Body Arts Laboratoryinterview

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James Carman

舞踏におけるビジョン

―アーティストとして土方さんと方向性の違いは何ですか?

これを自分で言うのはなかなか難しいですね。むしろ広太さんは、どうなんですか?

―僕は70年代後半から舞踏を始めて、笠井さんの影響下で、土方さんと違うことをすることが自分の使命だとしてやっていました。それが舞踏の世界にとっても良いのではないかと。つまり土方さんを逸脱すること。僕は、それ故スタイルとは関係なしに、時間の経過とともに、まな板の鯉のように身体を晒していく方向でした。また、基本的にフィジカルに動く方向だった。それとバレエを継続していて、ヨーロッパからコンテンポラリーダンスが入ってきたりして、土方さんも亡くなったし、土方さんに対しての目標がなくなってしまった。その頃から、舞踏はもう少し年を取ったら挑戦しようと、朧げながらに思っていました。それが今、丁度その時期が来ており、そうすると土方さんの存在に対して、真似するわけではないのですが、土方さんが僕にとって何なのかってことを考える。
当時、土方さん自身、暗黒舞踏そのものを伝説化しようとする意識を持っていたのではないかと思っていました。言葉は残っているけども、曖昧化しているところもあったのではないかと。もちろん東北歌舞伎計画を成功させたかったとは思うのですが……。それで僕のなかで、あるしっかりした舞踏のスタイルがあるのではないかと思っていて、それはアフリカの経験などから、踏む、中腰、屈むなどがあって、農耕と結びつく、それはつまり日本の伝統に対してのアヴァギャルドではないかと。

土方さんに対して、広太さんの方向性はそんなに違わないですね。

―どうなんですかね? ただ、東北が持っている気違いじみた風土性はないですね。女性が下駄を履いてガタガタするような乗りはないですね(笑)。

僕はアーティストとして、広太さんの方向性は同じだと思う。つまり作品主義なんです。即興ではなく。やはり、土方さんは前衛として出発して、現代美術作家や前衛作家といろんなかたちでコラボレーションして、最初は三島由紀夫や、瀧口修造、澁澤龍彦など、文化的なネームバリューのある人を、ある種隠れ蓑にして、自分を世に売り出した。そういう意味では戦略家。そのなかで徐々に1970年代からは戦略を変えた。東北を冠して、日本の文化のなかで振り落とされてしまったいろんな文化、そういう幽霊を寄せ集めて違うスタイルの歌舞伎を作ろうとした、これは発見です。市川雅さんも仰っていましたけれども、日本人はモダニズムに対してポストモダンではなくてプレモダンにいく。つまりアメリカはモダニズムの前がない、日本の場合は何か行き詰まったときには、自分たちの前近代に戻ることができる。
僕自身がすることは、皆様が避けていた舞踏をアカデミズムにするという方向です。それによって攻撃される対象になる、それを受けて立とうと(笑)。一時代前、舞踏の人達は芸術家だなんて口はばったくて言えないって雰囲気があった。もちろん教育とアートは相反するものだし、舞踏なんてその最たるもので、常に反発して何かタブーをやって問題を持ち出すのが舞踏だった。舞踏も50年経ってやはり完全に洗練化の方向です。あるスタイルが非常に明確になった。

―あるスタイルとは?

残念ながら「東洋の神秘」。それは結果的に山海塾や白虎社もそうでしたし、カルロッタさんや鴻さんがヨーロッパで作ってきた作品は極めてモダンでしょう。そして、ヨーロッパはモダンにならざるを得ないんです、そしてそれでいいと思うし私もそうです。だから土方さんは怒っているかもしれない。そうやって洗練されてくるなかで、さらに洗練とは違う方向を出すためには、まずいったん仕分けをしてね。これはどういうふうな芸術的な文脈のなかに存在して、アカデミズムとしてはこういう位置にあるんですよってことを明確にしていきたい。
そこで初めて壊しにくる若者が出てくる。パフォーマンスアートの草分け「浜田剛爾」さんから学んだ事「明確」を餌にする詐欺師即ち芸術家即ちフランスの伝統。長谷川六さんが大昔、桂さんあなたのはモダンダンスよって一言(笑)。そして20年、ついこの間、長谷川六さんが東京の有明アートカレッジに見にいらして、いや~いつまでも続けているなんて偉いわね、今日革靴履いていたでしょ、あれうるさかったわね~って(笑)。
土方巽も亡くなる前の晩期、東北歌舞伎計画にしても、非常にファッション性の高いコスチュームがいっぱいで、ある種きれい。最後の作品を観たときに、ファッションショーかなと思いました。もちろん理由はあるんでしょうね、「洗練」は日本人の癖ですから。

―桂勘の舞踏におけるビジョンは?

