Body Arts Laboratoryreport

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武田知也(フェスティバル/トーキョー制作統括)
田坂博子(恵比寿映像祭キュレーター、東京都写真美術館学芸員)
田村友一郎(写真・映像)
中馬芳子(振付家、ダンサー)
手塚夏子(振付家、ダンサー)
武藤大祐(ダンス批評家)
山崎広太(振付家、ダンサー、BALディレクター)
司会:印牧雅子(編集者、BALプログラム・コーディネーター)

※このラウンドテーブルは、Whenever Wherever Festival 2012のプログラムの一環として、5月26日、森下スタジオ Sスタジオにて行なわれました。


目次

セッション1.|キュレーションの現状について
セッション2.|フェスティバルにおけるキュレーション
セッション3.|社会へのアクティビティについて
――実践としての個々の活動とその思想


セッション1.
キュレーションの現状について

イントロダクション

山崎:ここ三年ぐらい、大橋可也さんや手塚夏子さんらと、みんなで会議をしようと決めて、Whenever Wherever Festival(ウェン・ウェア・フェス)[*1]でも「ひらく会議」が行われてきたのですが、振付家、ダンサー同士の交流にはなるけれど、何か発展性が無いんじゃないかと思っていました。じゃあ今度、会議自体をパフォーマンス化しようとトライしたのが去年。それはそれで勉強になったのですが、ちょっと違うなと思っていて、今年からタイトルを変え、アート・マネジメントなど、パフォーミングアートに別の立場からかかわる方々ともっとコネクトする必要を感じ、ラウンドテーブルの開催に至りました。
このウェン・ウェア・フェスで、リサーチでニューヨークから来日したトラジャル・ハレル[*2]を紹介したのですが、彼は振付を民主化しようと考えています。「ダンス」と「振付」は違うと説いて、振付はもちろんダンスを含むんですが、ボディを伴っていればどのようなことでも振付になると言うんですね。そうすると例えば、生活すること自体も振付になる。一方で、こういうフェスティバルを立ち上げること自体すでに振付であるとも考えられる。そこで、やっぱり人と関係することが出てくるわけですが、その関係の中にキュレーションというファクターが入ってきている感じがあります。

田坂:キュレーションとは何かと考えた時に、裏方の人たちだけで企画をしてというよりは、アーティストが作品を実現させる上でキュレーション的なことを前面にやっていくケースが増えてきているのではないかと思います。今回お話をいただいた時にも、キュレーションというよりはアーティストを誰か紹介してくださいとのことでしたので、アーティストの田村友一郎さんを紹介させていただきます。

《NIGHTLESS》《驚異の部屋》

田坂:田村さんの《NIGHTLESS》(2011)は、第3回恵比寿映像祭で紹介していて、いくつかの賞も受賞しているので、いろいろな所で発表されています。グーグル・ストリートビューの映像を使ってひとつの映像作品にしていて、ロードムービーのような作品になっています。

田村:イメージは全部ストリートビュー、音声もYouTubeから獲ってきているので、僕自身は撮影も録音もしてないという特徴があります。ナレーションは僕の声で、ニック・ノルティだのネブラスカだのチープなことを言っています。

田坂:声が面白くて、聞いていると田村さんがしゃべっているとは思えないような……。

田村:実際アメリカ人がこれを見て、「よくできてる。聞いたことないけどネブラスカなまりってこんなだよな」と。

田坂:タイトルは、ストリートビューには夜が無いから「ナイトレス」という意味で、アノニマスなネット上の映像から制作されています。

田村友一郎

田村:一昨年前トーキョーワンダーサイトのレジデンスでスタジオ付きの部屋に住みながら制作をしました。毎月一回その部屋で制作風景を公開してくださいという決まりがあって、僕は絵や彫刻をやるわけではないから、部屋をただ見せるということをした。それが《驚異の部屋》(2010)です。人の部屋を見るってそれだけで結構面白くて、ここでは自分が普段生活している部屋に、人なりパフォーマーなりを入れ込んで見せていました。例えば、アイアンメイデンのTシャツがあって、お客さんが入ると照明がTシャツにスパーッと当たる。それで、部屋の中でカウンターテノールの歌手がアベマリアを歌う。子役の女の子が机の上に立ってタップダンスをする。落語家がいて一席やる。腹話術師がいて何かしゃべる。部屋の中に足場を木道のように作って、見る視点を変えて見てもらう。ボディビルダーを呼んで木道の上に立ってもらう。お客さんは何が起こるかは分かっていない状態で、僕の中では部屋をがっちり見てもらうことが大前提としてあります。しかし、ボディビルダーのものをやってみた感想としては、お客さんには部屋を見た記憶が無くなってしまう。ボディビルダーのほうが気になってしまう。

