Body Arts Laboratoryinterview

ドリフターズ・サマースクール

―話は戻るんですけど、今回のフェスのトークイベントにもなっている「ドリフターズ・サマースクール」について、参加しての変化や気づきなど、伺ってもいいですか?

ドリフターズは、その時確か2回目で、4回目までやって終わったんですけど、僕のやった2回目は2011年の東日本大震災の後の夏で、当時ハタチくらいで、美大生とか服飾の学生とか、基本は20代前半から後半のプロないしはプロを目指している人たちで、会場も、KAATで大きくて、わーっと集まっていました。それで、集まったはいいけど、震災の直後だったこともあって、多分どのジャンルでも起こっていたであろう議論、「そもそも作る意味とは?」とか「お金を取るものを僕らが提示することにどんな意味があるのか」みたいなそもそもの議論みたいなことをしていました。みんなこれから作ったりしていきたい人たちなのに、その前提を覆すような事態が起こって。悶々とした夏休みみたいな。一晩中松戸のスタジオみたいなところに集まって、作品のテーマみたいなことを話し合って結局何も決まらずに、みんなで河川敷に行くみたいな。

―青春すぎるじゃないですか!

40人くらいの若者が……。その時は結局作品タイトルがつかなくて。タイトルないしは作品の主題は、出したかったんですけど、40人で悶々と議論をしていても、そこに行き着かなくて。作ることへの漠然とした不安とか、世代特有の気分とか、共通したものはたくさんあったんですけど、どれも今この時に、主題として提示してもな、と思ってしまって。

―価値が小さく感じてしまうみたいなことありますよね。

何人かリーダー格になる人はいたけど、そもそも40人の人で議論して作るってことが難しくて。

―40人ってすごいですね。

ダンサー10人、建築10人、ファッション10人、制作10人。

―それぞれ10人ずつでもやばいのに……(笑)。

みんな好き勝手なこと言うから(笑)。難しいなって思ったのは、建築の人は基本クライアントワークをする人たちだから、自分で主題を出すってことが難しくて。命題はあるんですよ、例えばさっき言ってた、空間のレッスン、何かが変化するきっかけをどう作るか、みたいな。メタな命題はみんな持ってるんだけど。それは構造的な興味だったりするから、それだけでは作品にはならなくて、実験にしかならない。だから建築コースは主題は提示しづらい人たちだったし、他の人たちも主題を出すことにためらいがあって。だから最終発表は「ショーイング」になったんですよね。それを面白かったって言ってくれる人もいて、ただ2か月半くらい40人の若者が集まって、作ることに向き合った成果にはなったというか。でもその時に、作品作るのは難しいっていうのを体験しました。

―その時に、建築、ダンス、ファッション、制作の人で集まって、他のジャンルの人たちはどういうふうに映ったんですか?

僕は、ダンスは稽古場に入り浸ってたというか、一緒に筋トレしてたり、今回のウェン・ウェア・フェスにも参加してるハラ(サオリ)さんもいたり、前年に芸大の仲間でパフォーマンスを作った経験もあったので入口があって面白かったですね。一番異質だったのはファッションの人たちでしたね。そもそもあんまり批評がない世界であるってこととか、歴史化あんまりされていないんですよね。

―意外!

服飾の歴史みたいな、ルネサンスみたいな、そのくらいまで遡ると残ってるんですけど、ファッションが20~30年でサイクルし始める時代に入ると、歴史化しようがないというか。一つのブランド単位で、サイクルはアーカイブされてはいるけど、もっと大きな流れで、ファッションの変遷がどういうことだったのかというような批評がないし、そもそも自己批評をしようと思ったこともない人もいたり。

―ファッションってファッションショーとかが常にあって、他者の目とか、評価に常にさらされているというイメージがありました。

もちろんあるけど、それが文化批評とかまでは深まらないというか。今シーズンこうだった、というところに止まるような。一方で面白かったのは、彼らは、出てきたアイデアを数秒でサンプルとして作る。稽古場にミシンが置いてあって、すぐに試せるみたいな、それで人が使うとどうなるかみたいな。建築の場合は、建物でいうと何年単位で動くので、何かを思いついたら、バリエーション考えて、スケッチして検証して、紙の上で考えて、模型作って、ようやく吊るして見るみたいな、そうこうしてるうちに、クリエーションに置いてかれて、ちんたらしてるって思われる。タイムスパンがかなり違いますよね。

