Body Arts Laboratoryinterview

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Hugh Burckhardt

旅、ニューヨーク編 1

―ヨシコさんは通常ダンスを学ぶためにニューヨークに来たわけではないと思います。いくつかあると思うのですが、その理由と時代背景などをお聞かせいただけますか?

ニューヨークに行った事は……もしかしたら、アートでも、社会的なことでもなく、何のことでもなかったかもわからない。でも、肯定的に何かをしたいとか、目的があって来てはいないです。否定的に来ているとすれば、こういうことかもしれない。マジョリティーとマイノリティーがあって、マイノリティーの中のマジョティーが、新しい、違う判断をしていくときに、どうして彼らがそっちの方向に行ったのかという、不安でもないけど、疑問を感じるじゃないですか。わたしが、まだ固執しているものがあるとするなら、それの中の足し引きが、1970年以後にあったと思うのね。
例えば、それから72年くらいに沖縄が戻って来たとか、三里塚が作動する。そうしたら、その始めのとっかかりで何かをやり始める。それが運動で、動いているから運動なのよね。destination、ゴールを目指して、でもそのゴールは絶対ないわけよ。で、66、67、68、69、70、71年に、皆がというか、少数派の一人一人が、マイノリティーの中のマジョリティーの数字が、そこから逃げちゃうとか、まったく方向転換をしていくということが起こったと思うね。今までだったら、ミニ・コミュニケーションをと言っていたのが、ミニ・コミではそれ以上メッセージを送れない。だから、わたしの知っている人でも、有限会社にするとか、株を皆が持って一人が二つの株を持ったら、100人いれば有限会社にする。あと、例えば鈴木忠志、彼の考えは、じゃあ皆そのお金をプールして会員制にしてというような話が出てきた頃だと思うのよね。でも、それを会員制というシステムの中に取り込むわけじゃない。Kotaも、何かニューヨークにボソッて来て、いままで何かしこしこやってて、セネガル行ったとか何とかというあなたがいて。いまは、やるものに相対として組織を付けて来るわけじゃない。組織を作るということは、お金を集めるとかね? そのお金の集め方も、あそこの銀行にいっぱいお金があるから、じゃ銀行強盗でっていうんじゃなくて、結局システムの中に入る。だからコンサバティブになっていくのよ。

―ヨシコさんがニューヨークに来た理由は、そういうシステムに対して反発することですか?

