Body Arts Laboratoryinterview

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Whenever Wherever Festival 2018「そかいはしゃくち」福留企画のレクチャー「ダンス警察桜井圭介の これがダンスだ!」を目前に、ダンス批評家桜井圭介さんにインタビューを行いました。近頃、ダンスに対してあまり前のめりになれない、という桜井さんのダンスとの関係を、その出会いから遡って伺っています。


ダンス批評家

―ひとまず自己紹介的なことをお願いします。肩書きとか、実際やってることとか、何を考えてやっているのかとか。

「ダンス批評家」って言ったり言わなかったりしてるんです。それは自分の気分に合わせてなんだけども。

―それは場に合わせてってことですか?

そうだね、まあしょうがない時は名乗ったりしてます。

―しょうがない時っていうのは?

名乗った方がいい時とか。

―学校とかですか?

いや学校とかっていうよりは、ダンスのコメントとか推薦文を書いたりする時とか。

―その「気分」っていうのは、なるべくなら名乗りたくないってことですか?

いつでも「ダンスの批評家の桜井です!」ってスッと、なんの躊躇もなく言える感じが今ないんですよね。

―すんなり言えた時もあったんですか?「俺はダンス批評家だ!」みたいな。

なんの躊躇もなく、肩書きをそれにしてた時もあったかな。

―それは、いつ頃切り替わったんですか?

切り替わった、というより徐々にだね。吾妻橋(「吾妻橋ダンスクロッシング」)やってた時は、一回「ダンス批評家おります」って言ってた時もあって。批評家って立場じゃなくて、キュレーションというか。

―それは、「批評家」って名乗ることが、足かせになるってことですか?

昔は、ある種の「公平性」っていうものを真面目に考えていたところがあるので。吾妻橋では、自分がいいと思ったものしかやらないっていうのがあったから。

―ちなみに「公平性」を意識していた時に桜井さんが尺度にしていたものは何ですか? 好みとは別のものではかるってことだと思うのですが。観たものに対して、批評家として言葉を書いたり言ったりする時とか、あんまりいいとは思わないけど、評価せざるを得ない時とかに。

いいと思わないことは書かなきゃいいから、なるべく書かない。

―じゃあ同じじゃないですか。

そうだね、同じなんだな、同じなんだけど……。自分がイベントをやっているので、批評的なことをするってことに自分自身が違和感が出てきた。立場として、批評される側に立ったということでもあるから。

―ちなみに、ダンスにとって、批評家っていうのはどういう存在だと桜井さんは思っているんですか?

それはあんまり僕はわからなくて、ダンサーに向けて書いてるってことがないので。

―何に向けて書いている意識があるんですか?

読者です。

―読者はどういう読者に向けてっていうのを想定しているんですか?

想定してない。書く媒体の読者ってことはある程度は想定してるけど、基本的には、どういう層に向けてっていうのはないです。「普通の人」っていうと、また難しいけど、普通に頭を使って、いろいろなものに興味がある人全般。

―それは、ダンスを知っている人っていう前提はあるんですか?

ないないないない。他の美術とか、アート全般の一つとして批評するって感じはあったね。「あったね」って、まだありますけど(笑)。

―一番批評家として、やる気まんまんだったのはいつ頃なんですか?

ニブロールが出てきた時。

―そうか、それって2000年くらいかな。

ダンスとの出会い−表と裏

―では、これを機に、桜井さんのダンスとの出会いとこれまでの遍歴を聞いていきたいんですけど、まず出会いは?

出会いは、最初はバレエで、中学生の頃ですね。

―こないだ、SCOOL(「ダンスお悩み相談室」)の時に、「赤い靴」をみたって仰ってましたよね。その時にどう思ったんですか? 「わー」みたいな感じですか?

もう忘れちゃったね(笑)。

―でも、これは、出会いだったってすぐ出てくるってことは大きな出来事だったんですよね?クラシックバレエですか?

ソビエト・バレエと、あとは映画。「赤い靴」とか、イサドラ・ダンカンの伝記映画「裸足のイサドラ」。それからフレッド・アステアのミュージカル映画。昼間の3時からテレビでやってる古い40年代、50年代の映画。ちょうど学校から帰ってくるとやってて、だいたい毎日観てた。

―そこで「動き」に魅了されたんですか?映画って、ストーリーとか雰囲気とかあるじゃないですか。

ストーリーもいいけど、ダンスシーンはダンスシーンであるから。

―その時と今と、同じように観てるんですかね? 今回のフェスでは「ダンス警察」って言ってるけど、批評にしろ、感想にしろ、その人の視点で観るわけじゃないですか。桜井さんのそれはこの中学生の頃から引き継がれてるものなのかなーと思って。根本的なところというか。

多分ね。

―ダンスを評価する一般的なものってあるじゃないですか。技術的なこととか。そういうこととは別に、桜井さん独自の見方がきっとあって、それが芽生えたのはここなのかな?と思って。

多分ね。色々なことを体験するじゃないですか。子供時代。例えば、親戚のやってるゴーゴー喫茶みたいな店があって。福島の田舎なんだけど。ラウンジで、ジュークボックスで。

―みんながゴーゴー喫茶で音楽に合わせて踊ってる、みたいな?

