Body Arts Laboratoryinterview

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1.

―日本のダンス環境を変えるために必要なことは、アーティスト同士の対話からはじめることだと思っています。一方、アーティストの声を聞くことも必要だと思い、インタビューをはじめました。
大橋さんの作品は、今の社会的背景抜きには語れません。今日は最初にアーティストとしての活動、その社会的背景は何なのかについて、そしてアーティストたちとコミュニケートする「ひらく会議」を立ち上げた目的などをお聞きしたいと思っております。

パフォーマーのタスク

― 最初に、昨年、2008年12月に新国立劇場で発表された最新作《帝国、エアリアル》のことから聞かせてください。僕はこの作品にとてもいい印象を持ちました。それは、大橋さんが、そのような作品を創るに至る現象を感じることができたこと、大橋さんのようなアーティストが東京にいることの嬉しさとかです。そして、振付が緻密であり、クリアな方向性を感じることができました。その方向性について感じたことですが、パフォーマーのタスクが、かなり具体的に感情的なものや、暴力的なものに向かっています。そのタスク=演技が感情的であるがゆえに、マスターベーション的に自己完結しているように見えるのですが。パフォーマーが感情の表象で終わるのではなく、どうしてそこに存在しているのかという意味みたいなものを考えたときに、僕だったら、もっと感情的なものを排除して、一つの行為のみにします。それで、もっとレスムーブメントの方が、社会における閉塞感を伝えることができたのではないかと思うのですが、そこのところをお聞きしたいと思います。

いきなり難しいですね(笑)。感情的、暴力的なことは確かだと思います。身体を動かすとき、人の動きを築くとき、そこが僕の作品の出発点だと思います。僕はもともと身体を動かしたり、ダンスをしていた人間ではないのですが、実際ダンスや身体を使った活動をするようになって、なぜ身体を動かすのだろうと思い立ったときに、現実で起きている出来事や暴力が――作品のテーマにも取り上げていますけど――身体を一番実感できる体験ではないかと思い至りました。なので、僕の作品では感情的、暴力的であることが重要なポイントなのだと思います。そこが、ある種マスターベーション的で、完結しているのかもしれません。《帝国、エアリアル》は14人のダンサーが舞台上に存在していて、それぞれが閉じている関係性です。そのような複数の関係性を並べることで、客観的な視点が浮き上がるのではないかと思っています。ここでのパフォーマーには、自分の中に閉じること、完結させることを求めているのです。

―それは閉じていることをお客さんが覗き見するとか、その閉じていること、コミュニケーションを持たない人たちを同時に存在させ、わざと晒すことでしょうか?

そうです。パフォーマーも、もちろんそのことを理解してやっています。彼らは彼らで客観的なところもあると思います。確かに演技と近いことは出てきてしまいます。そこは課題だと思いますし、常に考えているところです。できるだけパフォーマーに演技することを意識しないように導くことを注意しています。

―では、身体の「強度」についてはどのようにお考えですか? ずっと和栗由紀夫さんに師事されてきました。

僕はできるだけ日常の身体にこだわりたいと思っています。特権的な身体性を提示することは、今の僕の作品の視野にはありません。だからといって、そのような作品を否定しているわけではありませんけれども。

―たとえば、演技をする寸前の身体の状態や、曖昧模糊と何かが立ち上がる手前の身体性、不気味なものがでてきそうな感じというか……。

目指しているところはまさしくそうだと思います。やりたいのは、その行為に至るということ、そういう身体の状態です。身体が動き出す必然であり、それを生み出す状況ですね。

社会問題と作品

―演劇は社会的な問題を背景に作品化することが多いけれど、ダンスではあまりないと思います。大橋さんが、社会的な問題の背景から作品を創る必然性はあるのでしょうか?

