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場所の横断

印牧:田坂さんが最近行かれたという東南アジアでのリサーチの体験をお聞かせください。

田坂:まず、キュレーションという言葉に関していうと、その言葉自体きわめて西洋的なもので、欧米のアートマーケットを中心として考えられているものであると感じます。日本では近年流通している言葉ではないでしょうか。東南アジアの一部の国は日本と状況が少し違っていて、キュレーターという肩書きの人はあまりいません。ベトナムとタイとフィリピンに行ったのですが、センサーシップが強い国です。だからアーティスト自身が発表することが日本とは違った意味を持っている。組織が基本的にあまり機能していないということもあって、数少ないキュレーターのほとんどが同時にアーティストでアクティビストだったりする。そういう状況が面白かったです。
例えば日本で東南アジアの作家が紹介される場合、多くの人たちは、すでに国際的に活躍している場合が多いけれど、実際現地へ行ってみると全然違った温度差を持っている人がたくさんいる。そういう状況を理解した方が作品の理解が面白くなると思いました。日本の展覧会の中でそういう状況を伝えたり、つくるのはどうやったらできるのかなと。あるコンテクストとは関係なく、作品だけを選び、紹介するのではない、別のあり方を考えたいということをアジアに行って思いました。田村さんのようにアーティスト側、作品のコンテクストや関係性から作品をつくる人もたくさん出て来ています。

印牧:キュレーションに伴う、ある場所からある場所に作品を移動するという行為には、その提案を受ける場に対する政治性をどう考えるかという問題がついてまわります。その場は、具体的な場所であることも、ジャンルである場合もあるでしょう。たとえば、ある特定の文化においてキュレーションを提示する際、どのようにその文化にアプローチするかという問題があるのではないでしょうか?

武藤:場所をまたぐことと、ジャンルをまたぐこと、二つの横断があるわけですが、その二つでは重要性の度合いが全然違うという気がしています。例えば、ある作品があり、それが成立している場の文脈があるわけで、作品というのが真空の中に存在することはありえない。西洋中心主義とよばれている考え方は、その作品が真空中に存在しうると考えることなのではなかったのかなと思っています。だから僕が関心があるのは場所についてであって、ジャンルの横断に関してはまたぐまでもなく……という感じがあります。
以前、インドネシアン・ダンス・フェスティバルで手塚さん、鈴木ユキオさん、神村恵さんの三人のアーティストをキュレーションしたことがあります。そしたら偶然その後、その三人が同じ組み合わせで日本で紹介されることがありました。当然、僕はそれは出演者が同一であっても違うキュレーションであろうと考えます。僕の中ではアーティストの紹介とその紹介する場所は込み込みになっている。日常的に日本のダンスを見ていたり、パフォーミングアートに触れている人に対して見せる切り口と、国際フェスティバルでいろいろな国の出演者がいる中で見せる切り口とは違うわけです。後者の場合なら、「日本」性が提示されたということになるかもしれない。あるいは前者の場合なら、ミニマル系の表現の傾向というものを見て取るかもしれない。読み方、受け取り方は全然違ってきて、それを同じキュレーションとはとても呼べないと思う。
キュレーションすることは、配列することによって個々の要素、パーツがそれぞれ持っているのとは違う意味を作りだす行為だと思います。もちろん意味を作るというのは、表現する側だけで終わっていることではなく、受け手の側に何が伝わるかということまで込みで考えるべきです。キュレーターがアーティストを配列することによってできる意味は強いので、それに対する反動が出てくるのは分かります。例えば、インドネシアでキュレーションした時は、伝統舞踊からどうやって離れていこうかという反動的な発想が強くあった。とかく非西洋世界では「伝統舞踊から離れていくこと」イコール「西洋の勉強をすること」になりがちで、西洋化するかエスニックになるか、その二者択一みたいな考え方がドミナントとしてできてしまうので、それに対して、そのどちらにもよらないスタンスを提示したかったわけです。なおかつ、手塚さん神村さんと並べてしまうとジャドソン・チャーチ的[*1]な意味に取られてしまうので、鈴木さんを入れた。三人を並べることで伝統的なものにも西洋的なものにもよっていないスタンス、その発想自体を提案したかった。ある意味、舞踏の国の発想かなとは思いますが。

