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山崎広太《ダサカッコワルイ・ダンス》レビュー


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Kuroda Natsuki

 年の瀬も押し迫ったある日、私の元に唐突な依頼メールが「やってきた」。以前書いた郡司ぺギオ幸夫『やってくる』(医学書院、2020)の書論を読んでいただいたことがきっかけで、数日後に開催される同書に触発された公演《ダサカッコワルイ・ダンス》について書いて欲しいという。普段はアメリカの文学や映画を専門としており、ダンスは年に1、2回観る程度の自分が適任者ではないのは明らかだ。さすがにお断りしよう。まずはそう思ったのだが、すぐに思い直した。『やってくる』に登場するあるエピソードを思い出したのだ。同書第6章では、偶然店主の引退宣言を聞いたラーメン屋の常連サラリーマンが、突如「俺、明日からこのラーメン屋やります」と告げ、実際にラーメン屋を存続させるという架空の話が紹介される。外部から「やってくる」ものを受け入れて「やってみる」こと、つまり、「未だわからない」ことそれ自体を「わかる」こととして「やってみる」(p.234-235)、試行錯誤へと向かうこの常連客の態度こそ、同書で繰り返し主張される、人工知能とは異なる「天然知能」の現れに他ならない。そうであるならば、修行経験のない客が突如ラーメンを作り始めるようにして、素人である私がダンスについて書いてみることも、案外同書の趣旨に沿っているのかもしれない。そこで以下では、「やってみる」と「わかる」を、分離するのでも融合するのでもなく接続するこの態度に倣って、12月23日当日の公演について「考えてみたい」。

 スパイラルホールの壁に沿うように設置された座席の内側に、特に段差を設けられることもなく、会場を構成する他の展示作品とも並存する形でいくつかの舞台装置が並べられ、そのステージと思しき空間に8人のダンサーたちが座っている。そもそも出演する予定はなかったという意味では公演にとって「やってきた」存在とも言えるのかもしれない、キュレーター山崎広太の声かけをきっかけに、それぞれ椅子から立ち上がったダンサーたちがウォームアップを始め、やがて鳴り響く音楽に合わせて山崎がステージ上の袋をぶちまけることで本公演が開始される。袋から出てきたのは、ピコピコハンマーやヘルメット、レジャーシートといった、ダンスというよりはコントや一発ギャグに使われそうな小道具類だ。ダンサーたちは、それらに加えて、ステージ上の脚立や三角コーン、さらには他のダンサーや彼らが放つさまざまな言葉といった、周囲のモノや人から「やってくる」印象をそれぞれに引き受けて、即興的にそれぞれの踊りを展開させていく。
 たとえば音楽について言えば、ジャズの即興演奏が実際には一定の形式に拘束されたものであり、完全に無秩序で出鱈目な演奏とは明白に質の異なるものであることは広く知られているだろう。同様に、ダンスにおける即興もまたさまざまな踊りの型と決して無縁ではないはずだ。本公演序盤でのそれぞれの踊りもまた、バレエ、コンテンポラリーダンス、舞踏など、各ジャンルに全く通暁していない私にも、各ダンサーの出自がそれとなく伝わるような性質のものであった。だが、それらは同時に、いずれも即興としては「カッコイイ」ダンスの範疇に収まるもののようにも見えた。
 推測するに、山崎がステージ上に導入したガジェット類はいずれも、それぞれのダンサーが無意識的に表出してしまう各ジャンルのルールや文脈に即した「カッコよさ」を、なんとかして「ダサカッコワルイ」方向へと開いていこうとするために導入されたのではないか。なかでももっともわかりやすい例は、『やってくる』にも登場した椅子だろう。同書に登場した、「椅子ってなに?」という問いに対し、「見てわかる」から逸脱する理解を導くケースのように、各ダンサーはそれぞれ「座る」以外の方法で椅子と向き合い、こう言ってよければ椅子とダンスを踊っていく。おそらくは、そうした椅子やそのほかの小道具の使い方は、公演開始前からある程度はデザインされたものだったのだろう。それらの基本問題をある種のエクササイズのようにこなすことは、その後それぞれの踊り手が「やってくる」ものにより鋭敏に反応するためのスプリングボードのような役割を担っていたように見えた。
 実際、特に印象に残ったいくつかの場面は、いずれもある程度時間が経過した後に、用意された小道具類とは独立に生起したものであった。特に目を惹いたものの一つは、非常口や床といったホールの空間そのものに触発されたダンスだ。普段踊る際にはまず間違いなく注意の中心からは外れているであろう、自分が踏んでいる床の質感やドアのくぼみへと焦点を当てることで、確実にカッコイイものからは逸れていく動きは、しかし同時にスリリングでもあった。そして、あらゆる特定の型のイメージを振りほどく、もっともダサカッコワルイ・ダンスとして、本公演で私の記憶にひときわ深く刻み込まれたのが、後半にたまたま私のほぼ目の前で鶴家一仁とのやりとりから生まれていったAokidの動きであった。

