Body Arts Laboratoryinterview

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2018年4月に北千住BUoYにて行われた「Whenever Wherever Festival 2018」でキュレーターを務めた演劇作家の村社祐太朗さんとダンサー・アーティストのAokidさんに、同じくキュレーターの福留麻里が、WWFes 2018の振り返りと、今後への展望も含めたインタビューを行いました。


福留麻里 最初に自己紹介として、それぞれ、普段の活動とその内容をお願いします。

Aokid こんにちは、Aokidです。東京生まれで活動しています。ダンスが活動の出発地点なんですけれど、今はイベントやパーティを企画したり、野外でゲリラパフォーマンスをしたり、劇場で作品を発表したり、日々ドローイングを描いて、それを展示したり、ジャンルを問わずにいろいろな場所で活動をしています。WWFesに参加するのは今回が初めてで、プログラムを企画したりしました。

福留 ありがとうございます。じゃあ村社さんお願いします。

村社祐太朗 村社です。2014年から新聞家っていう演劇のカンパニーをやっています。テキストを書いて、実際にそれを上演してくっていうのを活動の基本にしています。その度に役者さんを募るので、なんとなく、場所を作るっていうことに関心があります。それと役者さんと自分との関係をどうするかっていうことにも関心があります。
WWFesは、2014年か何かのWWFesで小さい作品を、山崎広太さんがみてくださるっていう企画があってそこに応募して山崎さんに作品を見てもらって、それを山崎さんが覚えていてくれて、今回誘っていただいて参加しました。

福留 ありがとうございます。じゃあそのままの流れで、今年(2018年)4月にWWFesをやったんですけれど、その時にそれぞれやっていたことと、普段の関心とのつながりというか、そこでなにをしようとしたか、みたいなことをお願いします。

村社 じゃあいいですか? 私は、新聞家の公演と、演劇のコンペティションの二つを企画したんですけれど、公演に関しては、普段やっていることと変わらなかったんですが、コンペティションに関しては、結構、新しい関心をここで推し進めたいというのがありました。
上演芸術と言われる作品って、およそ複数人が協働して作りますよね。そうするとどうしてもその座組の中で、なにが良いか、なにを優先すべきかっていう「落としどころ」が、例えば言葉にしなくても形成されていく。注意しているのは、その「落としどころ」がいつから「足を踏み外す場所」にすり替わってしまうのかというところです。大抵は足を踏み外しているなんてまさか思わずに、「落としどころ」に細々した要素を詰め込んでいって、上演を目指すわけです。この踏み外しは、いつ自分に跳ね返ってくるんだろう、というところが関心と言えるかもしれません。大抵跳ね返りは起こらずに、「なんか良いな」が蔓延したまま、上演は終幕を迎える。これは抑圧が働いているとさえいえる。このことに対して恐れに近い感覚があります。これは別の話ですが、このことって上演芸術のちょっと問題というか、更新すべき何かなんじゃないかという思いがあります。
なので今回はコンペティションや意見交換会っていう構造を使ってその「落としどころ」なり「踏み外し」なり「跳ね返り」が可視化するシーンを作ってみたいと思ったんです。壁もなく開かれた場所で、複数の団体がちょっとした作品を見せて、それを見た観客との間で意見を投げ合う。小さな、あるいは一見弱そうな上演のあとって、結構皆さん話すんですよ。だから作った人たちにとっては背筋が凍るような言葉が観客から出てくることも多々ありますし、一方で背筋を凍らせながらも、面と向かってそんなことを言われるとちょっとイラっとしたりもします。作った側も、いやいやそうじゃなくて、と普段使っていない言葉で自らの実践を説明したりする。またコンペティションなので批評家や研究者の人も多くいらしてくださっていて話し合いはかなり活発でした。演劇研究者の内野儀さんには、インスペクター(点検役)という変わった役割でもって参加してもらっていましたし。汗をかきながら「なにを良しとしていたのか」と自問自答が繰り返されるわけですが、それが外との対話によって起こっているのがスリリングでした。そういう出来事が2~3時間の間にぎゅっと詰め込めたっていうのは面白かったな、と思っています。

福留 その「なにを良しとするか」から「足を踏み外す」っていうのは、例えば、さっき言っていた、「抑圧」とかそういうことを「足を踏み外す」って言ってるんですか?あれ?その逆??

