Body Arts Laboratoryinterview

ボスニアでのプロジェクトと教育

―今度は、アジアからボスニアに行って、まったく民族が違うわけですが、そこでの経験をお聞きできますか?

2001年まで基本的にはタイにいたんですね。2001年の春でしたが、サンフランシスコ舞踏フェスティバルに呼ばれて行ったとき、そこで向こうのダンサーを集めて幾つか作品を作って、そのままエジンバラに持って行ったことがあるんです。8月でした。で、2001年9月11日、ニューヨークのWTCが崩壊してしまった。その後3か月位、世界中の友人と辺り構わずディスカッションしたんですよ。つまりアーティストとは社会にとって何なのか? 概ね日本人は社会問題とか政治的テーマを表現するのがあまり好きでない。しかしながらこういう惨事が起こって物凄くショックでした。アメリカの欠点は、世界の現状の欠点そのものであって、アメリカが単にイノセントだから矢面に立っているだけだと思ってます。イギリスやフランスは賢いから背後に隠れている。まあとにかく、アーティストとして何かしないといけない。つまり自分の美の追求や知的探求だけではもう済まされない。それで、たまたま笹川平和財団がイスラム教とのコミュニケーションみたいな活動をしているのを聞いて、財団の事務所に行きました。世界の現状と今何をなすべきかについてレベルの高い見識をもった優れたスタッフやキュレーターがたくさんいらした。そこで勉強したのは、バルカン半島でした。
ヨーロッパの火薬庫と言われていますが、特にユーゴスラビアが崩壊して内戦が90年代に勃発して、いわゆる民族の浄化みたいなかたちで虐殺が繰り返されたんですね。特にサラエボが有名ですけれども。そういうなかで、僕はベオグラードに友人がいまして、一つプロジェクトをやろうと。そこは、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルという、きれいな川が流れているところです。基本的にボスニアはイスラムコミュニティが多い。そして、カソリックとオーソドックスと、この3つくらい全然違う宗教がチトーの頃はまあうまく共存していた。ここで何かできることならしようと、そこで僕は日本人ですから仏教徒という触れ込みで行きました。皆さんは僕には話せるんですが、宗教の違う人同士は話せない、だから身体を使って作品を作ろうと。最初の頃は毎年、最近では2、3年に一回。

―それは日本財団の助成ですか?

基本的にはいろいろですが日本財団は芸術家への敷居は高いです。国際交流基金から一番サポートされました。ボスニアからの経験で、やっぱり「教育」は大事だなと。旧ユーゴスラビアの国々は非常にプライドの高い民族なんですね。しかもユーゴスラビアは社会主義の時代からパルチザンの伝統があって、歴史的な経緯でソビエトに対抗していたんです。どちらかというと西洋寄りで、社会主義なんだけども西ヨーロッパ的な要素がある。だから西洋ではユーゴスラビアに期待していたんですね。
ボスニアでワークしているときのエピソードですが、リハーサルの合間にしょっちゅうターキッシュコーヒーを飲むんですが、そんなときに、僕のことを良くサポートしてくれて、美人で、明晰で4つの言語を自在に話し、身体性も優れた女優がいて、何の違和感もない。僕は彼女がモスリムだとは気がつかなかったんです。でもモスリム。つまり彼女はベールを冠っているわけでもなくジーパンの普通の恰好で、しかもまっすぐ目を見て喋るんです。それを見て考え方を変えないといけないと思った。つまりモスリムと言っても、いろいろなんだと。トルコにしてもボスニアにしても穏健派なんですね、いやむしろ穏健派が普通なんです。西側の文化に対しても柔軟性がある。しかし彼、彼女らはビザの問題でなかなか外に出にくくて、パリですら簡単に行けないんですね。能力があるのに行けないから、悔しいでしょうね。
ヨーロッパの文明の、いつも問題になるバルカン半島――いろいろな国々から侵略され、落ち着いた国づくりにまで至らない。つまりボスニアでは伝統を育てあげるのがむつかしい。強国と呼ばれる国は、民主主義以前に長い王朝の時期があって、その歴史の賜物として文化や芸術が豊に伝承されている。だから世界の国のなかでも日本は飛び抜けて幸せだと思います。そこで感じたのはやはり教育ですね。これが私のテーマです。まあ文化芸術は一国だけの問題に収まらない、もっとボーダレス、国というよりは都市の関係で、都市同士が直接コミュニケーションしながら影響を与え合うというかたちで、寧ろインターネット的に、何らかの伝承のシステムを若い人達に残していく必要がある。そういうのがボスニアでの経験ですね。

―都市間の関係は、とてもヨーロッパ的ですね。

例えば、パリに帰って「桂勘」何してるのって聞かれ、サラエボに行ってベオグラードから来たダンサーと話をしてコソボでプロジェクトが……なんて言うとね、それは止めとけって(笑)。あんなややこしいところに行くなって。フランス人は罪の意識があるんですね、昔いろいろやってるみたいですからね。ヨーロッパではバルカン半島はややこしいしバイオレンスな国だと思われている。

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Meital Hershkovitz

舞踏の受容

―世界中を飛び回っていると思うのですが、それぞれの国々によって舞踏の捉え方は違いますか?

