Body Arts Laboratoryinterview

3.

フランスでの活動

―フランスには何年に行かれたのですか?

77 年の末。チャップリンが死んだ年。洋行って感じなんだよ。旅に行くのは、まだ結構大袈裟だったんだね。はじめて外国に行くので、みんな心配してくれて、あのときは成田ではなく羽田に送りに来てくれた。それで同行したのが、カルロッタ池田さんと、吉岡(ミゼール花岡)君。

―そういういきさつを知らなかった。

パリで3か月の滞在の予定で、シャンゼリゼのキャバレーで稼ぎながら、自分たちの公演も打てるかもしれないと。背火とアリアドーネでのキャバレーの仕事で可笑しかったのは、われわれを招いてくれたオーナーはOKなんだけど、オーディションでもっと短くしてくださいと言われて、契約にたどりつかないんだよ。他のダンサーたちが、あの日本のアングラの人たちとやるの嫌だと言って(笑)。そしたら、オーナーに、有名なクレイジーホースの演出家のベルナルダンに見せた方がいいよ!とすすめられて、わざわざ行って見せたら、ベルナルダンが面白いと言ってくれた。そして客がいる前で、土曜、日曜と2回踊ったんですよ。結構受けたと思うんだけど、最終的に契約にならなくて、降ろされちゃうんだよ(笑)。クリスマスに仕事がなくなってパリの街に放り出された。そしたらチャップリンが死んだって号外が出た。オーナーが、すみませんと言って、飛行機代とアパート代は面倒を見てくれて、自分たちで公演を打とうじゃないかと、正月の 3日、4日にオーディションで見せるということで、パリのど真ん中にあるヌーボー・カレ・シルヴィア・モンフォールという新しい劇場で、小劇場のプログラムが空いている夜の時間に押し込んでくれたんだよ。3週間の稽古期間をもらって創った。日本でやった出し物も引用したパリ製ですよ。私は木乃伊を踊ったし、カルロッタさんは《牝火山》のシーンを再現したりして、組み合わせたの。まあ衝撃的な公演でしたよ。木乃伊がワーッと出るから。棺桶の火も再現したし。『ルモンド』が書き、『リベラシオン』に1ページ、バーッと載って、どんどん客が増えていって、2月になったら、6か月ロングランしてくれと言われた。だけどわれわれは東京での公演のために帰らないといけないから断ったんですよね。世話してくれたマティヤス女史に、そんなチャンスもったいないよねと怒られたよ。そして今度は、ジャン・ラクロワら、日仏交流の連中が山海塾をお世話したんじゃないかな? 大野一雄先生のヨーロッパ公演も同じ頃です。

―山海塾はもうすでに《金柑少年》をやっていましたよね?

日本で活動していると、キャバレー、公演、キャバレー、公演となって、糞づまるんだよ。

―フランスだと純粋にアート活動ができると。

われわれが、福井、東北と、東京の中心を外そうという意図は確かにあったよ。センターを外していくことは、世界的動向だったね。ヨーロッパの演劇祭なら、パリからずらしていこうよと、そういうムードは、ヒッピームーブメント含めアート全体にあったんだね。いわゆるポストモダニズムと言うけど、ちょっと前は、ピーター・ブルックとか、文化人類学が混ざっているんだよ。混成だよ。一つの演劇のかたちではなく、異言語で、お互いを出会わせる。シェイクスピアをアフリカの男優にやらせてみたり、混成させるわけだね。一つのカテゴリーではダサい、もっと雑種=ハイブリッド。そういうものがモードとなっていた。

―構造主義的な背景もあるんですか?

私の木乃伊もそうだと思うけどね。日本語の桶を掘っていくと、インド哲学なのか、お経が出てくるのか知りませんけど、その奥には、日本語を突破しちゃったものがあるんじゃないか。それが体と結びついて、伽藍体=フラスコみたいになっているんじゃないか。山伏も即身成仏も、空海がどこからかもってきたものだろ。つまり、空海なのかインド東洋の何に何語が混成しているのかわかわないようなもの、はぐれた身体になっている。土方さんの東北歌舞伎の場合、そのルーツを探っていくと、東北のはぐれた農民の体が出てくることになっているけど、じゃあ、そこが根拠? そこが絶対的な根拠ではないよな。そうすると根拠なんかないじゃない。私は福井に行って、拠点を置いてシッカリやろうというタイプじゃなから、一漂流点としての、福井の穴掘っていたら、スペイン出ましたっていう話をでっちあげたかったわけ。福井の村の人たちは、いったいこの山奥まで来て、何をするんですかと思っていたみたいだけど。うちの嫁をもらってくれないかと(笑)。

――ヨーロッパでは、カルロッタさんとどれくらいの割合で活動されていたのですか?