 誰かが脱いだ靴下かタオルだったろうか、床に落ちていた塊を掴んだ鶴家が、正面にいたAokidに向かってそれを投げる。飛んできた塊をキャッチした彼は、ほぼ同時に「タッチ、キャッチ」と発声し、その流れで不意に「ドッジ弾平」と口にする。そんなふざけた韻の踏み方があるのかという驚きと、固有名詞のあまりの懐かしさに、思わずマスクの下でほくそ笑んでしまったその刹那、小学生以来ついぞ思い出すことがなかったドッジ弾平にまつわるさまざまな記憶が突如として猛然と蘇ってきた。そういえば、公演が進むにつれて少しずつ服を脱ぎ捨て、その時点ではタンクトップ姿となっていたAokidの髪は、赤みがかったピンクに染められていた。そう、弾平だ。燃えるような赤い髪で袖口の破れた実質タンクトップ状態のTシャツを着る弾平の姿と目の前のAokidのそれがほとんど重なってしまうことにその時気づいたのだ。
 そうなるともう連想は止まらない。もはや舞台装置として置かれた巨大な脚立は、縮尺が狂った異常すぎる大きさで有名な、弾平の父が祀られている一撃家の墓にしか見えなくなってしまった。ダンサーたちが少しずつ脱いでいた衣装も、すでに私の目には、弾平たちと戦う敵の選手たちが、試合後半に実はこれまでは手加減しまくっていたと示すためにおもむろに脱ぎ捨てる、地面がめりこむぐらい重い鉄のユニフォームとして映っていた。さらに、よく考えるとAokidに布を投げた鶴家は坊主頭であった。待てよ、あのアニメには絶対坊主のキャラもいたぞ、あいつの名前はなんだ。そうだ、珍念だ。弾平のサイドキックである珍念は寺の息子であり、坊主頭がトレードマークだったのだ。そうこうしているうちに、ドッジボール=靴下を抱えたAokidは力強く走り出していた。その様子はもはや私にだけは、渾身のショットを放つ寸前の弾平が繰り出す無駄に長い助走そのものとして映っていた。しかし、そのすぐあと、弾平であればどこかに思い切りボールを投げつけるはずの瞬間に、彼は両肘をぐっと外側に曲げ、その後再び腕を伸ばす動作へと移っていった。一瞬女子バスケのシュート時の動きを連想しもしたが、あれはおそらくパスだったのではないか。万が一、その動きの先にいたダンサーが反応していれば、弾平から連想されたダサカッコワルイ動きが、その後も連鎖していったのかもしれない。だが、もちろん、それぞれが別個に踊っていた他のダンサーの誰も、Aokid弾平からのパスに気づくことはなかった。これ以上弾平の世界に浸ったところで意味はないと見切ったのか、その後彼自身の踊りも、ポータブルスピーカーなどを活用した別の方向性へと転じていった。しかし、あの瞬間の私にだけは、たしかにホールの中に、白線で囲われた懐かしいドッジボールのコートが重なって見えていたのだ。

