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WWFes2023
トライアングル・
プロジェクト
「供養する」
Photo:
Eri Saito

Whenever Wherever Festival 2023レビュー

1. 周縁としての〈らへん〉/境域としての〈らへん〉

おそらく私にレビューの依頼があったのは、2021年末に開催された「Whenever Wherever Festival 2021」にやや批判的な論評「都市と村の分裂——WWFesは公共空間を賦活するか?」を私のHPに掲載したからだろうと推察する。WWFes2021は、「Becoming an Invisible City Performance Project〈青山編〉——見えない都市」と「Mapping Aroundness——〈らへん〉の地図」という二つのプログラムで構成されていた。しかし、私は、当初の意図としてはおそらく同格であった両プログラムに、一種の主従関係が生じているのではないかと指摘した。山崎広太がコレオグラフィーを担当し、ソロから数十人まで様々な規模のダンスパフォーマンスが展開される「BIC」を主軸として、ショーイング、ワークショップ、トーク、ツアー、パフォーマンス等が緩やかにつながりあうイベントの複合体として企画された「〈らへん〉の地図」がその周辺に配備されるメインとサブの構図である。

当該の論評では、Body Arts LaboratoryのWEBページを参照して、WWFesが開催された経緯を振り返った。WWFesは、NYを拠点に活動を始めていた山崎広太が、日本のコンテンポラリーダンスシーンにおける創作環境を改善する目的で、アーティスト間のコミュニケーションや創作プロセスを重視したダンスフェスティバルを構想したところから始まった(主催はBody Arts Laboratory)。BICはまさにその延長線上に位置づけられる企画で、さまざまな世代・出自のダンサーが相互に影響を与えながらそれぞれの身体言語やビジョンを分有・交換する実験の場を創出するものだった。端的に言えば、BICは実験的なダンスプラットフォームをパフォーマンスイベントのかたちで具現化してみせた。

一方、「〈らへん〉の地図」はBICと異なる経緯で生まれた。WWFesの「note」に掲載されている山川陸の案内文によれば、「WWFes2018 そかいはしゃくち」に端を発して、「WWFes2019 しきりベント!」vol.1, 2, 3、「WWFes2020 まつりの技法」と続いてきた「まつりの技法」をめぐる試行錯誤が、「WWFes2022 らへんのむらづくり」に結実する予定だった。それがなんらかの理由でWWFes2021における「〈らへん〉の地図」のプログラムに流れ着いた[*1]

私はこの経緯をたどることで、わかりやすく言えば「〈らへん〉の地図」のありえたかもしれない別の可能性を批判的に検討し、擁護しようとしたわけである。というのも、まず第一に「〈らへん〉の地図」の〈らへん〉のポテンシャルは、商業的な複合文化施設であるSPIRAL(スパイラル)の経済的な利益を損なわない範囲に限定されざるをえないこと(クレーム案件になってはならない)。第二に〈らへん〉の〈らへん〉性は、 WWFes2021が行われたスパイラルホールの劇場構造によって、劇場と劇場外の境界を画するあいまいな領域——ロビーや控室、スパイラル周辺の街路——として理解されることになり、BICという中心的な秩序を生産する〈中心−周縁〉の図式に回収されてしまうこと。

商業空間と劇場空間。〈らへん〉は二重の規制を課せられることで、その不安定で過渡的な性格を失ってしまったというのが私の診断であった。商業空間の規制についてはひとまず置いておくにして、劇場空間の象徴的な〈中心−周縁〉図式が、本来目指されていたはずの〈らへん〉性を雲散霧消させてしまうことに触れておきたい。

〈らへん〉の源流に当たる「WWFes2018 そかいはしゃくち」では、北千住BUoYの空間を複数の区画に仕切り、並行して複数のイベントを実施することで、それぞれのイベントの視覚的・聴覚的な情報が区画の境界を超えて相互侵犯するような環境が意図的に作り出された。共同キュレーターのひとりである村社祐太朗は、そうした相互調整が必要になる環境のモデルを上海共同租界を事例に挙げて説明した。治外法権を持つ外国人が共同管理する共同租界は、相互の調整と取り決めによる妥協点が探られる場所になった、というのである。