今の世の中で、身体が意識される瞬間は、犯罪や、犯罪に至らなくても、ある意味、特別な、突発的な瞬間しかないと思います。けれども、身体の在り方はそこだけではない、ということを提示したい。そこが僕の作品の大きなテーマだと思っています。僕の場合は特定の社会問題を題材にしているわけではありませんが、どの作品にしろ、「現在の身体」を主題にしていると思っています。

―それは社会における閉塞感、孤立感や、社会に抑えられている身体の状態でしょうか。

身体もそうだし、気持ちも抑えられているという感覚が、僕の実感としてあります。昨年作ったフリーペーパー[*1]にも書いた「生きづらさ」ということは、流行っている言葉でもあるのですが、僕自身も思っていることです(笑)。生きづらい雰囲気というか、空気ですよね。気持ちもそうだし、いつの間にやら自分の内側に向いてしまっている。そして、身体も籠ってしまう。まずは、その状態をもっと曝け出したい。

―それは現実的に、ひきこもりの人が持っている身体の状態ということでしょうか。

そうですね。そういう身体に興味があるし、取り上げなければいけないと思いますし、そういう人たちに作品を見てほしいと思っています。実際引きこもっている人が公演に足を運ぶ時点で、もうひきこもりではないと思いますが。その辺りは矛盾がありますね。また、そういう人たちに見てもらいたいと思っても、劇場というシステムでやる時点で、敷居を高くしてしまっている。そこは僕たち自身が閉じていしまっていることでもあると思います。この問題はこれから時間をかけて取り組んでいきたいところです。

―それは、劇場という特殊な空間ではない場所でも公演することですか?

これからは、その方向にいきたいと思っています。

― とても楽しみです。サイトスフィシフィックに限らず、身体がもっと野外に飛び出して、どんどん社会に入っていく行為が普通に行なわれることが、大切な気がしています。余談ですが、今度インタビューする田中泯さんは、昔「ハイパーダンス」と称して、野外のあらゆる空間に出没し、ほぼ全裸で踊っていました。今から思うとすごいことだったのだな~と。今の時代、身体が社会に氾濫していくことの必要性を感じています。大橋さんがどういうふうに行なうのかわからないですが、楽しみです。

屋外の公演も実際少しずつやってきています。と言っても、泯さんの方法とはかなり違うものでしょうね。理想としては、やる側と見る側がはっきり分かれているのではなくて、混在している状態にしたいと思います。

―それいいですね。昔、歩行者天国とかで、ゲリラ的に演劇の人がやっていたように思います。たとえば、今はなくなったけど秋葉原の歩行天とか?

そうですね。そこら辺りの街角でいつの間にやら何かがはじまっていて、全体を俯瞰してみると、一つの作品になっている。そのようなことを考えています。

行為と演技

―ニューヨークのキッチンで発表された作品についてお聞きしたいです。僕はそのときにいなくて、観に行けなかったのですが、この作品はターニングポイントのように感じています。

あの作品《あなたがここにいてほしい》を創ったのは2004年ですが、僕はその前の3年くらい踊りから離れていて、ようやく自分で創りだそうとしてから、2作目の作品です。創りはじめた当初は正直どうやって創ったらいいかわからなかったですね。ミウミウという女性ダンサーと二人で模索しながら稽古していく過程でできあがったものです。テーマを想定しないで創っていったともいえます。結果として、ニューヨークでの紹介記事にも出ていましたけど、オウムのサリン事件や、監禁事件を喚起させるものになったと思います――つまり、それは人がそのように連想してくれたんですけど。結果として、そういう時代背景まで作品が辿りつけたと思っています。

―昔から社会的なものを扱っていたんですね。裸になって賞を逃した作品は……?

あれは2000年のバニョレ国際振付賞のヨコハマプラットフォームです。僕が振付の作品を創りだしてから、1年ぐらいの作品ですね。その作品も社会問題を扱っていて、『レイプ・男からの発言』という本からテキストを引用しました。そのときも「今の身体」にこだわっていたのですが、それを直接提示するには裸ではないだろうかと。今の作品とくらべると観念的だった気もしますけれども。

―コンセプチュアルとも違いますか?