学校のフォークダンスも踊るの割と好きだったんだよね。何事につけ、音楽とか踊りは楽しいよね。

―桜井さんにとって、音楽と踊りは不可分なものなんですかね。でも少し話が散らかっちゃいますけど、よく「音楽が邪魔だった」とか言ってるじゃないですか桜井さん。だから結構複雑だな、とも思って。

いや、自分が踊るのはモチロン音楽ありき。見るダンスの場合がめんどくさい。音ハメでバッチリ踊ったりするのは、あんまりいいダンスにならないっていう感じがいつもするのね。単純すぎるっていうか。音楽と同じことを身体でやってるだけというか。

―桜井さんの話を聞いていると、動きそのものが音楽的である状態、みたいな感じのことを言ってるのかな、と思って。

そうそう。「身体の動きの音楽」だよね。

―そうなった時に、「身体の動きの音楽」と「音楽としての音楽」が出会っているいい状態、みたいなことって、結構高度だな、とは思うんですけど。なんとなく聞きたかったのは、「親戚のゴーゴー喫茶でみんなが踊ってる」みたいなダンスのイメージは、そっちの方が私にとっては桜井さんがダンスって呼んでるもののイメージに近いけど、最近桜井さんの話を聞いていると、「バレエ、バレエ!」「やっぱりバレエだったんだ俺は!」みたいな感じだな、と思って。

そうなんだよね。だから、二重にあるんだよね。両方ある。

一見すると、その二つは、反対側にあるもののようにも感じるんですけど、桜井さんは両方をストイックに大事だって言ってる感じがするんですけど、最近の桜井さんの話は、「なんでもダンスなんてのはダメなんだ」って聞こえていて。そこに至っている遍歴を聞きたいな、と思って、ダンスとの出会いから聞いてみたって感じなんですけど。

高校時代に舞踏だよね。中学2年生の時に初めて、紅テントに行ったんですよ。土方(巽)さんは紅テントと近いから知ってたんだけど、観れてない。中学から高校1年、2年生くらいまでは、紅テントしか見てなかったね。

―ハマったんですね。どういう感じだったんですか?

血湧き肉躍るだね。テントだし、ちょっと怖いし。

―その流れで舞踏を観たんですね。

そう一番初めに観たのは、小林嵯峨さんだった。77年とか。赤坂の元TBSの近くの芸術家センターっていうところで、彗星クラブっていうカンパニーで。

―どうだったんですか?

凄いよかったよ。

―それはダンスと認識したんですか?

いや舞踏だね。

―舞踏を観た。ってなって、そこから色々観たんですか?

それで、山田せつ子見に行ったりとか。

―えーその頃から観てるんですね、歴史長いですね。せつ子さんて舞踏とはいえ、爽やかですよね。白塗りとかしてたんですか?

してないよ、してないけど、巫女さんみたいだった。天使館だから。天使館は、オイリュトミーとかグルジエフとかだから。あとは、三浦一壮さんとか。舞踏舎VAVっていう一番最初にヨーロッパで公演した舞踏で。その流れで広太にも会って。

―10代ってことですか?凄い……。かなり人生の長い時間の中で知ってるんだ。

19とかだね。表(おもて)でいうと、1979年にローラン・プティの日本公演がきて、ハマったんだよね。それでそのすぐ後に、金子國義のバレエがあって、谷バレエの大塚麗子とか、深川秀夫が振付で主役で、その秀夫さんていうのが、凄いダンサーで、日本で初めて、ヴァルナで賞をとってて、その後クランコのミュンヘンバレエのエトワールやって、ちょうどその頃日本に帰ってきたのね。

―ヴァルナ?

君、バレエのことは全然知らないんだね。ヴァルナって、バレエのコンクール。森下洋子さんも、その後そこで賞をとったんだけど。1980年に、その金子國義のバレエがラフォーレでやるっていうんで観に行ったんですよ。

―え、おしゃれですね!

(笑)だいたい僕は、ボリス・ヴィアンとかコクトーとか、フランス文学が好きだったから。

―アンニュイですね。

そっちが表で、裏が舞踏だな。

―でも表の趣味も、結構特殊ですよね。友達とかいましたか?

意外と変なやつがいて。

―この頃に、ダンスに対して自分が、例えば批評みたいな関わり方でやっていこうっていうのはあったんですか?

全然。あ、そうそう、大学時代といえばディスコ通いですよ。六本木(あれこれ)と、あとは新宿のツバキハウス。ニューウエイヴ系だけじゃなくて普通にブラコン好きだった。でもプロデュースには興味があった。だからスターダンサーズバレエ団でバイトして、制作の見習いみたいなことしたり。タダで、初級クラス受けたり。

―バレエのレッスン受けてたんですね! じゃあ、踊ろう、ダンサーになろうみたいなこともあったんですか?

それは全くない。踊るのはディスコで足りてるんで。レッスンは、バレエの言語を理解するために受けた。

―それによって見方も変わったりしたんですか?

それは当然そうでしょ。だって、全部システムで作られているんだから。それがなんなのか、一個一個のパがわかるっていうのが大事だよね。要するに、知らない言語があってそれを習得すると小説が読めるみたいなことだよね。

―じゃあ動きっていうのを「言語」として捉えてるっていうのがあるんですかね。

バレエはそうだよね。舞踏もそうだと思うけど。稽古とかに行ったことはないから、土方さんの、鳥の3番とか、雲の5番とかはよく知らない。

―舞踏の方がイメージのことをものすごく扱ってる感じはしますよね。以前、室伏さんのワークショップを受けたことがあって、「身体の半分は鉄で、半分は砂で、その引き裂かれた状態で歩きましょう」っていうのをやりました。話は戻りますが、それでその後も常に色々観て生きてるって感じだったんですか?

寺山修司に一瞬ハマった時代もあったね。

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