Aokid あ、そのなんとなく良しとされていく過程で、何と無く「これいいよ」っていうものによってできていく作品っていうのがたくさんあって、でもその「いいよ」っていう感じを、「足を踏み外す」ことによって、違う作品になりうる可能性があるっていう。

福留 あ!いい意味で、展開するための「足を踏み外す」か!

村社 あ!いやいや。

Aokid  え!そういうことじゃないの?

村社 あ、わたし、いい方が良くなかったですよね。「良し」っていう場所が、「足を踏み外す」場所でもあります。イコールです。

福留 あー!ここで暗黙のうちに共有されちゃってること自体がってことか。

村社 そうです。永遠に「良し」なんです。当事者にとっては。でもそれはいつからかきっと「踏み外し」になっているっていうことに気づけない。「良し」である限りは。だからイコールですね。

福留 あー。疑いがないってこと?

村社 そうですね。だから気づきのチャンスがあればいいなと思ったんです。コンペで言えば、全然関わりのない人からのプレゼンテーションだったりとか、他の人の作品について考えるとか、そういうのもチャンスだと思います。

福留 そのことに出会うことで……

村社 その「良し」が、剥がれてあらわになる。

福留 そういう場を作れないかっていうことだったってことか。

村社 そうですね。結構「良し」って密室で念じられていくものじゃないですか。

福留 それが、他の人の視線もあることで、いろいろな作用が働いて、あらわになりやすくなるんじゃないかってことか。

Aokid  なんか、コンペっていう枠組み自体が、作品を見にいくっていうより、何か審査するっていうこととか、誰がなにを選ぶんだろうとか、自分はなにを良いと思うんだろうっていうこと自体が、枠組みの中であればもう少し、いわゆる作品の上演とは違う場になるっていうか。

村社 確かに。その間合いは重要な気がします。

福留 だんだんその時の空気を思い出してきました。結構半年以上前だから、話しながら思い出す感じがあると思うんですけど。

Aokid 前も言ったかもしれないけど、(飛田)ニケくん?が勝敗が決まらなかったことに不満を持ってるって、僕言ったっけ??

福留 あれ?私言ったかも。

村社 Aokidさんもそれ知ってるんですか? 篠田(千明)さんから直接言われました。「ダメだよそれ!」って。それで私なりに、ダメじゃないですっていうのを説明しました。

福留 その辺の、コンペの結果というか、優勝者を出さなかったんですよね?

村社 本当に個人的な感覚としては、あのコンペって例えば渋革まろんさんとかは、面白かったって言ってくれるんですけど、私はもうずっとつまらなかったんです。

福留 え!

Aokid  あ、コンペを見れなかった、演劇を見てしまったからつまらなかったってこと??それぞれの。

村社 いや、なんですかね。「よし」をいざプレゼンテーションしたら「よし」でしかなかったっていうか。

福留 それはその人たちにとって「よし」ってことが、村社さんとかにとっては……

村社 人に伝わる言葉になってなかった。っていうのがあります。すごく感覚的で失礼かもしれないですけれど、人に伝わるものとして用意されていない言葉って、介入のしようがないというか。それがすごくストレスでした。

Aokid  それは、もしかしたらコンペの小ささも理由としてあるかもしれない?例えば、どこかの劇場とかだったら、ちゃんと用意してきそうじゃない?なんかちょっとワイルドなコンペだったじゃないですか。会場もノイズも多いし。

村社 あー。でもそれはちょっと違って、今重要なのは、実際の上演とプレゼンテーションが分かれているっていう前提が大切なんです。いわゆる作品の中での「よし」が本当に「よし」だったかそうじゃないかは、わからないというか、鑑賞者の1人なので、好みもあるじゃないですか。
でもパフォーマンスで体現している「よし」と、その人自身が言葉にした時って、ズレがある可能性があるじゃないですか。私はその後者のほうです。いわゆるプレゼンテーションが人に伝わる言葉になっていないっていう。
そこまでいう必要はないかもしれないけれど。

Aokid それはたぶん、ワイルドな状況だったっていうのもあるんじゃないかなっていう気もちょっとして。

福留 あー固めてこなかった?

Aokid そうそう、割と感覚的な小手先で作ったものが並んでしまったみたいな……。例えば「これは演劇ではない」のプレパフォーマンスみたいなので、僕と額田(大志)くんがパフォーマンスした時も、とりあえず作ってきたもので、言葉は尽くされてない、小手先で作っちゃったみたいなもので、だから何か聞かれた時にたじろいでしまってけれど、感覚的には、自分たちの色はあるみたいな。

福留 それって、内容そのものよりも、その場を設けることに意味があるんだみたいな感じのこと?