コンセプチュアルだと思います。

― つまり、身体がコンセプチュアルに走れば走るほど、パフォーマーのタスクがクリアになると思うんです。だから感情的になればなるほど、曖昧化されるというか。再び聞いているのですが、察するにキッチンでの作品などで、もしかしたらクリアなことをやっていたのではないでしょうか? ただするだけ、ただ食べるだけということは、クリアだと思うんです。行為としてのクリアなことについて、何かお考えがありますか? 演技ではなく存在するものとして。

ほんとうにその通りだと思います。目指すところは、ただそこにあることなんです。キッチンで上演した作品のときは結果として、そのかたちになった。今は、逆にそこに立ち戻ろうとしている過程なのかなと思う。

―楽しみですね。

はい。大きな課題でもありますが。

―最近ニューヨークでは、あまり面白くないけれど評価が高いものとして、ただ歩くだけとか、服を脱ぐだけとか、行為としてピュアにもっていく作品があります。もちろん映像の要素もあり、総合的です。確かに作品の意味も理解できるのですが。

劇場以外でのパフォーマンス

―次の作品は、どのように進んでいるのですか?

次の作品[*2]は、もう間近で3月に発表します。これは屋外の作品なのですが、いわゆる屋外とはちょっと違っています。横浜の桜木町の脇にデッドスペースがあり、そこはかつて駐輪場だったスペースなのですが、放置自転車が溜まらないよう、ホームレスの人が寄り付かないよう、柵で囲まれている状態になっています。その柵の中で上演する作品です。パフォーマーもそうなのですが、見る人もその柵の中に入って、共通の体験をする。僕が興味を持っているのは、屋外でも都市に取り残されたスペースです。いっけん自由に開かれているけれども閉ざされている、そういうところが今の社会の象徴的なところだと思います。そうした場所で、今後作品を上演していきたいと思います。

―いいですね。僕は、桜木町だったら、《サザンオールスターズ・ラバーズ》といって、延々サザンの曲で、普通の人がいきなりダンスをはじめたりして、誰がパフォーマーなのか、お客さんのなのかわからない演出にしたい。カフェのウエイターがいきなりサザンを歌い出したり、コーヒーに集っている人が突然踊りだしたり、一般の人が凧揚げしながらダンスしたり、完璧に決められた演出で、サイトスフィシフィックなことをしたいですが、全然、方向性が違いますね。

それは面白いですね。話は変わりますが、僕の今の状況は、ある意味、無理して作品を創っている感じがあります。前回の新国立劇場みたいに僕らにとっては大きいスペースを使ったり、屋外でもあえて難しいところで上演したり、できるだけ厳しい状況で作品を提示して頑張りたい時期なのかもしれません。

―そうですよね。わざと新国立で公演したんですよね。

本来、自分の目指すところとしては、もっと長いスパンで、2、3年かけて、いろいろなことを試しつつ、一つの方向に向かう作品を創ることです。広太さんも、「帝国会議」[*3]で指摘されましたが、日本だと、どうしても作品をどんどん創っていかなくてはいけなくて、それに追われてしまうことが、否めない事実としてあります。

―そこを利用すればいいと思います。

そうですね。今はその状況を利用しているところだと思います。今試しているなかで、将来的な方向性を見つけられればよいと思います。

― 僕の友人の、コンゴのFaustinは、《嘘のフェスティバル》というタイトルで、深夜に、お客さんは飲み食いしながら、バンド演奏、世界のリーダーのメッセージの声を聞きいている状況で、パフォーマーは格闘するという作品をやっていました。多分、アビニヨンで。それから、ニューヨークのDTWでも。これも観ていないのですが、とっても政治的です。なおかつ、アフリカンダンスには、まったくこだわっていません。そういうふうに、社会を扱った作品で、劇場という空間でなく、特殊な空間/時間での試みもあるかと思います。

振付について

―作品では、どういうふうにムーブメントを創るのですか?

最初、動きを創りだすのはできるだけ適当に、ひらめきの中から取り出しています。そこからの過程はまちまちですが、一つは動きを並べる作業があります。

―それは編集もしくは組み立て?

組み立てる方向性です。もう一つ、ストーリーということも意識しています。ストーリーというと、演技に近いことを想像されるかもしれませんが、最近の作品でよくやっているのは、日常の、たとえば会社に行くそのルートの中の行為をストーリーとして創る。そのストーリーと動きを構成したものを重ねていきます。そのようにしてダンサー一人ずつの振付ができあがる。

―ストーリーは抽象的、もしくは具体的?

