Body Arts Laboratoryinterview

2.

Noismとパブリックとの関係

―穣さんがアーティストとして考える、新潟でのカンパニーNoismとパブリックとの関係性についてうかがいたいと思います。どういう関係を築こうとしているのか、ウィリアム・フォーサイスやピナ・バウシュのことも例に含めてお聞きできたらうれしいです。

ピナやフォーサイスの街の受け入れられ方について言うなら、振付家の作品の方向性にもよると思います。たとえばキリアンだったらオランダ人に愛されているとか、その作品の前衛度とか、普遍性とか、いろいろな人が見ても美しいと思えるとか、すごくマニアックな人だけ感動するとか……。ただヨーロッパの場合、フランクフルト・バレエ団なら、市の行政レベルの上の方の文化を仕切っている人たちが、若かりし頃のフォーサイスに目を付けてトライさせている。ピナにしても、ヴッパタール舞踊団では、街の上の方の人と、これは世界的に評価されていることだし、やる意義があるだろうということは、コンセンサスが取れているはず――取れていなかったら絶対的にできない。
それと共通することだけれど、新潟の行政も新潟市民も、東京で賞をもらうことや、海外に出て行って評価されることがうれしいのです。国際的評価、東京など中央での評価が、まだ地方においても評価の基準になっていることがある。でなければここで自分がやっていないです。ここにオファーをいただいたときも、朝日で賞をいただき名前が出てきたときで、中央で評価されていましたが、新潟の人は誰ひとり知らないところに、いきなり呼ばれて来ているのです。
ただしそうして活動していくなかで、まったく市民の方の理解なしで進んでいけるかといったら、それは大きな間違いで、いま少なくとも900人の新潟市民が付いてきてくれて、300人のサポーターズが応援してくれています。去年の7月に、Noismの存続について揉めていたときに、サポーターズの皆さんが要望書を役所に出してくれました。ちょうどその頃、文化庁の賞を自分がいただき、いろいろなことが同時にニュースとして出たので、そこで行政の人が継続しましょうと判断しました。作品が素晴らしいかということには興味がないですよ。別に彼らが舞台芸術好きなわけではないですから。それだけの予算をさいて劇場を作ったけれど、では本当に劇場に通うような人たちが行政をやっているかといえば、そんなことはないわけです。だから自分たちがやっている表現で、もちろん好きな作品もあれば、嫌いな作品もあるでしょう。それは行政の人のみならず、市民の人についても言えると思います。
最初に、常に面白い作品ができるわけではないと言いましたが、最低限守られる質は、プロのダンサーの踊りなんです。作品は面白くないけどダンサーが良かったら、そのダンサーを観ているだけで、お金払っただけあると満足する。満足以上のものがある。それはフォーサイスのところだって同じで、すごいですよ。ひどい作品があったとしても、ダンサーのクオリティが必ずあるから、止めてくださいとはならない。そのための場所、時間、トレーニング、選ばれた人たちという環境が機能していないとできない。これは東京の環境では絶対生み出せないことであって、それゆえ、Noismはいいよねってことになります。

―確かに、いままでの日本での自分の活動のことを考えれば、いいダンサーしか使わなかったし、そういう部分もありましたね。

まずプロのダンサーを観るだけでも価値がある。ミュージカルのように、面白いとわかっている作品を観に行くんじゃない。だって新作なわけじゃない? 誰もわからないのに、まずお金でそれを買うわけですよ。振付家に興味があることもそうだけど、そのカンパニーだったら、信頼できるダンサーのクオリティがあり、劇場に足を運ぶ価値があるということです。

―新潟は、かれこれ5年ですか? 新潟の印象はどんな感じですか?

