Body Arts Laboratoryinterview

公共空間の可能性

―今、木内さんの頭の中って感じでお話を聞いたんですけど、以前、割と具体的なお話を聞いたじゃないですか。東北で作ってる公民館とか。

今年と去年に、公民館やりましたね。

―その公民館の話と今話してくださった興味の話、その間に隔たりがあったりもするけど、そこを結びつけることがやりたい、とおっしゃっていたじゃないですか。曖昧さのある興味のことも、今やっている公民館のような実用的な仕事の中にどう入り込ませれるかっていうような話をしてくださいましたよね。

実際のプロジェクトとして、都市で仕事をすることにはどういうことがあり得るのかと考えた時に、いくつかのカテゴリーの作り方がある気はするんですけど、実践的な区分でいうと、そういう公共的なプロジェクトも、興味の対象の一つにはなってきています。公共なんで、みんなが利用するものなので、生まれる理由からして都市的なんですよね。なのでそういうものを積極的にやっていくというのも一つあると思うし、僕は、プロダクトデザインとかって流通するからすごく都市的だなと思うんですよね。すごいベタなことを言うとマンハッタンっていったら黄色いタクシーだよね、みたいな。それが印象になってる。普通の話ですけど。

―あーロンドン赤いバス、みたいな。

そうそう。でもそれって、全然都市デザイナーでも建築デザイナーでもなんでもない人が作ったものが、都市の風景の中で一番語られるものになってるというか。そういうところにコミットするとか、例えば窓枠一個作ってそれがヒットすれば、その窓枠が千個、街の中につくかもしれない。そういうのも都市的だなと。その手のものでいうと、屋台とか。ああいうものってプロダクト的でもあるし、プライベートと公共空間の間に位置しているものだったり。

―しかも移動できますもんね。

そうやっていくつか系統立てて考えると、都市の中でのサブリミナル効果を生み出すみたいなこともできるかなと思ったりもして。どれかの専門家になるとわかりやすいんですけどね。ただ興味のどれも捨てたくない、というか。そういう意味で、その幅広い枠の中の一つとして、公民館とか集会所も可能性を感じています。特に今回は復興で、街そのものをつくる一環として取り組めたことは非常に有意義だったと思います。

―街はどこでしたっけ?

岩手県の大槌町です。誤解を恐れずに言い切れば、土木の人は、水勾配とかを元に、街を設計するんですけど、それって水にはいい街にはなるけど人に対してはどうなんだろうっていうのがあって。そこに問題意識を持っていた人たちが、僕らをチームに組み込んだんですね。毎度、土木の人が線を引いたらそれを模型にして、住民の人に見せて、住民の人からワークショップで返ってきた反応を、土木の線に反映されるっていう地道な作業です。

2013年くらいから2年くらいやりました。そこから一つの指針として、「デザインノート」っていう名前の書類に成果を組み込み、それが今後の参照元になるようなデザインコードを作る作業に参加しました。そういう直接目に見えなくても仕組みに染み込んで、できあがったものは特別デザインされてるわけではなくても、残り香だけは残ってるみたいなデザインアプローチです。

―街はもうできたんですか?

街は、道が去年できてみたいな状態なので、実際のものを作っているところです。消えそうなものをなんとか繋ぎとめて、レイヤーを重ねていくと、それがゼロな状態に比べるとものすごい違いになるっていうのはあって。建物を建物だけで作るっていうよりは、もっと公共的な場に入り込んで、じわじわ作っていくっていうか。

―そういう大きな規模で、自分の考えていることを少しでも息を吹き込めるみたいな状況があるとしたら面白そうですよね。建築ならではというか。

すごくボトムアップな話だし。例えば、都市の中で、一気に32メートル道路を1キロ作ります、みたいな話はトップダウンなんですけど、でももっと草の根からじわじわ街を作るみたいなアプローチにどっちかというと興味あるかもしれないですね。僕、あんまり大開発とか、そういうのにあんまり興味が持てなくて。だから公共って言っても、僕にとっては、そうやってボトムアップに取り組めると面白いなというのがあります。

―そういうのってなかなか入り込めないですよね。だから「街」って言った時に、建築はものすごく具体的だなっていうか。

ただ、そこで作るってことで満足してもいいかもしれないけど、地続きでそこに住む人たちの暮らしは始まっていくわけで、そこにじわじわ噛んでいくってこともあるかもしれないですよね。何かフェーズが変わっていくだけで延長してだらだら考えることはできるかもしれない。そこ、ちゃんとだらだらやるっていうか、ものすごく些細な介入を細々続けてくっていうようなことも面白いかもしれません。

