都市「港区」の風景を求めて
Text|石見舟
1.
昨年の夏、ふと足を運んだAokidさんの公演「どうぶつえん」の打ち上げでWhenever Wherever Festival(WWFes)2023のことを知った。どうやら港区を舞台にしたダンス・フェスティバルだそうだ。「港区」という言葉に私は食いついて、Aokidさんを捕まえて思いをぶつけた。それからあれよあれよというちに、フェスティバルのみなさんに暖かく迎い入れられて「企画・制作協力」に名前が記載されることとなった。ダンスではなく演劇の研究者である私が、ちょっと外部の人間としてフェスティバルをうろうろしていることをきっと面白がってくれたのだろう。
昨夏、私が港区に食いついた理由はとても単純で、私が港区出身であるからだ。幼稚園から中学校まで港区立に通い、そして大学院に進んでからまた港区に戻ってきた私は人一倍故郷に対する愛着が強いと思う。私からすると港区を語る言葉が、時として「東京」についての言葉へ、さらには「日本」について、あるいは「資本主義社会」についてへと横すべりするのに日ごろ違和感を覚えていた。
たとえば芝公園4丁目に屹立する東京タワーは港区のシンボルというよりは、東京のシンボル、そして外国で出ている観光案内書を見ると分かるように、日本そのもののシンボルですらある。しかしなによりもまず、東京タワーは港区の、より限定して言えば、芝公園、芝、三田、六本木、麻布等々のシンボルである。私は東京タワーを第一京浜から眺めたとき、「ああ故郷に帰ってきたんだな」と感じ、何とも言えない気持ちでいっぱいになるのだ。小学生のころ、学校の帰りに東京タワーまで歩いて行って、そこでコンビニのアイスを食べた思い出。見えてからが長くて、最後の坂のきつさに子どもながらひいひい言っていた。タワーの下には4階建ての建物があって、蝋人形館、東京タワーのお土産屋、韓国ドラマのグッズ屋、遊戯王カードの店、ゲームセンター、洋楽グッズの店と誰を相手にしているのか分からない店が無機質に並んでいた。そこから上に行ったことは一度もない。これが私にとっての東京タワーである。
もちろん、私の港区が、他の多くの地方の犠牲のもとに光り輝いているのは知っている。東日本大震災の原発事故以降、そうしたことはなおさら無視できなくなったはずだ。それでもなお、港区がただのワイルドで、キラキラしたTVマンやビジネスマンの中心地として語られるとき、私には同級生たちの、隣近所の、町内会の人々の顔が浮かぶ。私も含め彼らはただ住まう所としてこの港区に居つき、そしてそこから抜け出せずにいるのかもしれないのだ。港区のことを、他の大きな言葉で希釈せずに語るすべはないのか。これは私の極個人的な願いであり、またそれなりに必死な叫びでもある。
見たまま、感じたままの港区とはなにか。そうすると必然的に港区という言葉も大きすぎてしまうので、今回のWWFesの舞台でもある芝浦、芝公園、三田、南麻布、青山あたりを念頭に置いてみたい。私にとってもとりわけ愛着のある地区だ(他に芝、東麻布、麻布十番、六本木、赤坂を加えてもいい)。この課題は、私の興味に引きつけると、港区の風景とはなにか、ということになる。
2.
ここでまず「風景」という語の奇妙さに注目したい。私たちは普段「○○の風景」というようにこの言葉を当然のように使っている。しかし風景とは何かということを聞かれると定義づけることは難しく、実はとても曖昧なことに気づくだろう。だが同時に脳裏にはしっかりとしたイメージがあるはずだ。頭のなかの光景を言葉で相手に伝えることのできないもどかしさが、風景について詳しく語ろうとすると付きまとうのである。さしあたり風景を厳密に捉えようとした20世紀哲学・美学の定義を極めて大雑把であるが参照しよう[*1]。風景とは、人間一個人では把握しきれない自然を、まるで額縁に収めるようにして切り取ったものである。しかしその風景に惹きつけられれば惹きつけられるほど、その額縁の不完全さが時差を伴って認識されることとなる。額縁のなかの風景はつねに見る者の意識を額縁の外へといざなうのである。人間の知覚と認識のありかたは、そもそもそのようによってしか外部を思考することができない。この過程を私たちの語彙で語るとすれば、それはすなわち、型を構築してからの型破りということになる。西洋において“landscape”という語が風景画とともに15世紀に生まれたのも、額縁のことを考えると大変示唆的である[*2]。普段何の気なしに眺めていた山の景色を、そこを流れる雲や移りゆく空の色を固定させて、しかも人物の背景としてでなく絵画の主題として見せられた初めての人々はきっと驚いたに違いない。本来であれば木々や空、雲は刻一刻と変化し、同じ情景は二度と現れないはずだ。それなのに、風景画は自然を固定し、多くの人々に同じ風景を見せている。このように風景とは、造形芸術と自然とをかりそめにつなぐ接点となる。そこから「都市の風景」という言葉も生まれてくる。都市もまた、人間一人では捉えることができないほど巨大で複雑であるからだ。私たちはある額縁を用意することで都市を——それを把握することの不可能性を予感しながらも——認識できるようになるのだ。
ここまでの定義から、風景のもうひとつの重要な観点が浮かび上がってくる。すなわち、風景とはつねに「再発見」されるものなのだ[*3]。「そこに風景があった」と、風景はつねに驚きとともに再発見される。文芸評論家の加藤典洋は『日本風景論』所収の「武蔵野の消滅」で、上京した若者の帰省の例を挙げる[*4]。久々に故郷に帰ってきた若者は、自分が生まれ育った地域をあらためて見直すこととなる。しかし上京する前には自分の唯一の生活圏として馴染んでいた町に対する感覚はそのときすでに変容している。その感覚で再び故郷と対峙するとき、そこに何か新しいものを見出すのである。新しい建物が立っているなどするかもしれないが、そうした新しさとは違って、今まで当たり前と思っていた風景の基層がなにか別物として現れてくるのだ。それは今その若者が住んでいる都会との比較によって生まれてくるのである。
