桂勘|1
Interviewer|山崎広太
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(c) Karolina Bieszczad-Roley
アジア・近代化・舞踏
―タイに行った動機は何でしょうか?
動機をお話しするために、前置きとして少し活動歴をご紹介します。
1979年に白虎社に入り、そこで3年間程揉まれ、東南アジアに日本人の南のルーツを探ろうという、かなり壮大なプロジェクトに参加しました。その後2年程京都で照明の勉強をし、1986年に「桂勘とサルタンバンク」という多国籍のダンスグループを立ち上げました。徐々にインドネシアとの関係を築きながら、内外で色々なコラボレーションをしてきました。
活動の大きな転機は1989年にイスラエルでのサマーキャンプに呼ばれたことです。そこは100人位のダンサーと音楽家が集まる規模の大きなワークショップのようなもので、森に囲まれたテニスコートくらいのスタジオが10棟ほどあるアート村だったんです。その中でジャンル横断的な活動が行なわれていました。その当時はワークショップという言葉は使われていませんでしたが、非常に刺激的な出会いがいっぱいあり、一番印象に残ったのは、1日のセッションが終わって食事時にテーブルを囲んで、大変シビアな意見交換をするんですよ。僕はこういうのが日本でできないかなと思った。老いも若きもダイレクトに円卓で議論しながら合宿するのはとても有意義でした。政府が十分なお金をかけてダンスと音楽を育成していましたね。だから、そのときに将来間違いなく質の高いコンテンポラリーダンスのカンパニーがでてくるだろうなと思いました。今のイスラエルを見ると、実際そうでね。去年(2010年)もインバルピント(&アブシャロム・ポラック ダンスカンパニー)、ため息が出るほど良かった。ダンサーのレベルがめちゃくちゃ凄かったので、これは舞踏しているどころではないな~と思いましたね。
同じような舞踏どころじゃない経験ですが、1992年に浜田剛爾さんをリーダーにオーストラリアのパースで日本文化の紹介みたいなプロジェクトで行った時に、マギー・マランの《May B》をはじめて見たんですが、やられた~と思いました。こんなの誰も日本の舞踏の人はやっていないなと。でもマギー・マラン自体は舞踏の影響は受けていないそうですね。バレエ的なテクニックは見当たらず、日常の振る舞い、愛と死、不安、葛藤とかアウシュビッツを連想させるような、あるいは明らかにサミュエル・ベケットのシーンとか、色々なイメージが重なり合いながら、旅、人生、老い、絶望、など一貫したストーリーができていて、しかもダンサー然としたダンサーだけではなく、美しい感覚でもない。だから寝てる観客もいたんですが、とんでもない、これはショックでしたね。目から鱗が落ちましたよ。
―舞踏どころではないと言っていますが、その舞踏って何でしょうか?
そうですね~、例えば80年代でしたか、アビニヨン・フェスティバルで日本の有名なお能を見ました、でも、あの大きなお城の壁のところで、日本の四畳半芸をやっても正直言って観客には伝わらないと思いました。もちろん寺山修司の天井桟敷、蜷川(幸雄)、カルロッタ池田などは例外でしょうね。しかし、当時はこのヨーロッパの大きなロケーション、風景を取り込んだものは、日本の芸術家にとってはまだ経験不足という感じがしました。日本の舞踏家は「肉体の神秘」をことさら売りにしない方がいい。舞踏とは失敗を恐れない芸術表現でありたいですね。
―例えば逆で、お茶などで狭い空間、または暗い空間を設定してやることについては?