―少し話はずれるのですが、この間、広太さんのインタビューをした時に、結構街の話をしていて。最近、ニューヨークのビルでガラス張りのビルが増えている状況が、街に人がパブリックを要請されている感じがするというか、街が、どんどんそうなっている中で、自分たちの在り方も個人をパブリックに開く方向を求められているように感じると言っていて。例えば、街の中で、ダンス的な身体があったらちょっと変な人に見えたりする、舞台の上では普通なものが、街で行なった途端、不審者になってしまうというような状況に対して、もっと人々がオープンに寛容になっていけたら色々なことが変わっていくんじゃないか、っていうのが基本にあって。

面白いですね。

―何か、木内さんの話と、広太さんの話は、重なるところがあるような気がします。今回のキュレーターは、みんな割と、そういう興味が普段からある人が多い気がしますね。

僕も、こういう形式性が強い空間でやる時って、その空間の別の可能性が立ち現れて、そのことによって相対化された場所が都市であるように思えるとか、そこを経験したことで、都市に戻るって行為が、全く違うものになるみたいなことができたら面白いなと思います。

どう、物とか事とか状況が一つの位置に固着されないか、というか。AがAであることを実用的に運用しながら、でもAじゃないかもしれないっていう状況を作っていくかは、すごくテーマになることだなと。その潜在性とか可能性を促進、爆発させられるかみたいなことができると面白いなと思います。それは公共空間をやることと、連続してる作業になるはずだなと思ってて。

―それって、今回のウェン・ウェア・フェスと関係ある感じですか?

はい、それは山川(陸)君とも共有していることで、そういうことができるといいねという話から、出てきている案ではあります。

目的とそこからの離脱

―じゃあ、ウェン・ウェア・フェスの話に入っていきたいんですけど、観客が来るってことについて、公共って言っても限られた人が来る、みたいな。目的があってそこに来る、みたいな。「人が入って来る」ってことにおいて、劇場って(厳密にいうと、BUoYは劇場ではないですけれど)ちょっと特殊だなと思って。

これ、ヤン・ゲールって人も言ってる話なんですけど(彼は1960年代からの大御所のアーバンリサーチャーで)「なぜ公共空間に人がいるかっていうと、いたいからだ」と。何をしに来たかと聞けば、買い物しに来たとか美術館に来たとか、目的をみんな言うんだけど、そう言うってことと、実際にどこかにいる行為、どこかにいるってことになった瞬間のダイナミズムってすごく違ってて。人はあらゆる目的行動をしているかのように振舞って都市の中にいるけれども、瞬間瞬間の人は、美術館に来たわけではない可能性があるというか。だから常に、目的とそこからどう離脱してしまうかということとのせめぎ合いの中でいる。

―それ、今回のフェスのテーマと超関係あるじゃないですか! すごく大事なことですね。瞬間瞬間には目的から外れてるかもってすごい素敵ですね。

そうなんですよ。そういうことを突き詰めていくと、あらゆる空間や行為に可能性が潜在的にありますよね。それを取り扱う意味では、形式性が強い空間っていうのは、それが抑制されるから難しいんだけれど、そして抑制されてるから自由になってくださいと言ってみても、それが新たな抑制のシステムとして働いてしまうし。

なので今回(ウェン・ウェア・フェスで)試みている方法は、あえて別の抑制を持ち込むと、劇場的な抑制が相殺されて、そこから注意が散漫になってしまう人が現れるかもしれないことを狙っているという感じでしょうか。抑制の中に、別の謎の抑制を持ち込んで、抑制というものの相対性を浮き彫りにするというか……。

―なんかかっこいいですね。

つい本で読んだみたいな言葉を使ってしまうんですけど。これもこの間のレクチャーでも話したんですけど、僕が、すごく影響を受けた、ピエール・ユイグっていうアーティストがいます。建築家の西澤徹夫さんがデザインしていた、東京国立近代美術館の展示「映画をめぐる美術-マルセル・ブロータースから始める」での、ピエール・ユイグの作品がすごく面白くて。実際に起こった事件が、話題性が高すぎて映画化されるとかってあるじゃないですか。そこで、実際に銀行強盗をやった実刑犯が、それを再現するっていうドキュメンタリーを撮って、それと、その事件が映画化されたものをザッピングしながら、展示会場では見せるんですけど。実際の銀行強盗は、事実として起こったことと、彼の記憶の中にある自分が行ったことと、再現されることでそこからずれていってしまうことと、映画の中で演出されることのリンクとが混ざっていってしまう、つまり現実っていうのは、どこにも定位してないみたいなことが浮き彫りになるんですよね。

―銀行強盗した人も、その映画に影響されて、そうだったかもしれないって思っちゃったりするんですかね。

そう、自分の中にヒーロー性を見たりとか。そういう、謎のルールを持ち込んだことによって、浮き彫りになってしまう実の儚さっていうか。何がフェイクで何がリアルかなんてわからないというような。

―今回のも、自分の興味が、散漫になってしまうみたいなことが、いい意味で起こると面白そうですよね。