具体的です。と言っても、ドラマティックなことは全然なくて、基本的にただ日常の描写ですね。彼らができるだけリアリティを持てることが重要だと思うので、そのような方法を用いています。

―日常的な行為もたくさん入ってきますね。

そうですね。その中の出来事、状況から、もともとの振りも変わっていく。ダンサーが複数いる場合でも、稽古の最初の段階では皆で同じ動きの稽古をするので、動きのモチーフを共有しています。ストーリーは各人バラバラなものですが、それらをさらにガッチャンコして、また構成し直すという作業を繰り返します。

印牧(エディター、以下I) 振り付けるさい、個々のストーリー同士は関係づけられているのでしょうか? もしもそうであれば、その関係性の設定は、見せるというレベルでも保たれることを意図していますか?

ストーリー自体は見せようとか伝えようとかはしていません。伝えたいのは、隙間であり、背景です。僕たちはそれぞれの人生をそれぞれで生きているわけですが、その個々の様態ではなくて、それぞれの存在の隙間から後ろにある背景が浮かび上がってくればよいと。そのためにも、それぞれがはっきり完結してないといけないと思います。

―僕は以前、舞台上での同時多発性が好きでした。《帝国、エアリアル》でもそうでしたけど、好きな方ですか?

そうですね。

― 以前は、関係性のダイナミズムが僕のテーマだったのですが、意外とお客さんはわからないというか……。最近は、そういうことに興味がなくなってきて、もっとクリアなものにしたい。観客にわからせるためのクリアさではなくて、クリアに伝えたいものがある。同時多発はノイジーになりますよね。その辺はどうですか? ノイジーでやりたいですか?

僕の関心は、同時多発というより、距離ですね。隙間がある、その隙間があるからこそイマジネーションが持てる。そういう意味でもキッチンで上演した《あなたがここにいてほしい》は、単純な構成で、出演者2人、ミュージシャンも含めれば3人、それぞれが全く別のことを行っています。この2人あるいは3人の「間」は観客の想像を生み出しやすいものだと思います。これまでの作品は、基本的にその延長です。昨年、2008年2月の作品は、出演しているダンサーは10人ですが、同時に出ているのは4人です。これが今の方向性で同時に舞台上に上げられるマックスの数かなと思います。《帝国、エアリアル》では、あえて一気に増やしたのですが、結果として、ノイジーに捉えられてしまうリスクはあると思いました。

―でも僕にはノイジーに見えなくて、ポジションはクリアでした。そういう意味において好きでした。ただ暴力的な行為は、あんまり見たくないな~と。でもベースは、すごく好きです。

逆にちょっとクリア過ぎるかなという気もします。その関係性や配置も明確に定義づけられています。そのことに気づく人は少ないと思いますが、気づくとわかりやすい。

―ポジションがしっかりしているから、音が爆音でも静寂に感じます。そこをもっと徹底すると、クールになるだろうなと思いました。

  1. 大橋可也&ダンサーズ公演《帝国、エアリアル》(2008年12月28日)のために作られた、フリーペーパー『帝国、エアリアル(Empire, Aerial Paper)』。内容は、大橋可也のダイアローグ(大澤信亮、椹木野衣、鈴木邦男、鷹野隆大、吉本昌行) のほか、赤木智弘、佐々木敦、木村覚、大谷能生が寄稿。秋葉原など街頭でも配布された。Back
  2. 2009年3月7日に上演された《MOV横浜》。Back
  3. 《帝国、エアリアル》上演の翌日に、大橋可也&ダンサーズの主催により、森下スタジオで行なわれたシンポジウム。いずれも振付家/ダンサーの伊藤キム、遠田誠、岩渕貞太、山崎広太、大橋可也が出演し、日本のコンテンポラリーダンスの問題点とその課題への取り組みについて話し合われた。さらに、今後、主催者、形態を変えても会議を継続することが大橋から提案され、その名前が「ひらく会議」に決められた。
    2009年1月31日、コミュニティ・ダンスフォーラム「We Dance」(横浜市開港記念会館)にて、手塚夏子(司会)、山崎広太(企画)、木野彩子、大橋可也、川口隆夫が出演し、ひらく会議が行なわれた。Back
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