一時期はポスト舞踏みたいなことを考えようと思ったことはありましたが、むしろ逆に土方巽が作った非常に精神性の高い、あの研ぎすまされた作品に対抗するためには、どんな仕掛けがいるのか……。僕のスタンスが土方さんと違うのは、僕は土方さんの年齢を超え、さらに大野一雄さんの年齢に挑戦しようと思っている(笑)。そうすると、あと40年は絶対に踊り続けたい。大野一雄さんは101歳くらいからあまり踊れなくなりました。車椅子ではソロではない。90年代に大野慶人さんを京都に二度程お呼びしたときに仰っていたのは、「私の父はモダンダンスです」と。「土方巽とは全然違う。父はずっと父を踊ってきましたから」。まあ、一時期、土方巽に振り付けられて悩んだ時期もあったそうですが、基本的には何を踊っても大野一雄。しかも顎が上がってね、手がこういうふうに揺れてね、肩が上がってね、いわゆる夢見の感じで踊っているのを見たら、何をしたいかまあわかる。メッセージが明確です。そういう意味では、僕の考えるところの不可解なものが舞台に上がるのとは違う。しかし、彼の持っている前衛時代からずっと引きずってきた、土方巽に「劇薬ダンス」と言わせた、そのオリジナルの、何かわからない、いわゆる舞踏体のようなものがあることは確か。つまり、大野一雄は舞踏体なんですね。だから、何をしても舞踏かもしれない。
これからの舞踏におけるビジョンは、山崎広太をライバルにし(笑)、笠井叡さんを突き落とし(笑)、先輩諸氏を裏切りながらアカデミズムにも手を染める。僕としては権威になる必要はないですが101歳になってもガールフレンドのいる現役のダンサーとして舞台に立つつもりです。(大笑)

―ありがとうございました。

[2011.2]

構成=山崎広太、印牧雅子


桂勘かつら・かん
1948(昭和23)年2月12日京都三条讃州寺町生まれ。音楽活動の後、1979年舞踏結社「白虎社」の旗揚げに参画、主宰者大須賀勇・蛭田早苗の指導を受け「第一次東南アジア舞踏キャラバン/1980」を経て1981年退会。1986年マルチナショナル・ダンスカンパニー「桂勘&サルタンバンク」結成、1989年国際舞台芸術の協同制作と研究を目的に「オフィース・パラディックス K. /(主宰琴浦香代子)」を開設、以後インドネシア、タイを中心にアジアの現代舞台芸術の研究、共同制作に従事、国際交流基金アセアン文化センター委託事業等「京都 – アジア」を結ぶ舞踊・演劇の研究・共同制作を2001年まで手掛ける。
2001年以後はバルカン半島、東欧を中心に文化とマイノリティーについて研究、夏にボスニア、セルビア・ギリシャでの舞台制作を2009年まで継ける。現在は南北アメリカ大陸を連結する「ブリッジプロジェクト」、中国 – ロシアをまたぐ「ユーラシアコミュニケーション」などでのダンス会議を画策している。
http://katsurakan.com/


インタビュー後記

桂さんとはじめてお会いしたのは1997年のシンガポール。タイやインドネシアで生活していることは知っていて、当時、僕の辿っていることとは逆のことをしているのではないかと、勝手に想像していました。そして、僕がニューヨークに来て、『ニューヨークタイムズ』の取材で彼の話がでて、アメリカでの活躍も知らずのうちに耳に入ってきました。そしてNYで舞踏のカンパニーを持って活動しているVangelineという女性を通して会うことができました。

今回のインタビューでは、アジア、バルカン半島から始まり、そこでの経験談を聞くことができ、そして、彼の活動を余り知らないながらも、お互い70年代後半から、ずっと同時代に舞踏を通して生きていることを実感しました。今後、彼がもっと一石を投じてポジティブに活動できることを望んでいます。
僕個人のことを端的に言えば、ムーブメントを作ることを使命としてやってきた世代であり時代でした。そしてNYに来て、いろいろなものに接し悩み、最近になって、やっと自分のムーブメントの理念と舞踏とが少しずつ融合されつつある現状です。
一方、舞踏、またはダンスにおいて、もっとも大切なことは、個人の身体の歴史が現出すること。それに、ずっと長い時間をかけて、各々の身体を追求し地道ながらに活動している舞踏、またはダンスの方々が多いと察します。先日観たピナ・バウシュの映画も、彼女が踊ることによって、振りを与えられて踊るダンサーとの違いが明確に見えました。多分、芦川羊子さんが踊ったら、さぞかし土方さんの亡霊が現出すると想像します。

地道に活動している方々が、ソロの歴史としての舞踏、ダンスを作品化することへ、どのようなプロセスを経ることがいいのだろうか? 新たなる未来に向けて、強固な作品のための環境づくりがありうると思います。ある程度の理想的なシステムを描いたとして、それが実現できない故の、東京ならではの何か別な思索もあるようにも思います。また、ずっと現状のままでいいのでしょうか?などと考えます。
とりあえず、桂勘と僕は己の道を信じながら突き進んでいきたいと思っています。このように気軽に交流が持てて楽しいインタビューでした。

このインタビューは、震災前で、震災後だったら、内容も変わっていたと想像します。[山崎広太]

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