5年目に入りました。いやー天気は異常に悪いけど、それ以外は本当にいい所です。ご飯もおいしいし、人もすごく親切だし、何よりもこの恵まれた環境があることがそうだけど、川があって水の流れがあるので、精神的にもすごくいい。それから、街が大きすぎず小さすぎずってところが自分にはすごくいいです。要するに情報が溢れすぎていないから自分で情報を選べる、自分の方から主体性を持ってリサーチしに行ける。東京にいると、欲しくない情報まで入ってくる感じがします。それから、新潟は変化しているのです。東京も変化しているけど、それは自分とは関係なく変化している感じです。新潟で、たとえば今度、上古町でアーケードができるというと、自分のなかで大きな変化を感じるんです。自分がたった4年しか住んでいなかったけど、空地にビルが建ってしまったりすると、街が動いているのを感じることができます。

―4年という歳月が、そのように感じさせるのでしょうね。

そして4年前から、作品を観てくださっているお客さんも見方が変わってきている。今回の作品はこうだったねという感想が、その作品だけにはとどまらないというか。前の作品の意味が、今回の作品を観てちょっとわかったなどの感想をいただけることで、観客の皆さんと一緒にカンパニーが進んでいる感じがします。

―日本ではじめてのダンスの劇場専属カンパニーを持っているわけですが、他の都市においても、このようなタイプのカンパニーはあった方がいいですか?

絶対できるし、絶対あった方がいいです。はじめるときにわからないことがあれば、何でも情報を提供できるし、サポートしたいし、アドバイスは山ほどある。

―劇場専属カンパニーは地域の活性化に繋がりますか?

繋がりますね。それでいま、Noismとして目指していることは、東京からお客さんを呼ぶことです。そのために何をしたらいいのか考えています。前回の秋の公演から、東京公演は招待をなくしました。評論家の方々など、招待は新潟公演のみにしたんです。これは波風が立つんですよ。すごく嫌がられる。でも、最終的にやりたいことは、ここでいいんですよ。皆さんがここに来てくれることが重要です。そうすることで、新幹線に乗るし、ここで宿泊して、食べるでしょう。新潟の文化を観に行こうと、その流れで観光的役割にもなる。行政レベル、コンベンション協会の方々に言っていることですが、アメリカに行こうとブラジルに行こうと、City of Niigataのダンスカンパニーとして我々は行きますよね。結局、ヴッパタールのように、ピナがいなければ国際的に知られることのなかった町もあり、それだけ外交的な意味合いがある。

―評論家の方々に、交通費は払うのですか?

払わないですよ!

―かっこいいですね!

もちろん評価してくださる評論家の方に感謝しているし、彼らの力があるから、いろんな賞をいただくこともできるのですが。東京のカンパニーじゃないのに、東京で公演するときは自分たちの予算で公演しているんです。その公演で、彼らに招待を出してチケット代をタダにするには、赤字を背負うわけです。そのシステムはおかしい。新潟に来ていただくために、我々ができることがあるとすれば、りゅーとぴあの公演がJRとタイアップして新幹線のチケットを安くできるのか、ホテルとタイアップしてホテル代を安くできるのかなどを考えることです。はじめたばかりなので、どうなるかわからないですけどね。

―強気だな~。

多分、自分たちがこの環境のなかでやっていなければできないことなんですよ。誤解されたにしても、冷静に考えれば、当たり前のことをやろうよ!と。それで波風立ったときに、そういう評論家、振付家、ダンサーを取り巻いている日本の舞踊芸術の何が本質的におかしいのか?ということが、少しでも意識化されれば、我々が新潟でやっている価値がある。

―貴重ですね。

3.

見世物小屋シリーズ《Nameless Hands~人形の家》と自作自演

―日本人として海外に発信するインディビジュアリティについてはどうお考えでしょうか?

その辺はまったく意識してないです。逆に17歳で海外に行ってしまっているし、小さいときからはじめたのがクラシックバレエです。ということは、すでに西欧の輸入されたもので育ち、ヨーロッパに行って活動してきているわけです。帰ってきて6年経って、ぼちぼち自分のなかの日本人的な部分が出てきているような気はする。でもそれはわざわざ出しているのではなく、日本に帰ってきて、日本人だけのダンスカンパニーを抱えて4年が経つことからでしかない。ヨーロッパで学んだ基礎トレーニングも、日本人の身体に適すようにしていき、それを「Noismバレエ」と呼んでいます。日本人に適した方向性を考え、それに適した身体性を求めていったら、海外に行くと、そこが日本人ぽいと言われたり、あるいは、ヨーロピアンぽいと言われたり……。でも、まったく「日本人的なもの」は意識していないですね。

―僕は、自分のカンパニーにいろいろな国のダンサーを選んで仕事することが多いです。穣さんにとって、日本人ダンサーの良いところはどこですか?