―それわかります。違うジャンルの人とクリエーションすると、そのタイムスパンの違いがすごくありますよね。それで、気になっていたのが、ドリフターズに参加した後に、人がいなくても成立する空間を作りたいというふうに興味が移ったって言っていたじゃないですか。その夏の経験で、そう思うに至るきっかけみたいなものがあったのか気になったんですよね。

変わったっていうことは認識してるんですけど、変わり目についてはあんまり意識してなかったですね。

―私とかはすごくその話に関係あるじゃないですか。人がいるってことが前提で、そこに何を起こすかってことに興味がある人だから。山川さんは、パフォーマンスに関わることで、そっちに行くんじゃない、というのが気になって。その力ではなくて、もしかしたら、その力に頼らない方がいいとかそういうことなのかもしれないけど。

それに近いですね。これ建築関係の人が舞台系に関わる時に大体全員感じることがあるんですけど、つまり、「何もしなくてもいいんじゃないか」みたいなことなんですけど。漠然と空間と呼んでいるただ何もない状態じゃなくて、何かが感知できる場所っていうのは、ダンサーが一人いればできるっていうことを思ってしまうフェーズが一回はあるので。人がいなくても予感させたり、前後の時間を想起させるようなもののあり方はできないか、という方向に向かったのも、パフォーマンスする人の力が非常に強いってことを再確認したからこそっていうのはありますね。あとは、再現性っていうかな、物の場合は、そこに行きさえすれば、何かが起こる可能性があるというのが良さですね。

都市と身体━ストリートフリスビー

―フェスのことに話をつなげていきたいんですけど、今回のフェスの空間のアイデアってすごくシンプルじゃないですか。空間そのものが、パフォーマティブではないっていうか。最初は、空間そのものが主張があったり、見るからに人が関わることを待ってて、人の関与が加わることで変化して行くようなものをイメージしていたんですけど、今回はものすごく質素だけど、相当、介入してくるっていうのが面白いなと思ってて。

それは自分の中でドリフターズに参加したことが影響してます。その時はもっと色々やったんです。それも同時多発性のパフォーマンスで、舞台に16枚の幕が垂れてて、4面客席にして、絶対に全ては見れないようにして、「そもそも全てを我々は見れてないよね」っていうことを言っていて。それも面白かったんですけど、見てる人の意識が変わる瞬間ていうのが、一回しか訪れなくて。

―え!どういうことですか?

気付きみたいなものが一回転しかしないというか。

―なるほど。大きな気づきがやってきた。はい。みたいな感じですかね?(笑)

で気づいた後には何も続かないというか。一回何かその人の中で変わるんだけど、変わって終わってしまうというか。変わったことによって、作品を見ている間も作品を見終わった後も、その人に影響を及ぼすようなそういう気づきとか転換を生むには、もうちょっと主張しないというか、もうちょっとニュートラルに近いんだけどよく見ると異質なところがあるくらいな方がいいんじゃないか、と思って今回はそう考えてやっています。そのちょっと異質な部分っていうのは建築やっているような人しか気づかないようなものから、もっと誰にでも気づかれるようなものまで、いろいろなレベルで仕込んでは行くんですけど。今回は「租界」っていうテーマも受けて、もうちょっと「租界」っぽくというか、場所自体が特殊である必要はないというか。だから、パフォーマーに対してというよりは、もう少しゆるく、「訪れる人」全般に対しての空間という感じで考えています。

―たしかに。プレッシャーを与えないですよね。空間ってたまにプレッシャーがあるのもあるじゃないですか。使った方がいいかなみたいな。そういうプレッシャーはないけど、関わらざるを得ないというか。自然なようで不自然な状況が生まれる気がして。視界に入ってき方とか。そこが楽しみだなと思っていて。4日間かけて、見え方も変わってくるかなと思うので、何回か訪れて欲しいな、と思いますね。お客さんには。それでもう一つ質問が、ダンスのフェスだからっていうのもあるんですけど、山川さんが活動する上で、「身体」っていうのはどういう存在ですか?