フランスだと、割と舞踏家を目指しているんですよ。イギリスでは、演劇やフィジカルシアターのテクニックとして舞踏を学ぶ。ドイツは、やはり、ドイツ表現主義に舞踏もむしろ影響を受けたこともあるので、共通項は非常にあるのですが、どちらかというとドイツ人は癒されたいという方向がありますね、舞踏の重要な技術として「野口体操」が歓迎される。で、やっぱり表現も重い。スペインなんかは明るいですね。クラウン的な要素がありますよ、フラメンコと結びつけている人もいるし、バルセロナは田中泯さんの影響があり真面目な舞踏もある。まあ、彼の影響は世界中至る所にあります。ギリシアも重くて深刻ですね。ギリシアのクレタ島は、ギリシア本土の人からしたら常に敵だった。舞踏は最初にクレタ島に入ったそうです。恐らく吉岡由美子さんの影響かと思いますが古関須磨子さんや岩名雅記さんもパイオニア的存在です。

―いろんなところに行っているんですね(笑)。

例えばアメリカのUCLAで2011年5月に全米舞踏会議をやりますけれども、一つは日本の舞踏の「肉体の風土」に戻るという考え方。特に土方巽が細江英公さんと組んでやった戦略ですね。東北のイメージを日本人の身体性として結びつける、そういうものが思想として定着している。即ち、北アメリカの持つダイナミックなランドスケープ、滝、森林、砂漠、峡谷、山脈、大洋そういうものを自分たちの中に取り込んでいく必要があるというふうに合衆国の思慮深い舞踏家は考えていますね。それと白人の系統の人が特にそうですけれども、移民の国の末裔、しかしヨーロッパの歴史は全然背負っていないんですが、ただ、そうして肉体の風土に戻るといったときに、原住民の屍の上に自分たちの国がある。そういう魂を鎮めねばならないと思っているんですかね。だからネイティブ・インディアンのセレモニーに興味を持ったり、カーウボーイ舞踏と称するノリがあったり、自然と一体化するような作品を良く見かけます。そういう意味で北アメリカの「舞踏」は、芸術というよりは肉体を深く探求して、闇に行き当たった時に出てくるものを取りだす、サイコセラピー的な要素があると思います。ヨガのコミュニティーが舞踏コミュニティーと重なっている事がそういう事を物語っている。それはわかる、でも、日本の舞踏の動機は、はっきりと資本主義社会に対する反逆であり、既成の文化を叩き壊そうとしたパワーだったし、何よりも芸術を指向していたんです。僕の戦略としては、そういうことをちゃんと確認したい。
オーストラリアも、大なり小なり、それぞれの動機は舞踏家を目指すか、演劇の一つのジャンルとしてアイデアを得たいか、あとはサイコセラピー的なものがあるだろうな。そういうなかで芸術を指向することは、骨が折れます。それはそうと、僕は去年アルゼンチンに行ったんですよ。刺激的でしたね。

―どういうふうに?

まずイタリア移民の多い国ですね。南米のナポリといわれていた。かなり白人社会なんですけれども、インディオやアボリジニの人とか、日本人移民も100年以上ですからね、沖縄県人会ありますよ。実は1970年代に軍政によって政治犯をジャンボジェットから海に放り出すみたいな大量虐殺の時代があったんです。そういうことが近年いろいろと明るみに出てきて、物凄く影を背負っている。でも反対にラテンアメリカの軽いノリもある。食べ物がうまい、男女とも身体性はセクシーです。アルゼンチンタンゴに代表されるように、押さえられた情熱と深い闇のなかで、どういうふうに自分たちの歴史のなかの怒りが舞踏の闇と結びつくのかという感じです。今年(2011年)実は、こういうラテンアメリカのアルゼンチンとチリのサンチャゴと、ブラジル、パラグアイ、あの辺をツアーしようと思っています。

―それはコラボレーションですか? ダンサーは?

そうです。現地のダンサーです。凄く恰好のいいダンサーがいっぱいいます。しかもミックスしていますしね。大変インスパイアされますね。南北アメリカ大陸を大きく俯瞰したなかで僕のアメリカの舞踏の未来図は、今後、南米の舞踏の人達が、メキシコもそうですけども、北米に影響を与えていく。かなり新しいものを作っていくだろうから、舞踏の将来を考えたときに、一つのモデルとして考えることができる。ヨーロッパの舞踏は保守的で行き詰まっている感じ。
舞踏そのものが、現代舞台芸術なり現代舞踊の歴史の文脈のなかで、きちっとアカデミックな場所を持たないと、グローバルな世界ではヒーリングや演劇の一つとして終わってしまう。また、舞踏家は「皆さん勝手にやれば」っていうことになりがちなので、きちっとしたアカデミックな舞踏を作る方がいい。例えば、三上賀代さんは京都精華大学で舞踏学を教えているそうです。京都造形芸術大学の山田せつ子さんにしても、外から見た「土方巽舞踏」への切り込みはとてもシャープだと思います。土方巽の舞踏の振付を形式化していくことに、彼女達はもっと警告もできるし、そういうものを逆手にとって作品を作っていくことも可能なスタンスにいますね。