Body Arts Laboratoryinterview

映画はどこにあるか

―で、その七里さんが、先日、SCOOLで、映像ではないことをやっていたじゃないですか。私は行けなかったのですが。

ライブ・パフォーマンス(朗読ライブ+映像インスタレーション『サロメの娘』~音から作る映画の美術的展開~)ですね。

―それって、今話していたことと何か関係あるんですか?

僕は映画をやっているつもりなんですよ。ライブでやっていても。

―その、映画をやっているつもりっていうことの中身をもう少し聞いてもいいですか?

映画ってどこにあるんだろうっていうことがあって。スクリーンの上に映っているものが映画なのか、例えばフィルムの頃は、フィルムそのものを指して「これが映画です」って言えるものなのか。どこに映画があるのかっていうのがまず、悩ましい、面白いものとしてありますよね。頭の中にあるのか、とかね。それを見て、それぞれの頭の中に現れるものが映画なのかとか。そう考えていると、別にスクリーンに映っていなくても映画は現れるんじゃないかと。

―現象ってことですか?

うん、映画ってなんだろうってことを知りたいので、例えばライブでやっていても、「これ映画だね」ってなれば、それは、あ、映画が捕まえられたかもしれない、みたいになるんです。

―例えばそれは、日常の中にもあるんですか?

あると思いますよ。あ、今映画だった、みたいな。

―でもそれって、そのままダンスにも置き換えられちゃいそうな気がするじゃないですか。すごくわかる気もするけど、ちょっとあやしいというか。

あやしいよね。オカルトというか。

―ダンスもちょっとそういうことがある気がして。オカルトというよりは、「ダンス的瞬間」というようなことが日々の中にある気がして。例えば、光の移り変わりとか、物がカタンと傾いたりとか、何か、「人が動く」ってことじゃ無くてもダンスを感じるような時があって、でもそれを「ダンス」と言ってしまうのはちょっとあやしいから気をつけないといけない気が最近していて。まだあまりうまく言葉にできないのですが。

なるほど。もっと端的にいうと「モンタージュ」が映画なんじゃないかと思っていて。映画だけにモンタージュがある、とまでは言わないけれど、モンタージュがある時に映画があるんじゃないかと思っていて。

―すみません……恥ずかしいのですが、モンタージュって、どういうのでしたっけ?

例えば、コーヒーの後に、福留さんが映ると、「あ、コーヒーを飲もうとしている女の人なのかな」とか、もっと違う意味を感じて、コーヒーに何か暗示されているように見えたり、関係ないものが接続されて、A+BがABにならずに、別のものになっていくもの、その繋がり、みたいな。

そういう、かつて起きた時間、切断された時間の順序を操作して、繋げていって映画が現れるんですけど、記録されて、現在から切断された時間を使わなくても、映画っていう時間が現れるんじゃないかと思ってやったんですね。SCOOLでのパフォーマンスも。でも、寄り切られた感じがしますね、パフォーマンスに。

―現在に乗っ取られちゃったんですね。

そう、「映画としての音楽」っていう、ボイスパフォーマーや、歌い手さんや、そこに飴屋(法水)さんもいたんだけれど、色々な人の声と映像で、ライブで「映画」をやろうとして。その時は、「映画」の中に、空間とか人を取り込めた気がしたんだけど、こないだはね、負けた気がした(笑)。

―ライブのパワーに。

やっぱり、劇を映画にするのは、なかなか、なっかなか大変だなーっていう。

―面白いですね、その話。「現在」っていうのが大きそうな気がするなー。でも、またやるんですよね?ライブ的なことっていうのは。

これも、誘われれば、ですね。成り行きで。

映画とライブ・パフォーマンス━公開ロケ「ワンダー・ロケーション」

―今聞いてて思いましたが、ウェン・ウェア・フェスでのプログラムは、その間みたいな感じもあるかもですね。

そうですね。会場に行って考えます。

―今回、フェスの開催中にロケをするそうですが、私も、他のキュレーターとか、空間の木内さんたちも、七里さんの案から勝手にイメージして、ロケもパフォーマンスってことかー。と思ったりしていたんですけど。

そうです。この間(SCOOLのパフォーマンス)も、そういうことでした。飴屋さんのパフォーマンス中にカメラを回して。

―その撮られたものは、何か形になるんですか?

それがここ(新作「あなたはわたしじゃない」)に入ってます。

―えーー!! 早くないですか?(SCOOL公演は2月9日〜11日、映画公開は3月3日)

そうなんです。ギリギリだったから死にそうでした。

―映画ってそういうものなんですか?!