カルロッタさんは成功したんですよ。室伏のほうがコレオグラファーだった。アリアドーネの《ツァラトゥストラ》がヒットして、山海塾もテアトル・ドゥ・ラ・ヴィルに入るところで、相乗して、パリは舞踏ブームに火をつけた感じになった。私は演出家だったけど、メゾン・デ・キュルチュール・モンドなどでソロの活動もやっていた。舞踏も前衛じゃないですか。エクスペリメンタルなものでフェスティバルをやらないか、とエスパース・キロンという小劇場に呼ばれて〈BUTO‘85〉なんてやりました。
《ツァラトゥストラ》はフランスだけでなく、ドイツ、イタリア、ロンドン、北欧とヨーロッパ全域、イスラエルまで回った。そしたら池田さんのソロを創ってほしいと。

―それに協力して。

80年に東京の草月で初演した《うッ》――うなぎの「う」なんだけど――という作品を原型にベルギーで創った。いい作品でね。それもヒットした。それから、 85年にモンペリエ・ダンス・フェスティバルで、アリアドーネの新作をやることになりました。振付・演出の立場で、ガラスを主題に《HIME》を発表しました。

Ko MUROBUSHI Company

―その頃土方さんが亡くなりました。ソロ活動で、何をしていたんですか?

放浪していたんだよ(笑)。

―生活はソロ活動で成り立っていたんですか?

貧乏していましたよ。結婚しちゃったしね。カミさんも引き連れて、フランスをとんずらしてイタリアに行ったんですよ。土方さんがちょうど亡くなった年が、ユネスコの40周年記念の年で、Ko MUROBUSHIのカンパニーを作りたい人たちが集まっていた。その中のイタリア人のピエール・パウロがユネスコのミスコヴィッチ氏と知り合いで、ユネスコの企画をもってきて、《Pantha Rhei》を上演した。ヨーロッパじゅうから50人のダンサーを集めて階段状のステージを作って、みんな白塗りして、ウイリアム・ブレイクかアンドレ・マッソンかってこうウネウネやって(笑)。カンパニーは8人くらいいて、イタリアにいてものんびりしちゃうから、今度はドイツに行って、そこでまた人を集めてやるんだけど、ちょうどいい具合にヒット作がでないんだよ(笑)。

―ミゼール花岡さんは、もうドイツにいましたか?

もうベルリンにいたよ。

―ヒット作がでない理由は何ですか?

私の集中力が足らなかったんじゃないですか?(笑)

―ベルリンの壁が崩壊したときのドイツから、どこに行ったんですか?

ウィーンだよ。

―インパルス・タンツ・フェスティバルですか?

それもそうだし、セラピオン・シアター(いまはODEON)との付き合いのほうが先ですね。でも住んだと言っても、ほとんど移動しているわけだからね。フランスとの縁もつづいていて、またパリに住もうと。その頃は、カミさん――草薙うららさんというんだけど――とのデュエット中心で立て続けに結構やっていました。カルロッタともデュオをやりました。また南米やメキシコなど行くうちに、時間が過ぎていったんだね。

4.

第三の人生

―日本に帰ってきたのはいつですか?

はっきりしないんだけど、ブラジルで膝を怪我して、手術よりも自然治癒がいいというので、カミさんも疲れていたし、ツアーも切って帰国しました。全治8か月くらいだったかな。それで中断した時期があって、タクシーの運ちゃんをやったんだ(笑)。96、7年くらいじゃない? そうしたら、土方さんの13回忌に掛けて「土方巽’98」という催しがあって、森下さんが私のところに声を掛けてきた。で、土方さんはバタイユ、アルトーとも関わりが深いのではないかと、フランス哲学の宇野邦一さんと西谷修さんをシンポジウムに呼んで、私がそこでパフォーマンスする企画をやった。その最後に、全体的に舞踏について話すシンポジウムがあって、舞踏について話している人ばかりで集まってもつまらないから、鴻英良と桜井圭介を呼びました。鴻さんは私の公演を見ていたし、桜井さんは『西麻布ダンス教室』を出したばかりだった。そのとき、桜井さんに「室伏さん踊ってくださいよ」と呼ばれたのです。同時に世田谷パブリックシアターにも呼ばれたんです。

―それから第三の人生が?

きっかけは森下さんと桜井さんが作ったんですよ。

―それを境にして舞踏の方向性は変わってきたのですか?

