Body Arts Laboratoryinterview

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1.

―今回は、室伏さんに、かつての土方さんとの関係と、室伏の孤高の生きざまをお聞きできたらと思っております。

舞踏との出会い

―舞踏をはじめたきっかけは何ですか?

それは土方さんだよね。

―いきなり、きますね。

踊りに身体の問題意識、批評意識が付いている。土方さんの《肉体の叛乱》が1968年です。そのとき、私は早稲田の学生で、詩を書いたり、一方で、身体動かすことが好きでラグビーとかやっていた。それから、ジャズはよく聞いていたよね。時代は68年末のいわゆる学生反乱、ヒッピームーブメントがあり、アングラ華やかしき頃。それで、いわゆる国際反戦デーとか、かなり運動は盛り上がってきて、ロックアウトになって、大学に入学したはいいけど、授業がなかった。
私は何故か演劇サークルに入ったんですよ。ベケットやアントナン・アルトーのテキストが翻訳されて、モード的にも、フランスの小劇場運動もまだ新しかった。そういう絡みもあって、かわいい女の子の勧誘があって、自由舞台に入った。でもすぐやめちゃった。政治的な言語で、もっとギスギスやるのかと思ったら、意外とサークル活動で、別に民青ではなかったんだけど。

―どこだったんですか?

革マルでしょ。私はそういうセクトに直にコミットするのは嫌だった。ヒッピーの友達のアジトなんかにも遊びに行ったりしましたけどね。でもたいがい、距離を取っていたんですよ。それで、私は今で言えばストリート・パフォーマンス、ハプニングに近いようなことをやろうと、グループを作ってね。マリリン・モンローの追悼式とか、皇居の前でストリーキングのようなことやってみたり、マンションの一室で自傷のパフォーマンスしたり、変なことやっていましたよ。そうこうして方向が定まらなかった。
演劇は、言葉の問題もあるし、自分には不似合いだなと思った。そして、それが芸術表現なのか、何なのか、ともかく身体にまつわる問題が残って、引っかかっていたんだ。踊りという問題は、観念的にあるわけですよね。『悲劇の誕生』(ニーチェ)やアルトーの『演劇とその形而上学』など読んでいたし。ちょっと前になるけどロバート・ワイズが監督した『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て、ジョージ・チャキリスとリタ・モレノにやられた。あれは高校1年か2年のときで、ブームだった。だけど、ジャズダンスをやりましょうっていうのじゃないよね。ジャズもロックも一生懸命聴いていたけど、黒人音楽が好きだったんだよね。モダン・ジャズの一番白熱していた時期だし、もうストーンズ、ビートルズが出はじめた頃です。新宿に行くと、ゴーゴー喫茶が走りだったんだよね。みんな小さいところで体擦り合わせて踊ってた。「チェック」とか「プレイメイト」とか。ゴーゴーダンスはいいんだけど、ダンスをお習い事としてやることはなかった。踊りには何かあるんだろうなと思っていたところに、土方さんの《肉体の叛乱》があった。68年だから、暗黒舞踏は既に10年経っていて、知る人ぞ知るだったわけですね。仲間の絵描きさんが紹介してくれて、チケットが手に入って、日本青年館に観に行ったんです。やはり《肉体の叛乱》は素晴らしかった。まあ、カッコよかったですよね。

《肉体の叛乱》

―演出が?

最初に入り口に花輪がバッと並んでいて。

―馬がいて。

ロビーに入っていくと、瀧口修造だとか美術家のオブジェが展示してあって、芸術的ムードがあるわけですよ。

―そのときでさえ、美術家は有名な人ばかり?

