかという試みを「舞踏対話シリーズ」[*1]としてやってみたい。手塚さんはどうですか?

― 私は身体の状態というところにダンスを見ています。状態が変化しない人はいない。たとえば動きがなくても、身体の状態が変化しているということはある。そのとき、何を動きとするかにまで問いをさかのぼることができます。バレエであれ舞踏であれ、どんなものであっても、私のなかでその状態の変化を深く味わうことができたものは、すばらしいダンスとして感じられます。

随分前に、田辺知美さん、神領國資さんの国分寺のサラム館での公演で、田辺さんがただ座っているだけで、僕自身、涙が異常に出たことがあった。それって一体何なんだろう?と思いました。何もしていないのになぜ人に何かを伝えることができるのか? その後、彼女はお母さんを亡くして、それを表現したんじゃないかということを聞きましたけど。
一昨日の自分の公演で、シンガポールの夜景をバックにドラムンベースの音楽で50分間、赤いドレスで踊りました。舞踏ではないのですが、ムーブメントがあまりないダンスです。シンガポールの高いビルを背景にドラッグクイーンがいるそのビジュアルに対して、音楽はどんなに激しくても叶わなくて、お客さんは僕のほうに集中している感じでした。自分にとっての舞踏は、そのような身体の強度が重要になってきます。
一方で、この作品《Um-, Waltzish…(げに、ワルツ的なる…)》は、横浜で上演したとき、「舞踏をしている真似じゃないか」と言われた。ただ、僕は土方さんに舞踏を習ったことはほとんどない。客観的に捉えてみると、舞踏第一世代が土方さんを中心に舞踏の固有性を確立して、舞踏第二世代はそれを世界に広めました。それに対して僕は、日本人が持っている普遍的な型が舞踏にあるんじゃないかと思っています。それを少しずつ探しているのがいまの状況ですね。

― 型というものを考えたとき、ある形に宿るエネルギーがあると思うのです。たとえば能の摺り足や、面を着けることをしたときに、状態のものすごい変化が起こる。自分でやってみたときに、能の動きには、簡単な形のなかにも身体の諸力が拮抗する要素があると感じました。ただその要素だけを実践すればよいというものでもなくて、やはりその形でなければ宿らない力がある。そこにやっと振付の意味を見出すことができました。舞踏にも舞踏譜、型があり、それは表層化してしまえばただの抜け殻ですが、その形になればその状態が現われるというエネルギーが、型には保存されている。その意味で、型の再現性はすごい。バレエにしても同じです。私は、状態の変化はつねに生みだすことができるのですが、そこに再現性はないんですね。

そこで、ただ振付すればいいというものでもないですね。振付家は「攻撃型」のほうががいいかもしれませんが、ダンサーは「受け入れ型」のほうが可能性があるような気がします。ダンサーの才能、資質が結構重要ですね。

―ダンサーが、振付家自身の深層レベルにある欲求を理解して実感として掴むまでは、振付=型を完全に受け入れなければなりません。それを掴んでからはじめて、それを超える可能性も出てくるのだと思います。

まったくその通りですね。つまり、作品を作るには長い時間が必要です。たいして動かないのに6か月かけて作った作品と、すごく動いているんだけど1か月しかかけていない作品とでは、見え方が全然違います。余越保子さんの言葉を借りれば、発酵している作品というか。僕はこれまで、どんなに大きい作品でさえ、2か月から3か月の単位でしか作ってきませんでしたが、今後は6か月から1年がかりでやるしかないなと思っています。
振付家とダンサーが同じ時間を共有してコミュニケーションし合っている状態が重要です。自分が与えたムーブメントやダンサーが考えたムーブメントを時間をかけてエクスチェンジしていく。身体と身体が交換する状態です。僕の場合、自分が作ろうとするムーブメントや雰囲気を与えて、ダンサーはその真似からはじめて、彼らなりに時間を作り上げていく。以前は、できないものはできないものとして人に投げかけていましたが、今後は、そのおもしろさを感じて丁寧にやっていきたいと思っています。

  1. 舞踏対話シリーズBackダンス・コミュニティ・フォーラム「We dance」(2009年1月31日・2月1日、横浜市開港記念会館)にて、全8回行なわれた。