「租界」はいわば“借地”のことである。歴史上最大規模の租界である上海共同租界は、1842年から1943年まで存続した。(…)借地のそれのように、人の土地に家を建てるようにして拓かれていった港町には公の法・条約は存在せず、“取り決め”が居合わせた人々によって適宜設えられていった。そして一方でそこはやはり「港」であり、貿易がその経済の礎である以上、関係を切り結んでいく外界の他者にとっての都合の良い帰着地であろうとしなければならなかった。取り決めは独占的であってはならず、それは外界との緩やかなシーム、妥協点でなければならない[*2]

公の法・条約が存在しないと言っても、上海の租界は帝国主義諸国の強制的な“取り立て”の結果であり、英米日の国民に治外法権という特別な保護が与えられていたからこそ借受側は法規制の外に立つことができた、というのはあるにしても、土地の所有者が不在になる共同管理の「借地」において、利害の一致しない他者との絶えざる“取り決め”が必要になることに着眼した「そかいはしゃくち」は、そこで生まれる交渉空間を一種の「共有地」のモデルとして北千住BUoYの空間をデザインしたのである。

WWFes2018
Photo:
Yuichiro Tamura

WWFes2021は、BICが上演される劇場空間の特権性によって、そこから押し出されるあいまいで異質なものとして〈らへん〉=周縁を意味づけた。しかし、WWFes2018は、多種多様な文脈において形成されたさまざまな“自治区”と“自治区”の交渉的な境域としての〈らへん〉を浮かび上がらせようとした。

つまるところ、WWFes2021では、多種多様な交渉的境域としての〈らへん〉が、中心的構造を安定させる周縁としての〈らへん〉にすり替えられた。それはなにもスパイラルホールでの上演が不適切だったということではない。そこでも会場のレギュレーション、都市の景観や記憶をめぐって実務的・想像的・身体的な交渉が働いていただろう。しかし、建築的にも制度的にも、劇場空間に働く〈中心−周縁〉図式が、あらゆる場所に潜在しているはずの多様な境域を覆い隠してしまい、軋轢や諍い、戸惑い、困惑、居心地の悪さをともなう異質な他者・圏域との交渉を不可視化してしまったのではないか、というのが私の提出した論点だった。租界的な〈らへん〉では、絶えざるトラブルの可能性が、フェスティバルの内部に抱え込まれざるをえないはずなのである。

白組のイベントin巣鴨
Photo:
Rick Yamakawa

WWFes2021の開催前に、租界的な、交渉的な境域としての〈らへん〉を、商店街という地域的なコンテクストのなかで試行し直したイベントが、2021年7月に西村未奈、村社祐太朗、山川陸、沢辺啓太朗が企画した「巣鴨7days」のミニワークショップ(WS)だと私は考えている。このイベントによって顕在化した〈らへん〉性を、少々長くなるが「都市と村の分裂」から当日の様子を引用して紹介したい。

その日、告知された会場に着いても、シャッターが閉まり誰もいないのだ。仕方なく1時間ほど待ったと思う。ようやく姿を表した(ママ)彼/彼女らに聞くと、向かいの定食屋で昼食を食べていたらしい。しかもミニWSはやめて、まちあるきをすることにしたと言うのである。(…)そこからまちあるきに同行し、とあるおもちゃ屋に立ち寄り店番をしていた主人に自然と話を聞く流れになる。すると、店の主人は、子供のころ焼夷弾の直撃を受け顔が焼けただれてしまったことや戦後の闇市のエピソードに触れ、食料がなくて飢えていた時代に比べて、いまは本当に平和になったとしみじみ語る。(…) 〈らへん〉の周辺ではWSがいつのまにか散歩になり、散歩がいつのまにか昔語りになり、昔語りがいつのまにか「平和な生活」の歴史的偶然性への洞察を閃かせる[*3]