そうですね。さっきの段差があるからそれを越えなきゃみたいな話じゃないですけど、完全に直結した、密実な身体と空間の関わりもある一方で、僕が身体と空間のことを考える時に好きなのは、「ストリートフリスビー」っていうジャンルのことで。

―えー何それ。

フリスビーって公園でやることが多いと思うんですけど、それをストリートでやるっていうものです。スケボーとか、BMXとかみたいなストリートでやるものの仲間です。例えば、立体駐車場のカーブしてる壁でギリギリその壁に当たらないように、向こうにいる仲間に飛ばしたりとか。要は、手首のスナップ具合が、都市とリンクしてるんです。ある壁の、登ることもできないし通常だったら触りもしないような都市の大きい空間と、手首のスナップが、フリスビーを介して接続してるっていうのが面白いなと思って。そういうレベルも含めて、都市と身体っていうことを取り扱えたら面白いなと思っていて。もちろんさっきの「オブジェクトディスコ」のように意味のレベルで頭が接続するってこともありますけど、身体のある部位が大きいものと接続するっていうのも面白いなと思ってます。

―面白いですね。あとさっきの話で面白いなと思ったのが、建築は、絶対数が違うみたいな話をしてたじゃないですか。それは時間的なことも言えるというか。ダンスは目の前の、究極にいうと、たった今でしかないというのがあるけど、確かに建築は、自分が死んだあとも、誰かが使ってくれるかもしれないというか。

でもダンスは強いと思いますけどね。身体そのものへの気づきを与える鑑賞行為というか。僕は基本的には主題を拾うのが苦手というか、構造とかを見る方で、その動作が、どういう気持ちとつながっているか、というその気持ちには興味はないけれど、その動作を通じて、あり得たかもしれない自分の身体の可能性を感じることができるというか。見ているその時は目の前のことだけど、見る前や、見た後の可能性という意味では、長い時間の話でもあると思う。

あと、ドリフターズの後に、一回だけ何人かで一緒にやったプロジェクトがあって。早朝に、都内の駅とかビル街を巡って、明らかに面白い場所が誘発する運動を、ダンサーに読み取ってもらって映像に撮るというのをやりました。そのサイトスペシフィックなパフォーマンスの良いところっていうのはその場所を訪れる度にその人のことを思い出す。劇場に行っても身体的に誘発して記憶に蓄積されるものはたくさんあるので、意外とそんなに刹那的なものでもないと思いますね。

―ありがたい。たしかにそういう側面はありますね。

余談ですけど、その時に一緒に街中でやった友達は、今自分でそういうことをやってるみたいですね。

―あ、白井(愛咲)さん?

そう「もやもやアグよし」で、コアな場所でやっていて、良いなーと思って。意外とそういうことやっている人少ないなと思って。

―ひそかに私、ほうほう堂でそれやってましたよ。「ほうほう堂@シリーズ」っていって、月一回数十か所でやりました。

WWFes 2018とレッスンのレッスン

―あと二つ聞いても良いですか? 山川さんが活動してる建築の世界と、今回のフェスのような世界って、真逆のような部分もあるなと思っていて。今回のフェスって、予算も少ない中でやっていて、「アーティスト主導」っていうそれこそ命題を持ってやっているんですけど、そのことが意味があると思う時と、意味あるのかな?と思う時もあって。今、木内さんと山川さんは、限られた条件の中で、すごくアグレッシブに、自分で協賛までとってやってくれていて、その辺どう見えてるのか、映っているのか聞いてみたいです。

建築の側からすると、こういう場じゃないとできないことがあってラディカルに自分のやりたいことができるし、こういう場に来る人って意識的な人多いので、そういう人たちを通じて、あまり意識的じゃない人にきっかけを生むにはどうすれば良いのかみたいなフィードバックはできるので。

―あー確かに、じゃあ「レッスン」の場みたいな感じですかね。

そうです、レッスンのレッスンというか。

そうですね。それぞれがそういう場として、使えばいいというのはありますね。

こういう場はもともと好きなので、色々面白いことしたいなというのは常に思ってますね。面白いロケハンしたいなとか。

―最後に今回のフェスに期待することをお願いします!

4日間自体が面白くなって欲しいのはもちろんなんですけど、どれくらい、日常に持って帰れるものになるかというのはありますね。同時多発の作品とか、増えてるし、きっと昔からもあると思うんですけど、それが普段の生活とか、普段街中で起きていることと繋がったり、そのことを見直すきっかけにこれがなったらいいなと思います。

―ほんとですね。そのためにどういうことをすればいいんだろう。もっと考えたいですね。本日はありがとうございました!!


山川陸Rick Yamakawa
1990年生まれ。東京藝術大学美術学部建築科卒業、松島潤平建築設計事務所に勤務(2013-15年)。2010年よりグリ設計名義で活動。現在・同大学美術学部教育研究助手。近作に『オブジェクトディスコ』(2016)、『ピン!ひらはらばし』(2016)等。建築がどのように読み取られ受容されるかを関心とし、設計業務の中で可読性の検証を行う。他、NPO法人モクチン企画、NPO法人有馬の村への参画。