日本人のいいところは、真面目なところでしょうね。あきらめずに努力するところだけど、それはもろ刃の剣で、その真面目さが日本人の弱さでもある。ヨーロッパで自分も10年やってきて、よく言われることだけど、自己主張の度合いが違うとか、勝負においても、一列に並んで行きますよといっているのに、気が付いたらスペイン人は先に行ってるわけでしょ。ズルイよって言ってたって、その時点で相手はゴールして負けている、という社会だったりする。日本人はルールに対して従順すぎて、生きる感性みたいなものが鈍い。先生がゴーと言ったら行くんだけど、自分の感覚としてこれは来るなとか、ここは止めておこうとか、そういう身体感覚みたいなものは、すごく弱い。ヨーロッパ人は、だいたいわかるんだよね、列になったらこいつら行くなって。でも、彼らはまず理屈から入るから、とりあえずやってみようということがなかなかできない。実力主義だから、自分のことをリスペクトしたときは、やってくれますけどね。こいついいなと思ったら言うこときいてくれるけど、なめられたら最後ですね。日本人は、なんだこいつと思っていても、真面目に最後までやってくれる。

―自分の作品を創るにあたって、お客さんのためにわかりやすくすることはないですか?

……まさにそれは、アートかエンターテイメントかという議論に繋がっていくわけですが、その議論自体が自分には意味がない。ここまで単純化すれば100人がわかるとか、ここまでは10人かなとか、観客はそんなに単純じゃない。アートかエンターテイメントかに関しては、お客さんが求めているものをやろうとしているかどうかだと思うんです。お客さんが泣きに来ているとき、泣けるものを見せるのがエンターテイメント。アートの場合、最初からどうなるかわからない新たな価値観――これって何だろうという、お客さんもこっちもわからない価値観でやっている。だからといって、お客さんにわからなくてもいいや、ということにはならないはずだと思うわけです。そこでお客さんを必要とする限り。

―穣さんの志向は限りなくアートに近いですか?

……ただ前作の「見世物小屋」公演と呼んだ《Nameless Hands~人形の家》は、わかりやすくしたというよりも、原色でいったという感じの作品です。それは意識的にやりました。

―それはコンセプトとして、ですか?

コンセプトとして、観せるためにやろうと。自分たちがこういうダンスをやりたいとか、ダンスの歴史のなかでこれが新しいとかではなく。ダンス、演劇、何でもいいけれど、見せ物、観せるために何かをやろうとしたのが《Nameless Hands》です。いまのヨーロッパ、アメリカの状況はわからないけれど、日本でこれをやる必然性は感じますね。いまの日本、皆踊って振り付ける自作自演が多いなかで、一体、お客さんのためにやっている人たちはどれくらいいるのだろう? それを考えたときに、見世物としてお客さんのために身を捧げることはどういうことなのかを突き詰めて、自分たちは作品にしたいと。

―最後に、穣さんにとってダンスとは? この質問、辛いですよね?

辛いですねー。んー……。

―ではダンスを続けることの意義は何ですか?

(初めて沈黙が訪れる)それがダンスである必要があるかどうかは別として、身体表現という意味では、本当に身体ひとつでやることじゃないですか。もちろん音楽や美術や衣裳があったりするのだけれど、最終的には身体ひとつでやること。人間がこの身体を持って生まれてきている以上、身体の可能性を模索することは、すごく当たり前すぎるほど、当たり前のことだと思います。たぶん身体表現をしなくなったら人間は人間でなくなると思う。ただもちろん、自己表現としての身体表現のかたちは、1億人いれば1億人の表現があります。でもダンスは自己表現ではないのです。振付家が決めたことや、振付家とともに創り上げた第三者的な動きを、あたかも自分の動きのように置き換えて、自分の身体を通して表現するわけでしょう。自分の人生はこうでした、ということを超えて何かを表現しようとするダンサーたちは、宗教的にいうとシャーマン・レベルで、すごく選ばれた人たちでなければいけないというのが根底にある。

―ありがとうございました。