そんな大げさではないと思う。異なる文化に出会う時に、まずその違いに目を留めるでしょ。でも最終的には、大して違わない事に気づくわけ。その隙間がわたしをアーティストにしたとも思っている。「知っている事」と「知っていると思っていた事」の違いにも気づくことになり、「考える事」と必然的に直面することになって。それを実行した時、世界がこれまでと違うものとして映り始める。そんな経験がいつもあって、そんな感じでニューヨークに来たと思う。旅っていうのは一つの映画を見る事に似ていて。わたしは映画がとても好き。暗闇の中で光が交差する長方形の映像は平面なのに、いつも立方体の不思議な世界。一つの旅。その面白さにわたしはいつも唖然としていて。日本にいた時から。映画を見ているか?それとも映画のセットの中?他者によって見られる事になる自主制作映画を創っているか?わたしはこの3つの選択の中をいったりきたりして時を過ごして来て。旅の映画がつくる隙間、ギャップが生む面白さ。そこには、感情が出たり入ったりしている。
旅、ニューヨーク編。わたしは映画でないニューヨークに1976年に来ました。はっきりした目的はなかった。とにかく日本から出てみようと旅立ったわけ。何か模索でもないんだけど、そういう背景があったから……。行きたいっていうんじゃなくて……10くらいのエレメントがくっついた。何かと言われたら、わたしが知っている人が、例えばラママのエレンと関係があったり、ソーホーという工場のようなところにアーティストがいっぱいたむろしているってことを戸井十月がわたしに言った事とか。聞くだけだから、全然イメージとしてはない。そういうことは、絶えずあるわけじゃん。例えば、鎌倉にルートカルチャー[*1]があって、そこに(勝見)淳平っていうのがいて、酵母のパンを作っている。それが何回もリピートされて聞かされたら、ある意味での偶像を作る。行って、そして食べてというのとはまるで違う。やっぱり、まったく想像でものを語っているわけ。だから私がニューヨークに行ったときは、飛行機に乗ったこともなかったし、外国とも何も関係のないところにいた。今考えたら想像でものを語ったのと実際はまったく関係のないことが起こっていた。それを動かす凄さと、想像でものを動かす怖さ。その振り子があって、ボソッと来た。
羽田を発つ時にエアーサイアムの飛行機の窓から見た日本の空は、スモッグで黄色く濁っていて。初めて見るマンハッタンの街並は白黒の世界でした。色がなかった。まるで映画の様な風景、人、瓦礫、地下鉄、建物。英語の声と騒音が付いたその1コマ、1コマに感激し、映画の主人公のようになじんでいった。24時間、カメラが回っているような日常を送ることになった。 高度成長で躍起となっている日本と芸術家が集うソーホー。全てが機械化され、自動化されていく日本と、手作業で物事がゆっくり進むニューヨーク。ニューヨークにくる前、アメリカで盛んになっていた前衛舞台活動、ロバート・ウイルソンの実験演劇や、ソーホーのロフトで起きているポストモダンダンスのムーブメントの話を聞いていた。自分の目で見たいと思っていた。まさか自らが手がけるようになるとは思いもよらなかった。振付家と呼ばれるようになるとは本当に思ってもみなかった。今でもその言葉がしっくりこない。自分では今は作曲家かなと思っている。少し前は、数学者などとも思っていたし……。ダンサーを楽器だとすると、その動きを音符に見立て、順列組み合わせで作品を作る。目で見る、見る音楽。ただ踊るだけでなく、指揮者でもあるダンサー。それなら演出をしながら役者にもなれるわけである。
大きなギャップを体験することは、刺激的であって。そして、その隙間の中で、わたしは自分の実験演劇を創りだした。「用意された偶然」でアーティスト活動が始まって。1980年にスクール・オブ・ハードノックスを結成しました。このカンパニーの名前は、「試行錯誤しながら苦労して学ぶ」ことを意味するアメリカ英語です。学歴重視への反発の言い回しの表現。現場でたたき上げた、と言える「現場学校」。100人のパフォーマーがその日のニューヨークポスト新聞を持って、黒いコートを着てザクザグと歩く作品が出来上がった。1983年の事です。#1-#20のスコアにそって展開していく。最後は新聞で100の紙飛行機を折り紙のように作り、100人が飛ばそうとするところで暗転。24時間連続パフォーマンスはPS122(Performance Space 122)で上演された。「ヒットマンハッタン」というタイトルのもとで、いたるところのストリート、街角で許可なき公演を繰り返し、警察登場というところで終わり、となったこともある。
チェルノブイリの原発事故が世界を震わせた86年は、わたしはヨーロッパにいた。公演の依頼が続々と入り、多忙を極めた年。パリのオペラ座からの委託は、12人のダンサーに振り付け。この作品はオペラ座の前、エッフェル塔とパリの市街で公開された。放射能を含む気流がミュンヘン上空からロンドンに達しスカンジナビア半島に抜ける時、わたしはちょうどロンドンにいた。人気が無く、通りも劇場もがらんとして、雨が降り続けている暗い印象を映像で覚えている。90年以後は、ソ連崩壊後の東欧、旧ユーゴの国々との作品が多い。真っ暗な道に裸電球が点いていただけのエストニアの路地が10年後には旅行者があふれる観光地となり、廃墟から闇市が生まれる。その光景はアメリカナイズされていった過去の日本の変化を見ているようだった。
何本もの映画を見たのだと思う。そして何本もの映画を創ってきたのだと思う。それぞれの映画は、隙間でつくられている。隙間を作る旅です。

  1. ルートカルチャー ROOT CULTUREBack2006年に発足した、鎌倉を拠点にするアーティストたちが中心になって活動するクリエイティブチーム。それぞれが音楽家、フードクリエイター、映像ディレクター、俳優、ダンサー、アートプロデューサー、編集者等々、様々なジャンルの活動を展開。同年からNPO法人としても活動し、鎌倉市内の寺社仏閣や歴史的建造物を活用したライブ、展覧会、シンポジウム、ワークショップなどの開催や、自分たちの畑での野菜づくりを行なうほか、フリーペーパーやウェブサイトで鎌倉からメッセージを発信している。
    ヨシコ・チュウマ氏とは、2008年《A Page Out Of Order――切通し7×7×7》(鎌倉)、2009年《Inter-Local Session: A Page Out of Order》(ルーマニア、NY)、2010年《Hold the Clock: 根の国のギャングたち》(横浜、鎌倉、NY)公演でコラボレーション。http://rootculture.jp
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