これらの例は自然のなかに佇むことによって生まれた風景経験である。都会から田舎へ行くことによってできた無為の時間。そこでなにをするでもなくぶらぶらと歩き、ふと立ち止まってみたりして、なんでもない景色に目をやる。これらの例ではそんな贅沢な時間が、隠された条件となっている。風景の再発見は感動、あるいはネガティヴな意味での驚愕をともなって生じる。ただし上京できない私たち港区出身者にとってそうした条件は揃っていない。しかしこうも考えられる。そのような佇む時間がほとんどないこと、これこそが大都会のそもそもの条件なのだ。
3.
大都会のスピードについて言及したものについては枚挙にいとまがない。ここでは20世紀を代表するドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの小作を採り上げたい。この詩は1920年代に書かれたもので、音楽劇『マハゴニー市の興亡』に都市労働者たちのセリフとしても収録されている[*5]。これは20世紀の初めに砂漠のただなかに生まれた資本主義の都市、ラスベガスを見据えた作品である。20年代は二つの世界大戦のはざまにあって、1929年の世界恐慌まで都会人たちはエネルギッシュなカオスのなかを生きていた。
まちを巡って
まちの下には水路がはしり
中にはなにもなく、上には煙。
わたしたちはその中にいた。なにも楽しむことなく。
わたしたちはすばやくすぎさった。しだいにまちもきえさる。
Über die Städte
Unter ihnen sind Gossen
In ihnen ist nichts, und über ihnen ist Rauch.
Wir waren drinnen. Wir haben nichts genossen.
Wir vergingen rasch. Und langsam vergehen sie auch.[*6]
この詩が面白いのは、「まち」が単数形の“Stadt”ではなく全て複数形で書かれていることである。そしてこの版に特別に付されている題名には、“über”という前置詞が使われている。これは英語の“about“と同じで「~について」という意味がある一方、“over”と同じく「~の上部を越えて」という意味も併せもつ。つまり、この短い詩は、(複数)の都市についての言葉であると同時に、都市の上空を飛び越えていくような鳥瞰的な視点を持っている。詩の内容は、都市のなかに刹那的に滞在する人々の微視的な視点から都市を描く。そこにブレヒト特有の非常に簡潔な筆致が加わることで、都市生活者の虚しさが醸し出される。そして鳥瞰的な視線は、時間をも俯瞰し、都市から人々が過ぎ去り、また都市そのものも消えてなくなっていくさまを見通す。そして最終行の「わたしたちはすばやくすぎさった。」が過去形であることに、私たち読者は少し驚く。都市を語る人々はすでにこの「まち」にはいないのだ。
4.
私が生まれ育った地区は寺町である。同級生やご近所には神社やお寺の人も多い。小学生の頃は墓のあいだを駆け回って怒鳴られたことが数度ある。戦中の子どもは卒塔婆をスキー板にしていたとも言う[*7]。だから空が比較的広く見える地区なのだが、また、再開発でそうした部分に建物が立つなんていうのもザラにある地区である。「スクラップ・アンド・ビルド」と言ってしまえばそこまでなのだが、このスクラップの内実は、紙の上の文字を消しゴムで消すようなものではなく、紙それ自体を切り取ってしまいその穴に新しい白紙片を貼り付けるような徹底的なものである。無名の港区の住人たちが過ぎ去っていき、そしてその墓すらも消え去っていく都市。港区の地層には、そうした墓々がある。そしてここあたりでは縄文人たちの貝塚も見つかっているから、地層を基底まで想像するのは途方もないものである。
そして先に挙げた東京タワーも墓の上に立つ。これは増上寺の境内に建てられ、また展望台より上の部分には連合軍払い下げの戦車の鉄が使われているという。もちろんこうした知識を持たなくても東京タワーの風景を切り取ることはできるが、しかしこれらの知識やそのもとに住まう私たちの顔や姿を想像すると、東京タワーが主役であるはずの風景がたたえる雰囲気のなかに、驚きとともになにか新しいものを再発見することができるのではないか。
私たちはつい東京タワーを見上げてしまう。このとき、私たちを取り囲む、東京タワーと比べると特筆に値しない月並みな港区の街は目には入ってこない。むしろ東京タワーを主役とする風景は、それらを額縁の外に追いやり、無視することによって出来上がっているとさえ言える。それによって私たちは東京タワーを注視することができるようになるからだ。この額縁のなかに惹きつけられることで、私たちは東京タワーを取り巻く雰囲気を感じ取り、言葉にすることができる。しかし先にも言ったように、それは往々にして東京の印象、さらには日本の、資本主義の、そして戦後の復興の印象などへと横すべりしていく。しかしそのとき私たちはたしかに港区に立っているのである。東京タワーを見上げる視線とは反比例するように下降する視線、この土地の過去へと遡行するような感覚を額縁の外へと求めるとき、港区の風景は今までのものとは違う、なにか新しいものとして現れてくるのではないだろうか。そしてこの感覚は東京タワーをいつか見上げる未来の人々と共有する感覚もありうる。(しかし、そのとき東京タワーはどんな風になっているだろう? かつて東京タワーはモスラやギャオスの住処になったけれど、そうした可能性を描く心のゆとりを今でも私たちは持ち合わせているだろうか?)こうした風景の経験は、私が立ち止まりタワーを見上げたから生まれたというよりも、むしろせわしなく足を動かすなかで感得したものである。そこには過去と未来という時間の堆積と——告白すれば——私の郷愁が混ざり合っている。私の文章を通して皆さんは、東京タワーの風景を再発見できただろうか? 私は自分の文章に自信がない。
5.