そうそう。超満員だったよね。二日間の公演だったと思うんですけど。

―最初、ラジコンが飛んで。

よく知っているじゃん。

―もう少し《肉体の叛乱》の演出的なすごさをお聞きしたいです。作品としてはイマイチと聞いているんですけど。

冒頭、客席にずっと、阿呆王に扮した土方さんが蚊帳の中に入っているんだよ。そして学生のアルバイトの人たちが、客席の通路に行列で、中華鍋の先に豚やうさぎ乗っけたりして、ずうっと並ぶわけ。その一番けつっぽが、モーターエンジンだよな。バイクのかボートのかわからないけど、紐でギュッとやるやつあるだろ。それを最初にブギューッと鳴らして、ブルブルとはじまる。それがうまくいかないもんだから、土方さんが、わざとなんだろうけど、蚊帳の中から「やり直しー!」と怒鳴るわけよ(笑)。みんな土方さんをチラチラ見ているところに、いきなり怒鳴ったもんだから、ワッて驚くわけ(笑)。

―土方さん、よく本番中、怒鳴りますよね。

そういうハプニングめいたものが面白かった。行列がゾロゾロと動きだして、奥に6、7枚ぶら下がって床に付いていた真鍮板が、グワ~ンと音をたてて浮き上がるわけよ。その音を記憶している。ラジコンは、その前のイベントじゃない? 突然、お客さんが待っているところに、男の人が出てきて、ステージのほうからラジコン飛行機をビーッと飛ばすんだ。それが帰ってきて、真鍮板に当たったのかな。カッコいいよね! そして曲が流れた印象があるんだけど、順番がちょっとわからない。最初は『モナリザ』(?)の曲がかかった。それが、抜群のコントラストでさ、機械音とムード音楽が。

―まさしく。

土方さんが、舞台に入っていく。行列の最後の学生が2m×1mの真鍮板を横倒しで担いでいて、歩くとグワ~ンと音がする。それも記憶に残った。その後、舞踏の人たちがその手法をよく使ったね。そうすると土方さんが蚊帳から出てくる。最初から素っ裸かとおもったら、映像見たら、そうじゃないね。花嫁衣裳を後ろ前に着けている。それでステージに飛び降りた瞬間、脱いだんだ。ただ蚊帳から出てきたときに、マイム的な動きなのか、踊りだすんだけど、それが異様だったね。有名なのは、その前の3週間断食して、銀座の山野美容室で膚を黒く焼いてゴリゴリなわけよ。鼻筋だけが白いやつな。まあ見せ物だから、すって脱ぐと、金色のペニスが立ったんです。アフリカのキリストみたいな感じだな。動きは完全にアフロだったよ。

―アフロ?

腰振りだけだよ。ワーッと金玉振ってたわけ(笑)。真鍮板と真鍮板の間を永久男根がすり抜ける。私の行った日は、ペニスを着けている紐が緩んだんじゃないかと思うんだよね。それで最後、面倒臭くなって取って、玉野黄市さんに投げたのかな。「玉、この野郎!」と怒鳴って、消えたんだよ(笑)。だから、一瞬フルチンになった。それもハプニング。最初の「やり直しー!」と、最後の「玉この野郎!」が印象に残っている。次のシーンからだんだん衣装を着けて、タンゴの衣装や、東北の子供の女装をして、東北歌舞伎に入っていくための少女みたいな踊りがあったと思う。それで最後は……。

―宙吊りで。

そう、客席に、ロープでグーッて引っ張られてね。

―相当きつかったと聞きました。きつくてオシッコがでたって。

そう。こちらから見ると、そんな危険じゃないんだよ(笑)。もうプロレスみたいな感じね。降ろされて、ステージに戻ると、鯖か何かを誰かが投げ入れて、それをもらって、ギャーと齧りついたんだよ、素っ裸で(笑)。そういうショーマンシップがある。それはすごいと思った。何せ、最初のアフロの20分と、それが一番強烈に残っていて、その後、衣装替えで踊っていくところは、記憶から脱落している。後から写真を見ると、こういう衣装で踊っていたのかと、革の手袋して、かっこいい写真がありますよね。音はピアノの連弾だったか。映像は、美術家の中村宏さんが撮ったものしか残っていない。それをこの間、森下隆さんから借りてフランスで上映したら、変な曲が後からついているんですよ。それが非常によくない。

―ビートルズとか? でもあれは土方さんの編集じゃないですか? Plan-B(「青のテーブル――映像と談風による」、83年)や朝日ホール(舞踏フェスティバル’85)での上映では、ビートルズだったような?