印牧:伝統的なものでもなく、西洋的なものでもない、いわばどこにも回収されない場所=フロンティアとして第三項をたちあげるというその発想は、きわめてモダニズム的に思えました。それは舞踏に含まれるプログラムでもあったのかもしれませんが。

キュレーター/アーティストの関係――キュレーションの創造性

手塚:以前、STスポットという横浜の劇場の企画「ラボ20」の中で、アーティストがキュレーターをやる企画に関わったことがありました。それぞれのアーティストの視点でよしとするものが選ばれるという意味ではデザインみたいなものだと思ったんですが、私が見てきた範囲では、選ばれた人とアーティストの関係が濃厚になって、ほとんど教育的な関係のようになっていました。たとえば、選ばれた人が今後どういう風に創作活動をしていくかにアーティストが関与するという印象の方が強かった。だから、見る人にとってここでこの人たちが選ばれることがどういうことなのかという点はあまり考えられていませんでした。反省も含めて。
だから、キュレーターといってもいろんなレベルのことがあって、どのくらいのレベルのことをキュレーションと言ってるのかという疑問があります。お客さんが求めるものに対して応えようとすることと、この場所でこういうタイプのものを見せるということとの違いはあると思うのですが。

田坂:狭義で言えば、ファンドレイジングはキュレーションの前提条件であると思います。つまり、ただ人を選ぶということだけではなく、予算を見越してその企画を実現させるために雑務も含めて全部責任をもってやるということではないかと思います。特に日本では若い人が美術館に行くことが欧米のように定着していないので、美術に対する理解が深まる機会として、アーティストを紹介することをどのように提案するかは社会的な責務を担っているのではないかと思います。
ただ逆に広い意味で言えば、何か企画をするとか、この人の作品を紹介するという出来事が起こった時点で、それはキュレーションであるとも言えるのではないでしょうか。私としてはその時に、アーティストとキュレーターとの関係がただ選びましたというような固定したものではなく、共犯関係として働いてその場に何か実現できればいいなと思っています。 

中馬:キュレーターの影響力について考えさせられることがあります。例えばの話、現代美術では、MoMAのキュレーターは凄い力を持っていると思います。じゃあ、そのキュレーションから漏れた人たちはどのように他のアーティスト、観客と関わっていけば良いのか? アーティストにとって、発表する機会が無かったらつくったものはどこにも行きません。キュレーターがどのように考えてアーティストを選ぶか、批評家がどのような解説をするかに関して、アーティストは何も力が無いし、ゴミ箱のように扱われます。
ただ、そんなに大げさなものではなく選ぶと考える。私もキュレートするし、広太君もキュレートするというように考えて、キュレーターを小さな力と考える。そうして個人的な関係のリンクで勉強会みたいなものをする。そうすると、それ自体どのようなものとしてやっていくかというのは新しい思想になると思います。それをキュレーティングと言うのはすごく魅力的。しかし、「選ぶ」ということは誰かが何かをジャッジするわけです。「選ぶ」という過程、選ぶものと選ばれるものに分かれる、そのセンシティブな過程の創作性というのは、将来可能性が開けてくることなのではないかと思っています。

  1. ジャドソン・ダンス・シアター Judson Dance TheaterBackニューヨークのワシントン・スクエアに面したジャドソン・メモリアル・チャーチでは、1962年から64年にかけて作曲家ロバート・ダンのダンス・コンポジションクラスの受講生を中心に実験的なダンスの運動が展開された。イヴォンヌ・レイナー、シモーヌ・フォーティ、トリシャ・ブラウン、スティーブ・パクストンなどポストモダン・ダンスの重要なダンサーが関わる。