そしてダンスである。実はダンスに限らず、演劇などのパフォーミング・アーツは風景を絵画のように提示することが苦手である。だからこそ、それらが風景に取り組もうとしたとき、風景の初期衝動のようなものがかえってあらわになるのではないか。見る者を惹きつけながら、それゆえにこそ額縁の外を消去してしまうような風景の感覚が。少なくともダンスには風景経験のために必要な、言葉で捉える前のからだの動きがある。ダンサーの動きにぴったりな言葉を見つける喜びはダンスを見ることの醍醐味のひとつであると思うが、同時に私たちはその言葉がダンスの豊かさをどこかで捉え損ねている感覚にも陥るはずだ。
フェスティバルにはたくさんのダンスによって切り取られたたくさんの額縁が用意されている。そして屋外でも室内でも行われるこのフェスティバルには、その会場へと向かう観客一人一人のからだの感覚も付け加えられることが期待されている。もしできるならば、会場への行き帰りのどちらかで一駅余計に歩いてみてほしい。田町駅であれば浜松町、芝公園であれば御成門、慶應大学三田キャンパスであれば麻布十番など。きっとそこにはつまらない街並が広がっているだろう。そのなかを歩いていくと、一足ごとに街並が背後へと消え去っていく。その過ぎ去りこそが港区の風景の経験なのかもしれない。
石見舟|Shu Ishimi
演劇研究。慶應義塾大学大学院文学研究科独文学専攻後期博士課程単位取得退学。ドイツ・ライプツィヒ大学演劇学研究所博士課程に留学後、現在は各大学非常勤講師。専門はドイツ演劇学。特にベルトルト・ブレヒトやハイナー・ミュラーの作品研究、演劇の政治性、亡霊論、風景論。博士論文『風景のなかの演劇――ハイナー・ミュラーの作品と能楽との潜在的出会い』を準備中。主要論文「〈今ここ〉からずれる風景――ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』を例に」(平田栄一朗、針貝真理子、北川千香子共編『文化を問い直す』彩流社、2021年、165-188頁所収)など。翻訳、ハンス・ティース=レーマン著「ハイナー・ミュラーの亡霊たち」(『研究年報』特別号、慶應義塾大学独文学研究室『研究年報』刊行会、2021年)など。
http://web.flet.keio.ac.jp/~hirata/Profis/Ishimi_Profi.html
*本稿は、Whenever Wherever Festival 2023のオンラインプログラム「もうひとつの〈ら線〉でそっとつないでみる」の一環として発表されるものである。
- 風景論の古典としては、ゲオルク・ジンメル「風景の哲学」、『ジンメル著作集 第12巻』酒田健一他訳、白水社、2004年、165-179頁所収。以下の定義はジンメルをはじめとして、ヨアヒム・リッターらの仕事を自由にまとめたものである。Back
- Rainer Piepmeier: Landschaft. In: Joachim Ritter u.a. (Hg.): Historisches Wörterbuch der Philosophie. Bd. 5. Basel & Stuttgart [Schwabe Verlag] 1980, Kolumne 16.Back
- たとえば、安彦一恵・佐藤康邦編『風景の哲学』ナカニシヤ出版、2002年、41頁。Back
- 加藤典洋『日本風景論』講談社、2000年、180頁。Back
- ベルトルト・ブレヒト『ブレヒト戯曲全集 第2巻』岩淵達治訳、未來社、1998年、256頁。Back
- Bertolt Brecht: Hauspostile. Frankfurt a.M. [Suhrkamp] 1999, S.73.Back
- 『港区 私と町の物語 上巻』2007年、100頁。青山墓地の思い出として語られている。Back