それはそれでいいと思うんですよ、確かに。それ自体は日本の非常にローカルなものを時間をかけて掘り下げた結果です。土方巽の場合は、さらにローカルを掘り下げて突き抜けて、日本人が置き忘れていたことの肉体の発見に至ったわけですからね。後の人達は、それをどういうふうに空間的に広げていくか。
―そこです。
例えば、玉野(黄市)さんが土方巽に言われて守っているそうですが、海外に行ってファッションモデルのようなダンサーを使う場合は、如何に身体を内に折り畳むかをまず教える。彼らは外に伸びて行くことはできるけど、そういう身体性を獲得させないと、やっぱり舞踏に降りて行けない。舞踏がよく口にする「衰弱体」、いわゆるマイナスな方向にこそリアリティーがある。ただ21世紀の舞台芸術において、それをどういうふうに見せていくかになると、日本人の空間の使い方は、ヨーロッパの優れた芸術家のなかではまだかなり遅れているのでは? もちろん山海塾、大駱駝艦などはスペクタクルな現代歌舞伎だと思ってます。
―一方で、例えば最近のマギー・マランの場合だと、身体を何かのスタイルに持っていくのではなくて、えも言われぬ身体の立ち上がる寸前を作品化する傾向があると思うのですが。それは舞踏の身体を折り畳むとか、低いポジションではなく。
マギー・マランの凄いのは毎回スタイルが変わるでしょ。《サンドリヨン》のようなパペットバレエから《May B》のような重くてコントラストの強い踊り然り。また、ブラジルで社会問題的なことをやったり、こんなにスタイルを変えられる振付家はそうそういない。フォーサイスにしても、あるスタイルで一色。
―僕もアビニヨンでマギー・マランを見たときは、ほとんどミュージカルで、お客さんはブーイングでした。3年位前に、ニューヨークのジョイスシアターで見た《Umwelt》――ベッシー賞を獲った作品――は良かったですね。
彼女は、叩かれてもこれが私ですと主義主張をする。フランス人は、ゴミもいっぱい作るんですが、そういうのが平気なんですね。
話は戻り、イスラエルで非常にショックを受けたわけです。こういうことを日本でやるべきだと真剣に思い、たまたま芸術文化振興基金ができたばかりで、それと京都市や京都の3つの大学をかけずりまわり、お金を集めました。1991年です。まずいろいろなダンサーを集め、その人達のクリエイティビティがどこからくるかというようなことを共有する「美のフィールドワーク」というワークショップ・フェスティバルを主催しました。当時、日本ではダンスのワークショップというものはポピュラーではなかった。僕の解釈では、ワークショップというのはクラスでもレッスンでもなくて、アイデアをお互いにリサーチしましょう、そのなかで、いろいろな材料を使って何かを作ろうというような態度ですね。それを4年間やったんですよ。
―素晴らしいです。それはアジアを対象にしたのですか?
私の中では必然的に「アジアの身体性」をテーマに、私が学びたい舞踏家、大野慶人さんや麿赤兒さん、古川あんずさん、白桃房、岩下徹さんそして批評家、韓国のサムルノリや、ムーダンというシャーマンのダンサー、インドネシア、タイ、シンガポールのパフォーマーなどを呼びました。
アジアのアーティストにとっての創作と近代化は常に大きな問題ですが、そのアジア人がヨーロッパナイズじゃない、「アジア人自身の伝統のなかから近代化への方向はあるでしょうか?」はクエスチョンです。例えば90年代後半、タイのピチェ(・クランチェン)さん、彼はコーンという仮面舞踊の舞踊手ですよね。彼はバンコクのダンスセンターで、単に伝統じゃなくて、もっと現代的なものを取り入れようと方向性を探っていました。しかし中々難しい。豪華な衣装で踊っていたものがGパンだけで踊る、音楽は伝統楽器ではなくて西洋楽器。そういうのがモダンだっていう態度は、アジアでは長らく続いたと思います、でも伝統で培った形はほとんど変えられない。
ヨーロッパから入ってきた「芸術」というゲームを勉強して、それをコピーする事がアジア人にとってのモダンでしたね? つまり、フランス人とかヨーロッパのセントラルな人達は自分達の生活の中からかなり時間をかけて近代化していった。それが西洋からの植民地化の過程でわれわれアジアに西洋化イコール近代化として移植された。
そして、我々が伝統芸能と言うときは、昔から「伝統芸能」と言ったわけではなく、何かやっていた。ところがヨーロッパ的なものが来たので、自分達のアイデンティティは何だろうと問われ、伝統を作らなければならないというかたちで、近代化の副産物として伝統的なものが出てきたんでしょ。
それまでイワユル『伝統』なんてなかった、それは自分達のアイデンティティの防波堤として大急ぎで作ったでしょ? じっくりと自国の文化を醸成したなかで、伝承された考え方や哲学を培う歴史的時間が十分ではなかった。それをどういうふうにしたらできるでしょうかというのが、僕がアセアンの国々とコラボレーションするために、前置きが長くなりましたが、これがタイへ行った動機なんですよ。
―凄いですね!
それと、もう一つは1990年代には、どちらかというと舞踏はもう終わったという時期だったと僕は解釈している。70年代後半にカルロッタさんや(室伏)鴻さんがヨーロッパへ行き、大野(一雄)さんが活躍し、いろいろな舞踏の流派も出て、80年代はヨーロッパのフェスティバルは舞踏が大流行し、いつもソールドアウトの時代があったと聞きました。そして、90年代にブームは終わったという人がいます。しかし、90年代に山海塾を見たレーガンの奥さんが感動して、アメリカが舞踏に注目しだしたんでしょうか。マイケル・ジャクソンの《スリラー》の辺りに舞踏の振りが入っているんじゃないかと思わせますが。
以前、マドンナが今年は舞踏でいくって言うんで、モーリング・フレミングって知っています?――彼女に振付を依頼した。
―友人ですが。
本当? 僕がモーリングと京都で会ったときに、マドンナのマネージャーにむかって「舞踏を本当に作りたいんならアメリカのスタジオではなく日本で作りな!」って言って蹴ったと聞きました。
―(笑)。