だから、そのままにしておけばよかったんだよ。音で全然印象が違うんだよ。むしろ無音のほうがいいんじゃないかな。

土方巽との出会い

―室伏さんは、土方さんの変遷もよく見ていた。

年譜を見ると土方さんのテキスト『犬の静脈に嫉妬することから』(「五体が満足でありながら……」)は1969年5月号の『美術手帖』に初出だけど、細江英公さんの『鎌鼬』から『話の特集』に転載された写真も、私には《肉体の叛乱》とほとんど同時の体験だった。ステージにかぶさるみたいにテキストと写真集が追っかけてきたという感じで、『犬の静脈に……』は、異様な感動で読んだ。どんな文学者もついに到達できない文体だ……と思ったし、その後の自分の歩みに決定的な方向を与えたのは土方さんのこの短いテキスト・声だったと思うんですね。
で、《肉体の叛乱》の次の年に、ビショップ山田とついに土方さんに会いに行ったんだよ。「どうしたら弟子入りできますか」とお願いしたら、「君たち、乱交パーティー用の肉体を探しているから」と言われた。

―乱交パーティー用の肉体って(笑)? ビショップさんも、まだ舞踏をやっていなかったのですか?

やってない。こっちはまだ学生だから「何でも、やらせてください」よ。聞くと、東映にポルノ路線があって、『温泉ポン引き女中』という映画の乱交パーティのシーンに、エキストラで出ろという話だった。監督は荒井美三雄さんで、インテリなんだよね。その頃、東映の映画に土方さんが散々出ているんです。何だそんなことだったんですかと、東映がちゃんと新幹線のお金を出してくれて、喜んでビショップと一緒に行ったんだよ。東映の撮影所で冬の寒い時期なのに、われわれは体に、今の白塗りではなくて、胡粉をバーッと引っかけられて――肌が石膏かけた状態になるんだね。

―室伏さん、その映画に出ているんですか(笑)。

土方さん自身は出ていないから、年譜に載っていないんだよ。ただ、土方さんが10分くらいのシーンを演出している。俺も見ていない。当時、土方さんは映画にたくさん出て、お金を稼ごうとしていたんですよ。多分、磐梯の火事があったから。その頃、唐十郎さんも出ているよね。『温泉ポン引き女中』には、状況劇場の女の子や、芦川羊子さんも出ていて、私が撮影所に行くと、稽古着の土方さんが、東映が古巣みたいな感じで、待っていたんだよ。カッコよかったですよ。「おー、よく来たか~」なんて言って(笑)。京都の旅館に泊まって、土方さんがアルバイトのわれわれをみんな連れて行って、祇園の平八という飲み屋の座敷を貸しきって、ガンガン飲んで、そのうち変なことがはじまってさ(笑)。それはよく覚えている。最初に土方さんと交流をもったのはそのとき。
映画が跳ねて、私は京都に残りたくて、その後、肉体改造しようと思った。土方さんのまねっこみたいだったけど、鞍馬の奥の北山にある、山岳部の山小屋を、京都で知り合った絵描きが紹介してくれて、単身断食しに入った。そこに2週間いた。ちょっと身体を変えて、それから土方さんのところに行こうと。

―一日中何をしていたんですか?