ここでは、「そかいはしゃくち」における空間的な境域のみならず、WS、まちあるき、店主への聞き取りと次々に移行していく諸行為の境域に参加者は誘い込まれ、さらに店主の歴史的なエピソードが堆積する場所としての東京が、過去と現在の境域において立ち現れる。この試みにおける〈らへん〉という境域はあらかじめ構造的に、実体的に存在しているわけではなく、地域や都市とのパフォーマティブな関わりのなかで、フラジャイルな移行と移動の領域として偶発的に——気まぐれに——生起してくるのであって、そうしたフラジャイルな偶発性の苗床を設えるその仕方こそが、〈らへん〉のクリエイティビティを構成するのである。

白組のイベントin巣鴨
Photo:
Rick Yamakawa


2. フィクショナルな環境としての〈らへん〉

WWFes2023の「〈ら線〉でそっとつないでみる 」というサブタイトルに、〈らへん〉の系譜を読み取るのはそれほど難しいことではない。しかも〈らへん〉にひとひねり加わった〈ら線〉である。どういうことか。

WWFes2023は、おおまかに3つのプロジェクトで構成されている。慶應義塾大学三田キャンパス内にある旧ノグチ・ルーム、東京タワー直下の芝公園、有栖川宮記念公園のダンスパフォーマンスで採集された風景と記憶のフラグメントをSHIBAURA HOUSE(以下、SH)の上演を通じてつなぎ合わせる「トライアングル・プロジェクト」。盆踊りや港区へのリサーチ、ワークショップをベースにしたクリエイションを展開する「ダンスアラウンド」。小学生向けの多国籍ダンスワークショップ「地球の踊りかた」。これらのプロジェクトにさまざまなショーケースやトークシリーズが加わり、2月10日から12日にSHで行われる一連のプログラムが、WWFesの結節点になる。

WWFes2021に比べてかなりすっきりした印象を受けるが、だからといって、フェスティバルの構造が単純化されたわけではない。むしろ逆である。HPの企画概要で、「緩やかに関連しあう複数のプロジェクトを、時空を超えた〈ら線〉でそっとつないでみる試み」と言われているように、このフェスティバルには全体の中心となるプロジェクトが設けられていない。SHの3日間はあくまでも複数の継続的なプロジェクトが一時的に合流する結節点であり、それが最終的な成果物になるわけでもない。

HPの情報から判断するに、「トライアングル・プロジェクト」がメインプロジェクトであるかのように見えるが、3つのプロジェクトのどれにも属していない、よく考えてみれば位置づけのよくわからない4つの実験的なショーケースや「ダンスアラウンド」のリサーチ・ワークショップ発表と、パフォーマンスの規模感——上演時間や参加人数——はほぼ変わらない。むしろショーケースのひとつである「rendance」が最も賑やかな、お祭り感のあるプログラムになっている。WWFesの全員+トークゲストがローテーションで3分間のフリートークをまわしながら、3人のダンサー・批評家などの参加者がそのまわりで即興的なパフォーマンスを展開するのである。

WWFes2023
《rendance》
Photo:
Naoyuki Sakai

さて、WWFes2018、2021に連なる〈らへん〉の系譜という観点を採用するのであれば、WWFes2023は、〈らへん〉のパースペクティブからBIC的なダンスプラットフォームを再編成したように見える。つまり、フラジャイルな移行と移動の境域を立ち上げる〈らへん〉的な方法で、さまざまな出自・世代のダンサーが出会うダンスプラットフォームを機能させる、ということだ。

〈らへん〉のダンスプラットフォーム/ダンスプラットフォームの〈らへん〉。そのような企みのなかで、〈らへん〉は〈ら線〉の運動によって結ばれるフィクショナルな環境として焦点化されていった、と整理することができると思う。ふたたび、WWFes2023の企画概要を見てみよう。

場所を身体が横断するとき、知覚や記憶を伴って場所周辺に形成される固有の環境をアラウンドネス〈らへん〉と定義しました。

2023年はさらにダンス/パフォーマンスを通して港区の複数の地点における〈らへん〉をつないでみる=〈ら線〉として結びつけ、新たな像を見出すことがコンセプトです。[*4]