 あのとき、Aokidには一体なにが起きていたのか。彼の中で、認識することと感じることはいかに錯綜していたのか。試みに『やってくる』の語彙を用いながら再構成してみよう。おそらくはあの刹那、「靴下と認識できない」ことが「ドッジボールを感じる」ことを直接意味しようとしていた。意味しようとしながら、その間には大きな違和感があった。その違和感を契機として問題(=認識する)と解答(=感じる)の関係にはずれ、ギャップが生まれ、そこを目掛けて「ドッジ弾平」が「やってきた」。彼はそれを受け入れ、すぐさま全身で反応したが、そのイメージの重なり合いを長々と引きずり続けることなく、すぐまた再び切断した。弾平というキャラクターとAokidの間は、切断されることで接続した。問題と解答を「こじらせて」待ちながら、その違和感を目掛けて「やってくる」何かを受け入れ、間をおかずそれに全身で反応し、かと思えばその状態に留まり続けずまた切断し、変化を受け入れることで次の何かが「やってくる」準備を再び整える。今回私が切り取ったのはほんの一例だが、Aokidやその他の参加者たちがあの日それぞれに体現したダサカッコワルイ・ダンスは、こうしたサイクルの連続として捉えられるのではないか。

 蛇足ながら、最後に一言ドッジ弾平について言い添えておきたい。Aokidのダンスに触発され約四半世紀ぶりにアニメ版の初回[*1]放送を見直して驚いたのだが、実は弾平自身もまた、「やってくる」ものを何の疑いもなく受け入れる受動性の権化のようなキャラクターだったのだ。何のボールか認識すらせず父の墓石にドッジボールを投げ続けているという衝撃的な設定から始まる初回で弾平は、あたかもダンスを踊るように寺を楽しそうに駆け巡る。そして彼はなぜか偶然「やってきた」闘球(ドッジボール)部主将の先輩とともに、たまたま寺に「やってきた」不良たちをドッジボールで撃退することとなり、その流れで先輩の熱烈な誘いを受け入部を決意する。この時点ですでにツッコミどころは無数にあるのだが、極め付けのエピソードは最後に現れる。再び墓石に全力でボールを投げつけた結果、弾平はついに父の墓石を倒してしまう。すると、本来遺骨が収められているべき場所にはなぜか、炎のマークを象ったドッジボールが安置されている。突如墓石の下から「やってきた」ボールを何の疑いもなく受け入れた弾平が、父の形見よろしく持ち出したボールを大事そうに抱えて、新しい小学校での生活をスタートさせるところでアニメ初回は幕を閉じる。この目の前に現れるもの全てを受け入れる弾平の驚くべき軽やかさは、どこかあの日のAokidにも通ずるところがあると言ってしまえば、さすがにこじつけが過ぎるだろうか。


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Kuroda Natsuki

《ダサカッコワルイ・ダンス》
振付・出演:Aokid、山崎広太、小暮香帆、後藤ゆう、鶴家一仁、宮脇有紀、モテギミユ、山口静
企画:山崎広太

2021年12月23日
スパイラルホール
Whenever Wherever Festival 2021


冨塚亮平Ryohei Tomizuka
東京都生まれ。米文学/文化。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。慶應義塾大学ほか非常勤講師。博士論文The Moment of Transition: Plasticity in Ralph Waldo Emersonʼs Writingsが公開中。近年の主な論文・論考に「「客間」と「書斎」——空間表象に見るエマソンの家政学」(『アメリカ研究』54号)、「恩寵を見ること——ジョナサン・デミ『愛されし者』Beloved における「再記憶」との遭遇」(『ユリイカ』51巻17号)など。『ユリイカ』『キネマ旬報』『図書新聞』『新潮』『ジャーロ』などに寄稿。

  1. アニメ《炎の闘球児 ドッジ弾平》第1話「誕生!炎の闘球児」(原作:こしたてつひろ)
    前編:https://youtu.be/Xn4o-Z6kkWE
    後編:https://youtu.be/JwNzItywly0Back