Body Arts Laboratoryinterview

Whenever Wherever Festival 2018「そかいはしゃくち」のキュレーターのひとり、映画監督の七里圭さんのインタビューです。意外な映画との出会いや、ダンスとの関わり、「生の身体」と「イメージの身体」について、またウェン・ウェア・フェスの軸でもある「アーティスト主導」という考え方、在り方との距離感など、飄々としながらも本質に迫るお話です!


映画をやっている

―最初自己紹介的に、七里さんが普段、何をやっているのかと、その時にどういうことを考えているのかを伺えたらと思います。

映画をやっています七里圭です。映画をやるということ以外はあんまり何も考えてないです。

―映画はどういうことで始めたられたんですか?

映画は、高校生の時にひょんなことで、文化祭で映画を作ることになった時に、監督になってしまったんです。

―ひょん、ですか?

はい。ジャンケンで負けたんですよ。

―え! やばいですね、その人生の分かれ道感!

そうなんです。僕、完璧に成り行きなんですよ。

―衝撃的なほど成り行きなわりに、どっぷりですね。

そう。あれでジャンケンに勝ってれば、僕は今頃、大学生の子供がいたりして、「そろそろ俺たちも定年後の人生考えようか子供も独り立ちしたし」みたいな人生を送れたはずなんですよ。ジャンケン憎しです。

―でも相当運命的ですね。だってそこから映画のこと一直線ってことですか。

そうです、それもジャンケンで負けて撮った映画が、PFFってフェスティバルで入選しちゃったんです。

―あー。ぴあフィルムフェスティバルですか?

30年くらい前なんですけど、1985年かな?

―すごい、やっぱり才能あったんですね。

いまだに賞の最年少らしいです。17歳。

―えーどんな気持ちだったんですか? まじか!?みたいな?

うーん、それもね、よくあるじゃないですか、アイドルになったきっかけが……。

―あ、友達が応募して、みたいな?

そう、僕の場合は、先輩が応募してくれて、ちょっとフィルム貸してみたいな感じで。だから知らなかったんです。PFFとか。で、なんか一次審査通りましたっていうお知らせが来て。これは何なんでしょう?みたいな感じで、二次審査が通り、最終までいき、みたいな。

―賞取っちゃった!みたいな感じですか?

その時は、審査員が1人1本ずつ選ぶみたいなやつで、僕は、大島渚さんが選んでくれて。

―えー! それ凄くないですか? めっちゃ嬉しいやつですね。

そう、高校生ってバカだからそれで監督になれるって思っちゃったんですよね。

―まあ、思いそう。でもなってるじゃないですか。

それで、映画やろうかなー。とか思っちゃって、最初は大学も受けなくて。でも今と違って、どうやって映画をやればいいとかわからないから、映画は映画の世界で下積みしていつか監督になる、ということなんだろうか。くらいの時代だから。映画学校もないし。まあ、日大映画学部とか、大阪芸大とかもあったんですけど、そういうところには行かないで、どうしたものか。という感じで。映画の現場を手伝いに見に行ったら、今でいうパワハラの世界で、うわー、嫌だ、やっぱり映画やめよう、学校行こうみたいな感じで、大学入って、結局映画サークルに入ったっていう。

―へー。でもやっぱりジャンケンで負けなくても映画やってそうですね。

僕が行った早大シネマ研究部っていうのが、色々調べるとその当時は群を抜いていて別格だったので、新入生勧誘コンパみたいなのを覗いてみたんですよ。そうしたらそこにいる人たちはみんな、PFFのことを知ってるんですよ。それで、「君の映画見たよ、つまんなかったよね」とかって言われて。なんて失礼な人たちなんだ、みたいな感じでそうこうしているうちに、取り込まれて行って。それで、多少心得もあったので、先輩OBの手伝いとかもしているうちにいつの間にか映画の現場で働くようになり、在学中から映画の現場で働いていました。10年くらい助監督をやって、まっとうな、今や珍しいカチンコ打ちからやってました。

―でも、そのまっとうなところから、かなり特殊なというか珍しい感じの映画の作り方してそうですよね、現在のやり方は。

そうなんですよ。

―それはご自分の興味を辿っていったら今みたいな独自の方向性になっていたという感じなんですか?

それも成り行きで、与えられた仕事を、与えられた条件の中で、精一杯手を抜かず頑張るってことをやっていたらこうなっていたという感じです。

―へー、与えられた条件によって、自分の独自性が引き出されていた、という感じなんですかね?

うーん。例えば、建築家の人から、自分のインスタレーションを映像に撮ってもらえないかって言われて、どうしたら撮れるんだろうって考えて作ったらああいうものができて……。

―良かったですよね。「DUBHOUSE」でしたっけ。

はい。それで、できあがると、そういう人に見られるじゃないですか。そうすると別の話がきて、そしてウェン・ウェア・フェスまで頼まれるところまで。それでそういう時に、それは僕の志向とは違うんで、みたいなことをしてこなかったら、こういうところまで来たんです。

身体表現は記録できない

―でも、実際、気になる、みたいなことは、仕事が来るたびに、興味があるとかないとかは関係なくやっていたんですか?