「そかいはしゃくち」における“自治区”と“自治区”の交渉的な境域としての〈らへん〉は、「らへんのむらづくり」を見据えたミニWSを通じてフラジャイルな移行の境域としての性格を強め、さらに「〈ら線〉でそっとつないでみる」では「場所を身体が横断するとき、知覚や記憶を伴って場所周辺に形成される固有の環境」としての〈らへん〉が浮上してきた。ここに至って〈らへん〉は、自治をめぐる交渉的・政治的な境界線というよりも、諸身体と場所の双方向的な応接の只中で、場所の支配的な意味を不安定化するフィクショナルな環境を名指すようになった。〈らへん〉の所在が、空間の境域から身体が創出するフィクショナルな環境に変化していったのである。

ここでの主要な関心は、〈らへん〉を生起させていく移動/横断する身体がどのような軌跡=〈ら線〉をたどり、それらの弱い“フラグメント”をどのような仕方でパフォーマンスする身体に結びつけ、記憶の想起を伴う身振り・感覚・動きとして表出するのか、つまり都市の無意識に潜在するさまざまな〈らへん〉をどのようにダンスするのかといった事柄に向いている。この〈らへん〉に参入する諸身体は、それぞれの場所で、その場所に堆積した歴史的な記憶、そして詩的なイマジネーションとのあいだを「横断」し、さらにそれらの場所と場所の記憶を「横断」する。いわば、縦軸の「横断」と横軸の「横断」を縦横無尽に行き交おうとするのである。


3. 〈らへん〉のダンスプラットフォーム

今回のWWFesのなかでそれを最も明確に打ち出していたのは、やはり「トライアングル・プロジェクト」であると思う。東京タワー直下の芝公園で行わたパフォーマンス「供養する」を例に取ろう。

振付・即興ストラクチャーに山崎広太・西村未奈が名を連ねるこのパフォーマンスは4〜5つのパートに分割できる時間的な構造を備えてはいるが、全体の印象としてはかなりとりとめながない。そしてそれは、会場で配られるパンフレットで解消されるどころかむしろ増幅する。

幽霊的に存在する身体
1. 「ここ」にも「ここではないどこか」にも同時に存在する身体
2. 物理的な境界をすり抜ける身体
3. 「この瞬間」とつながりながら、「この瞬間」につかまらない身体
4. 見えている風景と見えていない風景を自由に行き来できる身体
5. 遠い祖先、未来の新種、自然、人工物など、存在しうる全てのものの声を映しだす身体
(…)
21. まとまりのない虹色の雲としての身体
22. 異なる次元の場所——現実、仮想現実、想像世界——をまたぐ身体
23. 「あなた」と「わたし」をぼやかす身体
24. 異なるアイデンティティを同時に引き込む身体
25. 既知であり未知である身体
26. 存在の痕跡を残す身体
(テキスト:西村未奈)[*5]

これらの実現不可能な矛盾に満ち満ちた「身体」とはいったい何だろうか。西村からの説明があるわけではなく、確かなことは何も言えないのだが、インストラクションや振付の類だろうという推測は立つ。だが、重要なのは、かといってこのインストラクションなり振付なりが遂行されているかどうかを、実際のパフォーマンスから読み取ることはできない、ということだ。

骨身にしみる肌寒い空気が吹き付けるなか、このパフォーマンスに出演した8人のダンサーは、東京タワーのやや北側にある「芝公園23号集会広場」に集合したあと、雑木林に散らばり、アメーバ的な原生生物のように蠢き出した。枯れ葉が敷かれた地面に寝転がり、全身を脱力させたまま例えば肩、例えばつま先に重心を置いて、ぬめやかに諸部位のポジションを滑らせていく。15分ほど続いただろうか。そうこうしているうちに、西村がチリンチリンと鈴を鳴らすと、それまで点在していた諸身体が雑木林の中でもひときわ幹の太い大木が根を張る場所に集まり連結する。海藻のように揺らめいたり、手と手を取ってその幹を囲んだり……というシークエンスに移行したあと、『モンティ・パイソン』のバカ歩き/シリー・ウォークのようなことが始まり、このポイントでのパフォーマンスは終わる。