田坂:パフォーマンス的なかたちとしてこういう作品もあって、田村さんの特徴としては、自分が、例えば何かを描くわけではないので、人に頼む。それである場を実現させる。また同時に、それを映像化している部分があって、この作品もある場面場面の体感を観客にさせるという映像的なところがあります。

粟島AIR /《Where Are We Eating? What Are We Eating? and Who Are Cooking?》

田村:今、四国の島に3月から4か月間レジデンス(粟島アーティスト・イン・レジデンス)で行っています。何を作るかをプロポーザルでは出していたんですが、その島に行った時、昔、瓦の産業があったのを聞きました。泥窯っていうか、土の窯で焼いていたらしい。もうその産業はなくなっているんですが、鬼瓦を焼く窯が残っていた。で、もう一回鬼瓦をそこで焼くことができないかと思った。窯を掘り起こして、鬼瓦を焼いて、作品としてはその瓦が島の家の軒に上がるところまでやろうと思っている。それをやるには、僕は鬼瓦を作れないので、鬼瓦の職人さんを呼んで、あとは焼きの工程も大変なので、焼きの職人さんを呼ぶ。

田村友一郎

田坂:通常レジデンスでパブリックに何かつくるというと、アーティスト自身が作品を制作して、公開するものですが、田村さんのように、自らは制作せずに第三者に制作を発注し、ディレクションするというアプローチを、キュレーションととらえてみたいと思いました。

田村:トーキョーワンダーサイトの企画の中で、今年、ジョン・ケージ生誕100年を記念して作品をつくることをしました。ジョン・ケージはキノコ研究家だったというのでキノコ鍋を来場する人に振る舞おうということになった。会場では、シェフの格好をした人がキノコ鍋を作っていて、ダシをとったり、紅葉おろしを作ったりして、最後に来場した人に振る舞う。で終わった時に「あなたは誰ですか?」とシェフに問いかける。そうするとその人が「わたしは刑事です」と答える。みんなキョトンとして……という(笑)。
その人は本当に神奈川県警の刑事さんで、電話して頼みました。すごい料理が上手な刑事さん。刑事さんなので落ち着きが全然違っていて、お客さんもどこの帝国ホテルのシェフかっていうぐらい信頼しきってる。佇まいが全然違う。僕は、振る舞いにすごく惹かれることがあって、プロフェッショナルを作品に取り込むということをやっている。だから自分が振り付けする必要は無くて、呼んでくることでほぼ完結してる、そういうことをやっています。

印牧:田村さんの作品からは、自分の部屋が見世物になるから、あるいはボディビルダーがいるからパフォーマンスであるということではなく、部屋のあるシチュエーションが見る人にパフォーマティブに作用する関係性、そこでの出来事を問題にしている印象を受けました。その意味での場の形成、それこそがパフォーマンスなのではないかと感じました。また、そこで起こっていることが作品であるとすれば、写真や映像などのフォーマットで作品を語れない。つまり、一体それらがどの時点で作品になるのかという問いを含むとすれば、それが作品の着地をめぐる実践として位置づけられるという点でもキュレーター的なあり方と言えるのか?など、批評的な投げかけがなされているように思います。

  1. 過去4回のウェン・ウェア・フェス、および、今後のビジョンについては次のエッセイを参照。山崎広太「アーティスト主体のBALが見据える可能性とは」『viewpoint』60号(公益財団法人セゾン文化財団、2012)http://www.saison.or.jp/viewpointBack
  2. トラジャル・ハレル Trajal HarrellBackアメリカ出身の振付家。キュレーター、編集者、オーガナイザーとしての顔も持ち、ニューヨーク/ヨーロッパを拠点に活動を展開している。主な作品に《Twenty Looks or Paris is Burning at The Judson Church》シリーズ。http://betatrajal.org
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