違います。映画って普通は1年くらい前からできあがって、そこから劇場を探して、試写をしてっていう経過を踏むんです。昔、プログラムピクチャーだった頃は番組だったから、2週間前にクランクアップして、そこから編集してフィルム焼いて、前日にフィルムが到着して、みたいなことはあったらしいんだけど。僕は今回、恵まれていて、公開が先に決まっていたので、こういうことができたのですが。

―今までの話を伺うと、映画とは言え、割と舞台に近いところに七里さんはいると思うのですが。とは言え、映画と舞台では、きっとちょっと違うじゃないですか。物事の進め方とか、どういうシステムで成り立っているかとか。それで、映画の世界にいる人として、舞台の世界がどう見えているかって聞いてみたいな、と思っていて。

その辺は、僕は、境界を越境するようなことを割とこの10年くらい重ねてきたので、そんなに戸惑わなくはなってきてます。でもやっぱり文化の違いみたいなものはあると思うんですよ。同じ言葉を話していても、ダンスの人と、映画側とは同じ言葉でも、違う用法で使っているような。そういう文化の違いみたいなものを僕は知ることが楽しいというのはあります。「この人たちは、そこがポイントなんだ!」とか「そこは外しちゃいけないんだ」とか。逆に、こちらが当然だと思ってやっていることが、「これはダメなんだ……」とか。

そのことも、僕は結局、舞台の演出をしたいとかじゃなくて、映画しかできないと思っているから、それを持ち帰るというか。映画だけやっていると、映画の常識だけになってしまうんだけれど、他のジャンルをフィールドワークみたいにすることで、持ち帰るというか、自分のやり方とか捉え方とかを広げられる機会だと思っていて、それが楽しいです。

―わかる気がします。実際に驚いたこととかありますか?!

飴屋さんから言われたことで、「演劇と映画の違い」みたいなことを話していた時に、飴屋さんが「だって僕たちは今生きてるから。この人たちは死んでるでしょ?」ってスクリーンを指差された時に、ここに何か本質があるって思いました。絶対的な違いというか。僕らは、生きているはずなのに、死者の側から世界を見ているというか、死んだ世界から時間を手繰り寄せているというか。そういう倒錯的なところがあって。そういう倒錯的なところが映画なのかな、と思って。

―でも、撮っている瞬間は、現在ですよね。

そう、それが多分、今回フェスの「ワンダー・ロケーション」で試すことですね。

―そうですね。確かに(笑)。でもダンスでも、動いた一瞬前はもう過去じゃないですか。その瞬間の刻みみたいなものが細かくなって、未来に向かうみたいなことはあるかもしれないですね。でも演劇とダンスでいうと、演劇の方が、今の話でいう死者に近い気がしますね。ライブとしての演劇は生きてるけど、題材としての演劇は、ダンスよりも、「現在以外」との結びつきが強いなと思いますね。

どちらかというと映画に近い。

―うん。演劇と関わるとそのことをすごく考えます。

確かに。ちょっと注釈すると、飴屋さんは少し特殊な気がした。演劇人といっても、もっとパフォーマンス寄りというか。

―たしかに。飴屋さんには、死と言っていいのかわからないけど、ここにいない人を見ているような不思議な感覚を抱くことがあります。

そうですね。あの人の身体は特殊な身体だと宮沢章夫さんも言ってましたが。

ウェン・ウェア・フェスとのかかわり

―話はちょっと飛びますが、ウェン・ウェア・フェスについての、七里さんの雑感を聞きたいなと思って。七里さんと私は、足掛け3年、4年くらいな感じですよね(笑)。

ですよね(笑)。かなり長くて、もう開催すら無くなるんじゃないかとも途中でおもいますよね。

―そうなんですよね。話がなかなかまとまらなくて、「これやる意味あるのかな?」と思った時もありました(笑)。でも、私個人は途中の段階で覚悟を決めた感じがあって。主宰の山崎広太さんの人柄や進め方も含めて、特殊な側面があるとは思うのですが、その少し面倒な?やりとりも含めて、やる意味がある気がしたんです。それで、そのあたり七里さんの、「ぶっちゃけ」な話でもいいので、どう感じているのか聞きたいなと思って。

ウェン・ウェア・フェスそのものには興味があったんです。生西(康典)さんとかからご案内いただいて、観に行ったりもしていて。それで行くたびに「なんなんだろう!?このフェスは?」と、昔から思っていて。

―その「なんなんだろう?!」はどういう感じですか?(笑)

ちゃんとしてない、とかいうわけではなくて、皆さんちゃんとしてるんですが、「ちゃんとしてないことをちゃんとやってる」みたいな感じがして、その不思議な感じというか。やられるプログラムも、本当にハチャメチャというか、それぞれ素晴らしかったりするんだけど、でもこの統一感のなさとか。