WWFes2023
トライアングル・
プロジェクト
「供養する」
Photo: BAL

それから彼/彼女らが移動したのは東京タワーと芝公園のはざまにある墓地の前。墓地の前は2メートルほどの崖になっていて、金網のフェンスで囲われている。その崖の前に並んだダンサーたちは、頭を下げ、身を縮ませ、その向こうへとゆっくり歩いていくような身振りを見せる。ついでまたそこから離れたかと思うと、三角形の芝生でそれぞれが即興的に“バカっぽい”パフォーマンスを披露し合ったり、“ちょっかい”をかけたりする遊びのような時間、公園に設えられた水が流れていない川路に寝そべる時間があり、また雑木林に戻っていく。この雑木林にまばらに座ったダンサーは、ひとりがテキストを読み上げ、また別のひとりがそのテキストに応接してダンスを踊り、踊りのあとに今度はテキストを読み上げる側に回る、というのをローテーションしていくのである。

ここで蠢きや身を縮ませる身振り、寝そべりのような外見的特徴で捉えられるダンサーの姿態を「幽霊的に存在する身体」の形象だと了解して良いのだろうか? もしもそうだとしたら、絵解きのような「幽霊」の形象化は、「幽霊」という意味の説明ではあっても、「幽霊的な存在」を現象させているとは到底言えないだろう。

WWFes2023
トライアングル・
プロジェクト
「供養する」
Photo:
Eri Saito

しかし、注目すべきは、このパフォーマンスが「幽霊」に見えるかどうかではなく、その弱々しく、おぼろげで、とりとめのない諸身体の挙動が、東京タワーが仰ぎ見られる公園という環境に溶け込みながらも、微妙な緊張感をはらみながら応接し、その場所が持つ意味を極めて移ろいやすいフラジャイルな状態に変容させてしまうことである。環境に溶け込む、すなわち雑木林、墓地の前の崖、三角形の芝生、川路といった具体的な環境に応じることで、日本の中心というナショナルな象徴性、昭和の高度経済成長という歴史性の負荷を帯びた「東京タワー」を、パフォーマンスが構成する具体的な諸環境の一部に取り込まんとするのである。

とりわけ、最後の雑木林のシークエンスは〈らへん〉の〈らへん〉性を明晰に浮かび上がらせる。「わたしの身体は次の5つのピースにスライスされる」「酔っぱらいのバッタの王様」「紫の内蔵」「飛ぶ心臓」といったテキストと踊る身体は、東京タワーを中心とした象徴的な領域性に重なり合うフィクショナルな環境を立ち上げる。それは東京タワーによって意味づけられた場所を真っ向から否定するのではなく、むしろダンサー各自の想像的な知覚が経験される場を設えることを通じて“支離滅裂”に、幽霊的に複数化するのである。
  
複数的な諸身体の運動/移動/横断がその場所に潜在する「何」と名指すことのできない不安定な意味の領野=〈らへん〉を呼び起こし、その〈らへん〉のフィクションに振り付けられることで身体にダンスが生起する。「トライアングル・プロジェクト」はこうした創発的な循環構造をクリエイションの方法として確立させた、と言っていいのではないだろうか。そして、その循環に巻き込まれるかたちで、それぞれのダンサーの振付やダンスに関わる思考・感性が触発され、開陳され、交換され、織り合わされる場が創出されていくのだ。この不断のプロセスの遂行が、そのままダンサー・振付家の偶発的な出会いと、持続的・継続的な関係性を模索する場=ダンスプラットフォームを結実させる。WWFes2018を源流とする〈らへん〉の探索は、WWFes2023において、新たなダンスプラットフォームの方法論を花開かせたのである。


渋革まろんMaron Shibukawa
批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて——『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?——ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな——劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

  1. 山川陸「3/27(土)開催!Whenever Wherever Festival 2020-2021 まつりの技法——らへんのむらづくり 公開プレゼンテーション(ひとりフェスティバルスタイル)」Back
  2. 「WWFes2018 そかいはしゃくち」フライヤー。Back
  3. 渋革まろん「都市と村の分裂——WWFesは公共空間を賦活するか?」Back
  4. WWFes2023 WEBページBack
  5. 「供養する」当日パンフレットより引用。Back