Aokid  そうですね。仮設素材みたいな感じもあるかもしれない。でも、そういう演劇の「よし」ってするものって、大きい劇場であればあるほど、あるような気がするけどどうだろう。照明が入ってとか。

村社 でもここでいう「良し」はもっと個人的なもので。

福留 そのサークルというか集団の中で、「よし」として共有される価値観みたいなものかな。

村社 そうですね。でも、さっきの「つまらなかった」っていうのは語弊がありますね。実際に言葉を尽くした人もたくさんいました。説明しきれないけどするっていうことを逃げずに、ちゃんと引き受けていた人もいました。

福留 でもじゃあ、そういう状況がありつつ、WWFesでやった演劇コンペ自体は、村社さんにとってどういう位置付けなんですか?今となっては。自分が設けた場として。

村社 今のAokidさんの発言とも重なるとは思うんですけど、集まるためのきっかけになるっていうのは、へんな言い方ですけど「当然」というか。何かを誰かが作って、人が会しているなら、それを使ってコミュニケーションが取れるのは大前提。で、それに満足していると進めないっていう感じですかね。例えば。
だから、準備がすごく大切で、ただ集まるだけで前に進むなら、楽なんですよ。だから、ごめんなさい。語弊があったんですけど、三組皆さんとも、少なくとも準備はしてきているわけです。その準備が言葉になっているんですよね、質問に対しての答えでもいいし。だからそういう意味では、良い会です。誰かが1人持ってきた、例えば新聞家の公演とかよりは、もっと多層的なわけですよね。いろいろな人が持ち寄ってきたものについて、同じメンバーで話す。そういう意味ではいいイベントだったと思います。

Aokid でも作品が突き抜けて欲しかったみたいなのはあるんじゃない?村社くんのキュレーションにおいて。

村社 うーん……。そうですね。でも面白いかもしれないですこれ。つまり、集まって、何か準備してきたものについて話すってことにおいての恍惚感が先行しすぎてしまったかもしれない、っていう感じです。それが、つまらないってことです。今話していることが何なのかっていうか。例えば感情もあるわけです。怒りとか。「お前何でそんなこと言うんだ」みたいな。そうすると、「確かにそこは問題ですね」って言って、そこから新たな何かの話が出てくるっていうんじゃなくて、「いや」「いや」っていうどん詰まりというか。実際に、内野(儀)さんも含めて、そういう場所だと思って集まってるわけですよね。コンペの参加者は、どちらかというと作品を見てもらえる場所と思っていると思うんですけど、客席に来た人とか、内野さん含めて私とかは、集まって話す場所だっていう認識が強い。普通の上演に観客として見に来たというよりは。なので、そういう恍惚感に陥りやすいんだと思います。話していればいいんだ、というか。議論そのものが起きてればいいというか。

Aokid それを突き破ったのは、やっぱり山崎広太さん……。

福留 ちょうどその時、もう一つの会場で別の企画もやってたんだよね。

Aokid そう。東と西のダンサーが集まって何か1時間半行うっていう山崎広太さんの企画で。

福留 それでその隣では、七里圭さんの撮影で女子大生がずらっと並んでるっていうそういうカオスな場で、その途中で、山崎広太さんが上演の場に怒鳴り込むみたいなことが起こって、一瞬だけ、会場全体が、今目の前のことを忘れて凍るみたいなことが起こって。

Aokid それは、今話してる演劇のコンペでも起きたかもしれないですよね。

村社 あーなるほど。あの時、ちょっときれてたというか、「音がなってるな」っていうのを後回しにしちゃうくらい、あそこはあそことして、完結してたんですよね。そこは少し面白くて、山崎広太さんのあの騒動っていうのは、コンペに参加してた人たちはあんまり見えてない。特に死角だった人は。激しい音がするなーくらいで。その時議論をしていたので、あんまりその音で、注意が散漫になるってことはなくて、コンペの人はコンペっていうか。後からその話を聞くと、そっちにも行きたかった。っていう人がいるくらいで。

福留 なるほど。本当にいろいろなことが起きていた場だったと思うんですけど、一旦村社さんの企画についてはこのくらいにして、Aokidくんお願いします。

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