それを内側に入って、知ることができる機会っていうのは、最初誘われた時に、「あ、やりましょうか」という理由の一つでした。それで、足掛け4年近く実際に関わってみて、やっぱり山崎広太さんて人は特殊というかすごいな、と感じますね。何があっても全くスタンスが変わらないというか。

―巡り巡って、広太さんのフェスになっているのが凄いなと思いますよね。広太さんありきじゃなさすぎて、広太さんありきになってるというか(笑)。特殊ですよね。

やはり、興味が湧きますね。山崎広太って人に。

それに関連して七里さんに聞きたかったのが、「アーティスト主導」っていうコンセプトが広太さんにあるじゃないですか。そのことについてはどう思いますか?

僕は「アーティスト主導」っていうか、「アーティスト」ってものには文化の違いを感じていて。

―そのあたりが気になってます。

映画って誰のものかっていうと、プロデューサーのものなんですよ。それが自主制作になると、プロデューサーと監督が一緒の場合があったりして、アーティストの仕事と近くなったりもするんですが、基本的には、監督って、工事現場の監督と同じなんですよ。

―あーなるほど。

僕が戦ってる戦場は「工事現場」です。基本的にはオーダーがあってやるんですよ。オーダーに対してどうするかっていう。それがアーティストの人たちは、自ら発する、そこが決定的な違いな気がします。映画監督の中にももちろん自ら発する人もいるから、一概には言えないですが、僕はあんまり自分がこれがやりたい!っていう風にはやらないんです。

―えー! でも七里さんの映画は、自分で発して作っているように見えます。

見えるでしょ。でも違うんです。いくつかのオーダーがあって、作ってます。オーダーっていうと語弊があるかもしれないけれど、こういう企画をやるとか、こういう企画になるとかそういうことで、消極的に聞こえるかもしれないけれど、それこそジャンケンで負けて作ってみたら、自分で知らなかった自分がいた、みたいなことです。自分はこんなに入れ込んじゃう人なんだ、とか。

―面白いですね。じゃあ、そこでオーダーっていうものがない状態で何かをするってことに、違和感があるというか、このフェスの最初の頃、七里さんが「オーダーが欲しい」というようなことを言っていたじゃないですか。

オーダーというか「枠組み」ですね。そう、基本的には僕はそういう姿勢なんだけれども「眠り姫」とか「音から作る映画」とかは、枠組みを作るところから踏み込んだので、外から見ると、アーティストっぽく見えたり、アーティストの人たちがやっていることと同じように見えるのかもしれないんですけど、自分自身には本来、オーダーを受けて何かをしている、でも今回は枠組みも作っているというくらいの違いで分けてます。

―あー、ちょっと幅は広がったけど、基本のスタンスは同じという感じですかね。今回のフェスもそんな感じってことですかね。

はい。

―じゃあ、アーティストが主体となって自分たちで何かやっていくことが大事だ、みたいな考え方については……。

傍観者ですね、僕は。かなり傍観者。そこに僕は入っていないような気がしています。だから、神村さんとか、山形くんとか、田中淳一郎くんとかアーティストを揃えて、その人たちに、何かやってもらうみたいな。ひどい無責任。

―あ、でもキュレーターってそういうことですよね。今回の企画には、七里さん自身も含まれてはいるけれど。

そうですね。

―最後にちょっと無理矢理感ありますけど、意気込みみたいなものをお願いします。

行って考えます。その場で考えます。映画監督をライブでやってみます。

―フェス全体に期待することとかってありますか?

今までなかったようなものになって欲しいなっていうのはありますね。

―ほんと、そうですね。今日は長い時間ありがとうございました!

[2018.3.29]

右:七里圭
左:福留麻里


七里圭Kei Shichiri
1967年生まれ。近年は、映画製作にライブ・パフォーマンスやワーク・イン・プログレスを積極 的に導入する「音から作る映画」シリーズ(2014-)、建築家と共作した短編『DUBHOUSE』(2012)など、実験的な作品作りに取り組んでいる。代表作は、人の姿をほとんど写さず声と気配で物語をつづる『眠り姫』(2007-2016)。しかし、そもそもは商業映画の現場で約10年間 助監督を務めたのちにデビューし、『のんきな姉さん』(2004)、『マリッジリング』(2007)などウェルメイドな劇映画を監督している。他監督へ提供した脚本作もある。PFF‘85に大島渚の 推薦で入賞した高校時代の8mm映画『時をかける症状』(1984)が最初の作品。