ウェン・ウェア・ウェスだからってことではないですけど、ダンスに興味がなかったわけではないです。すっごいたまたまなんですけど、高校の時の同級生が平山素子さんなんですよ。同級生だったらしいんです。

―あー! 名古屋ですもんね。

だから全然知らずに、H・アール・カオスとか観てたんです。それで、この平山素子さんがあの平山素子さんとは結びつかなかったんです。

―同級生の頃の平山素子さんを覚えてたんですか?

覚えてました。みんなのマドンナ的な存在だったんですよ。僕らの頃にちょうどその高校の新体操部っていうのが創設されて、新体操の力のある先生が体育の先生でいて、その先生が、綺麗どころで運動神経のある人をスカウトして、新体操部を作っていたので、新体操部すごいーという感じで話題になっていたんです。

―ていうことは、あの、七里さんが映画を作った高校ですか?

そうです。でもそれがわかってからまだ会ってないですけどね。

―色々運命的ですね。それこそ、数年前のウェン・ウェア・フェスで、平山素子さんに、色々な人が振付をする企画がありましたよ! ARICAの安藤朋子さんや室伏鴻さんも振付していました。

そしてさらにダンスとの関わりでいうと、早大シネ研に入って、映画を2本作ったんですが、そのうちの1本に出ていたのが北村明子で、そのあと、レニ・バッソを作っていました。その映画の中で、北村さんにタップダンスをしてもらったりしました。だから、最初の頃からレニ・バッソは見ていました。

―すごいですね。今も第一線で活躍している人ばっかりじゃないですか。

身近にそういう人がいたってことと、関係あるのかないのか、なんとなくダンスは好きで、見てました。だから山崎広太さんも見ていたし、珍しいキノコ舞踊団とかも見てました。

―ダンスを面白いなって思う時って、どういう感じで思うんですか?

なんかね、僕、舞台照明が面白いって思うのかも。今、思いつきですけど。かっこいいじゃないですか。綺麗だなって思います。それで、身体の動きが美しいじゃないですか、どんな人もそれぞれに。

―そうか。そういうものを見る、という感じですか?

そうですね。それぞれの美しさを持っている身体を見るっていうのが楽しいなーと思っていて。ということかな。

―七里さんの映画って、私もそんなに沢山は見ていないですが、身体が出てこないっていう印象があって。声とか気配が逆に生々しいな、とは思ったんですけど、七里さんが作品を作る時において身体はどういうものなのかを、聞きたいなと。

これ、川口隆夫さんにも話していたんですが、身体表現って、絶対に記録できないと思っていて。

―それ、とっても興味あります。

写真は、瞬間を切り取るという意味で、フィクショナルなものがあるから、何か別のものが写っているということが記録になっているとは思うんだけど、動画でダンスを撮った場合に、そこに映らないものがダンスだと思っていて。そこが一番いつも考えていることです。

―自分の作品を作る時にですか?

そうです。ダンサーの人とかと仕事をする時に。今回(新作の「あなたはわたしじゃない」)は、普通の女優さんは1人しか出てなくて、長宗我部陽子さん以外は、舞台の人、表現者の人だから。生の身体を見せる、表現する人、つまり、イメージの身体を表現してる人たちじゃない人たちを、どこかでテーマにしてたんですよね。ここ4〜5年やっている作品は。

―その違いみたいなものは、一緒に仕事をしていて感じるんですか? イメージの身体を扱っているなということと、生の身体を扱っているな、ということと。

そうですね、生の身体が素晴らしい人のイメージを切り取る時に、最初に諦めから入る感じです。「これは映らないんだ」という。

―面白いですね。

映らないけど、どうしようか、ということを考えます。だから別のものだと思ってるんです。

―別のものっていうのは、生の身体の人が、生で表現することと、映像に映ることの違いってことですか?

そう、違うもの、だから記録って言いますが、絶対に記録できるものではなくて、アーカイブとか話題になっているけれど、身体表現は記録できないものだと思っているんです。

―それすごくわかります。今回のフェスでの自分の企画の「he meets no time capsule ひ みつ の たいむかぷせる」もそういうことがテーマです。

そう、違うもの、でもその美しさとか、凄さとか、何がしかはイメージとしてはものすごく力を持っていて、そこを拝借させてもらうということをやっていると思います。

―そうなんだ。そういう生の身体で何かを発している人がイメージの中にいることで出現するものがあるってことですか?

あるはずです。それを撮りたい、撮れてるかどうかは他者の判断に任せますが、撮っているつもりなので。だから、割と映ったものに対して違うって思っていると思いますよ。表現者は。

―どういう意味ですか?

自分がコントロールできないところに、イメージとして切り取られているというか。不可分というか切り離せないのかもしれないですね。その辺、私は演劇者であるとか、私は踊るとかで、完結して撮られたものに対して客観的という方もいて、そうすると、どう撮られたいってことに対して全く無く、そこにいてくれるから、こちらもすごく覚悟を持って、戦う感じがありますね。

でも、その辺が不可分である、生で見せることを表現の軸にしているというのもそれはそれでいいと思うんです。イメージに対して踊ったり振付したりするわけじゃないから。

―なるほど、例えば、麿赤兒さんとか、田中泯さんとかは、その辺クールなんですかね。

クールかもしれないですね。すごく割り切ってそう。でも、そこまでいくと面白くないなって思ってしまいますね。

―面白いですね。