それはあるよね。シアタートラムの「独舞シリーズ」で、確か笠井叡さんの次にやることになって、本格的にはじめた。それはメキシコの連中との作品とソロでの作品。

―《Edge》ですか?

その前に《Edge》をディ・プラッツでやった。

―その公演をたくさんの批評家が観て、注目されたんですね。話は戻りますが、室伏さん、『ダブル・ノーテーションNo.2』という雑誌にカッコいいこと書いてますよね。

それは宇野邦一との対談だよ。中原編集の土方特集です。マネージャーのいない時期に、音楽記号学の細川周平に手伝ってもらっていたことがあったよ。彼がボローニャのウンベルト・エーコのもとに留学していたとき、会いに来た。周平がパリに遊びに来たときに、上に空き部屋があって、泊まり込ませていろいろ奢ってあげたよ(笑)。そのときに、ボードリヤールやフランソワ・リオタール、ガタリやJ.M.パルミエを呼んで来たんだよ。私についてのボードリヤールのテキストが残っているのは、周平のせいだよね。

ベルナルド・モンテ、ボリス・シャルマッツとのプロジェクト

98年から、ずっと今まできているけど、貧乏だけは変わらない。

―1年の3分の2くらい、日本にいないのではないですか? セゾンの国際プログラムなどで。

今年、来年がセゾンの国際プロジェクト。

―その公演はいつなのですか?

本公演は来年ね。日本の公演をどこでやるかは決まっていない。ベルナルド・モンテ、ボリス・シャルマッツ、室伏鴻の名前だけじゃ買ってくれないというわけ。作品を見てみなければ、と。作品主義ではないんだ。プロセスが作品=ムーブメントだという立場で、ベルナルドによばれてマラケッシュへ行ったり、ボリスによばれてウィーンで即興的なデュオをやってきたり、この5月には別府と慶應・日吉に彼らをよびます。

―フランスでの公演は決まっているでしょう。

まだだよ。でもこの4月にもボリスによばれてレンヌに行きます。

―それでよくセゾンの申請ができましたね。僕は来年のスケジュールは決まっているけど、再来年は決まっていなくて、無理だと。何がどうなっているかわかりませんね。

三人でグチグチやるけども、どうなるかわからない、プロセスをプロセスのままに切り出すこと。だから、最初のアイデアでも、一つの作品を三人合同で創ることが目的ではない。結果、そうなるとしても、あらたな混成の断面が獲れればよいと。

―ボリス・シャルマッツは演出家ですか?

ダンサーだよ。振付もする。自分のカンパニーはエトナといって、フランス人だけど、ベルリンにずっといたりね。三人のなかでは一番若くて、まだ35、6歳。ベルナルドは私よりも10歳くらい下かな。俺が一番年寄りだ。ベルナルドがいわゆるフランスのヌーヴェル・ダンス。ベルナルドの世代は振付家がいっぱいいて、フランスの地方の国立の学校とかでディレクターになっている。ジョセフ・ナジ、ダニエル・ラリューもそうでしょ。その後の世代で頭角がでてきたのが、ボリスと、CNDCのエマニュエル。
この間、ボリスが土方さんの『病める舞姫』をタイトルに公演をやった。東大のパトリック・ドゥ・ヴォスが、土方のテキストをフランス語に訳しているんですよ。女優のジャンヌ・バリバールとボリスが車を運転しているだけの作品で、それが凄く上手く創ってある。『犬の静脈……』のテキストもボリスが読むんだけど、大きな犬が彼に飛び掛って転げまわる。昨年9月アンジェのCNDCで私が教えているときが、ちょうどその初演だった。

―そういうケースはよくありますよね。僕のアフリカのプロジェクトの公演と、女性の黒人だけのカンパニーが、同じ頃一緒になり、それでコラボレーションがはじまりました。

パリのテアトル・ドゥ・ラ・ヴィルでもやったんですよ。國吉和子さんが観に行って、びっくりして朝日に書いた。作品的に迫力があり、舞踏をなぞることは一切していない。ボリスもダンスはしてなくて、運転して、土方のテキストを喋っているだけなんだよ。

―演劇っぽいんですか?

演劇ではないね。

―ダンス?

ダンスではないね。そういうふうに解釈したところがヒットだと思うけどね。ヨーロッパ人が舞踏をやると、こうなるという一種定型があるでしょ。これが一切ない。

―ヨーロッパ人の場合、曖昧な身体性ではなく、考え方がはっきりしている。

アクションだよね。

―行為そのもの。