何もやんないよ、山だから。6月頃だったと思う。寒くなると、体が戻ってきて、ゾオーッと走ったりして、朝はグダーッとしているわけ。3日くらいは元気じゃないですか。またどれくらいやるとおかしくなるかと、一生懸命オナニーしてみたりさ(笑)。4日目から発射しなくなったよ。煙草だけは持っていったけど、あとは水で暮らした。
東京に戻って、ビショップを追うように、土方さんのいる目黒に行ったら、石井輝男監督の『江戸川乱歩全集 恐怖畸形人間』の撮影が待っていました。私はつまらない役でさ、人間ボール(笑)。ゴムではめられて、天井からぶら下げられて、土方さんがポーン、ポーンとはじく(笑)。ビショップはもうちょっとましな役で、金粉ショーで踊っているんですよ(笑)。私なんか顔もわからないし、「なんだあれ」って感じ。でもそれが一番迫力があったよ。
土方さんは、菰田老人という役で、台詞もあって、主役くらいに本格的に出ている。『恐怖畸形人間』は、江戸川乱歩の「孤島の鬼」と「パノラマ島奇談」を下敷きにしていて、菰田老人はその中に出てくる人造人間を作っている博士なんです。その役で能登のロケがあって、何故か私が付き人に選ばれて、旅館に同宿しました。楽しかったですね。土方さんが花嫁衣裳を裏返しに着て、海の中に飛び込んで、走ったりするんだよ。それですぐ裾が水浸しになって、走れなくなって、倒れちゃったりしてさ(笑)。石井監督に「ゲバラ、ゲバラ、土方さんが転んだぞ!」と言われて――私はまだ長髪にヒゲをたくわえてゲバラと呼ばれていたんですよ――針金で衣装を留めたり、朝起きると甘いコーヒーを淹れてあげたりした。土方さんは、一生懸命いろんなことを喋ってくれたんだろうけど、あんまり覚えていないね。あっ、いっしょに主題歌のへんな子守唄を一生懸命練習した。採用はされなかったと思うけど。土方巽の歌う子守唄…… まあ、土方さんは疲れて寝てばかりいたんですね。それからよく覚えているのは、土方さんは万引き癖があるんですよ。能登の駄菓子屋に行って、チョコレートか何かをヒュッと袖に隠す。そしたらおばさんに見つかってさ(笑)、すみませんと謝ったよ。京都で時間が空いたときも、パチンコ屋で、まず、すっちゃってから、人が出して残っている玉を、そいつがいないと盗ってやってた(笑)。
付き人をやってから、目黒のアスベスト館に住むようになりました。実際には、土方さんから稽古つけられたことなどほとんどなくて、最初はキャバレーです。私の先生は、玉野黄市氏ですよ。最初にニジンスキーの格好を覚えさせられた。夜中に帰ってくると、「裸になって弓引いてくれる?」(笑)。やってみると、「それでいいんだ、それで」。あとは酒飲んでる感じ。「ブラック・ローズ」と言うんですよ(笑)。新人の女の子が真ん中にいて、男二人で支えているみたいな、エロッぽいアダジオ。浜松にあった金馬車ミュージックというストリップ劇場がデビューです。

―アダジオでデビュー(笑)。

いや~、ブラック・ローズ・デビューだよ(笑)。真ん中に、どこの学生かわからない素人の女の子が来て、私も素人だから、玉が来て、バックにスライドを映すんですよ。それをやるのに、『薔薇族』系の写真家の方が来ていた。それからですよ、グルグル回されたのは。だからショーで踊りを仕込んだ。でもお金くれないわけですよ。覚えているのは、年の終わりに皆が里帰りするじゃないですか。奥さんの元藤燁子さんが少し小遣いをくれるんだよね。ありがとうございましたとね。それで、玉が小遣い稼ぎをしようということで、北海道の芸能社からアルバイトを取ったんだよね。

―それは怒られた?

