日常の時代に生きる記号を喰う:食マンガ批評試論|1
Text|久保明教
目次
1|それ自体を表す象徴——『すごい飯』
2|すりあわせとすれちがい——『美味しんぼ』&『孤独のグルメ』
3|変わらない日常を求めて——『あたりのキッチン』
4|何をいかに共有するか——『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』
5|レシピとイメージ——『きのう何食べた?』&『かしましめし』
6|魔物を食べる——『ダンジョン飯』
それ自体を表す象徴
*注意:以下の文章には取りあげる作品の内容に関する記述(ネタバレ)が含まれます。
九井諒子の短編マンガ『すごい飯』から話をはじめたい。冒頭、ある若い男が職場の同僚と思われる人物に興奮気味で話しかける。「こないだすごい飯おごって貰ったんだ」、「一食で俺の一週間分の食費が飛ぶようなコース料理!」。同僚は、一週間分といってもお前いつもたいしたもの食ってないじゃないかと言いたげな呆れ顔で「コンビニ弁当七日分か」と返すが、男は異に介さず、楽しそうに語りはじめる[*1]。
「いやーすごかった」
「世の中には色んな食べ物があるんだなあ」
「まず 石の上に乗ったゴムみたいな物にくるまれた何かに草が突き刺してあって」
(同僚)「何かってなんだよ」
「わからん…ドロッとしてるんだけど滅茶苦茶うまい」
「外側の皮もはじめ噛んだらグニッとしてて」
「うわ!ゴムだ!食べられない!って思うんだけど」
「続けて噛むとふわっと溶けるんだよ」
「隣にはキャンプファイアみたいに積まれた草があって」
「ダンゴムシっぽい黒い粒がまぶしてあるんだけど」
「あれもうまかった」「ぷちっと噛んだらいい匂いがして」
(同僚)「お前もっといい形容の仕方ないのか」
「他にもなんかたくさん…」
「メラミンスポンジみたいのとか」
「犬用缶詰野菜味みたいなのとか」
「わけわからんものばかりで」
「あ でもスープはコーンポタージュみたいなやつだったな 粉末の」
「滅茶苦茶うまかった」
同僚は「うまそうに聞こえねーよ」と突っ込みをいれ、「これだから食生活の貧しい人間は…」と呆れるが、男があまりに楽しそうに語るので、その店を教えてもらい同じコース料理を頼む。だが、彼にとってそこで供されたのは普通のフランス料理であり、「メラミンスポンジみたいの」はムース、「犬用缶詰野菜味」はテリーヌで、味は可もなく不可もなく、「★5つ中の★3.5ってところ」だった。彼は楽しげに「すごい飯」を語る男の顔を思いだしながら、「世界中のどこにも、あいつが食べた飯を出してくれる店は存在しないのだろうな」とつぶやく。
この作品ほど突飛ではなくても、自分が「おいしい!」と思った食べ物について誰かに比喩を交えて語ってもなかなか伝わらないという経験や、昔は(若い男のように)感動するほど美味しかった料理を久しぶりに食べたら(同僚のように)さほど特別に感じず落胆するといった経験はありふれたものだろう。食は、一面において、私的で個別的である。
本作に登場するコース料理は、普段からコンビニ弁当ばかり食べている男にとっては「すごい飯」だが、同僚にとっては普通のフランス料理にすぎない。ただし、男がフランス料理店に通うようになり、その味に慣れていけば、「メラミンスポンジみたいなの」を「ムース」と呼び、「犬用缶詰野菜味」を「テリーヌ」と呼ぶようになるかもしれない。その料理はもはや「すごい飯」ではなく「★3.5」と言った客観的な基準によって評価できるものになる。食は、一面において、公的で一般的である。
私たちは、時おり、自分の私的で個別的なイメージを他人に伝えようとして、慣習的に用いられていない比喩に訴えることがある。例えば、筆者はある種の表情や言動や物語に対して「高野豆腐の含め煮のような」感覚を覚えることがある。しいて言えば温和で一方的な善意に浸されることに関わる表現だが、その意味を明示することはむずかしい。若い男が語る「すごい飯」も比喩に溢れているが、それらが何を表しているのかはよくわからない。コース料理を食べた同僚は、「石の上に乗ったゴムみたいな物にくるまれた何か」が何であるかを知ったのかもしれないが、彼が食したのは「あいつが食べた飯」ではない。この比喩は、それとは別の何か(ムースやテリーヌ)を指しているわけではなく、男が食べた「石の上に乗ったゴムみたいな物にくるまれた何か」それ自体を表している。
人類学者ロイ・ワグナーは、こうした非慣習的で個別的なイメージを「それ自体を表す象徴」(symbols that stand for themselves)として概念化した[*2]。慣習的に用いられる象徴は、それとは別の何かの代わりになる(stand for)ものであり、象徴するものと象徴されるものが分離されていることを前提にしている。例えば、「雨が降っている」という文(象徴するもの)は、雨が降っていること(象徴されるもの)とは別のものでありながら、その代わりになることで、雨が降っていることを指し示す。こうした一般的な記号に対して、個別的なイメージにおいては象徴するものと象徴されるものが明確に分離されていない。だからこそ、若い男の「すごい飯」は、その比喩的なイメージと切り離して料理を味わえてしまう同僚にとっては「世界中のどこにも」存在しないのである。
ワグナーは個別的なイメージと一般的な記号の相互作用(弁証法)において文化の動態を捉える分析枠組み[*3]を作りあげることによって、一般的な記号の構造や解釈において文化を捉えた構造人類学や解釈人類学を乗り越えようと試みた。ここでもまた、食をテーマにする様々なマンガ作品を通じて、食べるということの個別的かつ一般的な有様について考えてみたい。マンガ表現は、類型的な(例えば汗が困惑を表すような)記号から構成されると同時に描線の躍動において作品内の存在を生き生きと描きだす。食べものは基本的に他の生き物の死体を加工したものであり、私たちの個別的な生を支えるものであると同時に(コンビニ弁当が貧しい食生活を表すように)一般的な記号でもある。マンガが食を対象にするとき、そこには「生きる記号」を喰う私たち自身の姿が鮮明に浮かびあがる。