内緒で、まあ結託して受けたんだけど、女性を捜すことになった。東映のときもそうなんだけど、いつも女性が必要なんだよ。その街で引っかけるわけね(笑)。そして、新宿で誘惑して一人決めたんですよ。最初は六本木のレズビアンバーで金粉ショーをやったんだけど、その後に、女の子が嫌になっちゃって逃げたの。その頃大阪で万博があって、玉たちが出ていた。東京は手薄で、芦川さんが掛け持ちで浅草フランス座に朝からデュエットで入っていた。私はとんずらして、単身で北海道に行っちゃったの。そのまま帰れないじゃん。芸能社の人に頭下げて、女の子に逃げられたので、私一人でよろしくお願いしますと(笑)。そうしたら、穴をあけるよりはマシだろうと言って、6週間くらい回してくれた。

―男性一人ではありえないですよね。

昔はあったんだよ。

―それはキャバレーですか?

そうそう。札幌はクラブ。それで申し訳なくて、稽古場に帰れなくて、辞めたんだ。その頃土方さんは、池袋西武のファウンテンホールで、土方巽展みたいなイベントをやっていました。それでも、ビショップは残っていたし、そこで白塗りで男の子を躍らせたりして、それに呼び出されて、行かざるを得なくなった。

―北海道のことは?

ゲバラのことは気にしてくれてたんじゃない? 行ったら、三島由紀夫が来ていた。三島が亡くなる年だよね。それから、アスベスト館には戻らないで、大学に戻って、山伏研究をはじめたんですよ。一応、大学の文学部に籍があった。成績が悪かったから、フランス文学から演劇科になっちゃったんだよ。当時早稲田には、歌舞伎研究の郡司正勝さん、神楽研究の本田安次さんと、いい先生が結構いた。私は何故か、即身成仏に興味を持っていたんですよ(笑)。木乃伊(ミイラ)だよ。

―室伏さんの一生のテーマでしたよね。

それは早稲田に入る前にすでに興味を持っていたんだよね。それで、出羽三山で山伏の行があって、春と秋に、10日間くらいずつ山に入って、グルグルやるんですよ。今でいうワークショップですね。2年間やったことになっているけど、そうじゃない(笑)。それを論文にして卒業しようと思ったんだけど、そしたら三島が死んじゃった。三島事件のことは、覚えているんだよ。早稲田の文学部の喫茶店で、みんなでミーティングしてたら、テレビがいきなり市ヶ谷を映し出したわけ。これも皆で話している中で出たアイデアで、その頃流行っていたメールアートに倣って、みんな一つオブジェや作品を袋の中に入れて郵送するという企画を考えて、それを口実にいろんな変な人に会いに行ったんですよ。ポルノ作家の清水正二郎さんや、ジャズ評論家の植草甚一さんに、何か入れてくださいと、会いに行った。私は、旗屋で欠けた日の丸(日蝕旗)を作った。それを詰めて、三島に送ったのを覚えている。でもみんな、三島さんは死ぬねって、変な予感があった。だから市ヶ谷に入ったことには驚いたけど、「あ、やったか」という感じだった。
後で、《肉体の叛乱》の美術をやった中西夏之さんの個展に、欠けた日の丸を届けたの。そしたら、中西さんに、「そういう品のないことはやらない方がいいんじゃないですか」と言われた(笑)。反万博と思われたんだろうね。後日聞いたら、そいうことしているよりも、土方さんの稽古場に行ったらどうかと私に言ったと言うんだけど。
それで、三島ショックはあったんだろうけど、卒業しないまま山でグズグズしてた。その2年後の72年に大駱駝艦の旗揚げです。多分、キャバレーでビショップとときどきやるようになって、麿赤兒さんが状況劇場を辞めたんですよ。そして、荒戸源次郎さんや、自分の仲間を集めていた。その荒戸とビショップが知り合いになって、会いに行くことになってね。そのとき騾馬舎をやっていた中原蒼二が大駱駝艦の旗揚げを企画したんだ。

―とてもお世話になった中原さんだったけど、彼が旗揚げなんて知らなかった。

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