山崎広太 身体/言語ゼミへの推薦コメント
Text|岡﨑乾二郎
本稿は、Whenever Wherever Festival 2025で開催したオンライントーク《共生と社会と〈らへん〉——理論編》(郡司ペギオ幸夫、柳澤田実、山崎広太、2025年3日1日)の関連資料として再録するものです。
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身体表現と一口に言われますが、身体はそもそも単一のものであることが保障されているわけではありません。(ルーティン化された所作のなかでは、身体は意識されないので、単一なものと思い込んでしまいがちです)けれど、なにかスポーツでも身体的な技術でも、新しいことを覚えようとするとき、あるいはどこか故障したとき、思いの通り、身体が連動しないこと、身体各所が同時に動かず、バラバラにずれていってしまうようなことに気づくはずです。
身体表現(の習得)とは そもそもさまざまな器官に分節されてしまっている、身体(具体的には関節を考えてもらえばわかります)を単一であるという観念から、いったん解き放し(まずはバラバラにし)、バラバラにされた、手足、胴体、頭、関節、筋肉、内臓、皮膚をあらためて繋ぎ直し、連動、連携させる方法を会得しなおすことです。
すなわち身体を、一連の運動体へと組織しなおす。固定した体(という中枢的な観念)を捨てさり、代わりに、変容しつづける、さまざまなる運動(する)身体へ組織しなおす、ほんらいバラバラの器官である身体が身体として統合され、単一で、ありうるとすれば、固定されたモノとしてではなく、運動の中においてである。(この身体をひとつに連動させるためのモチベーション=意志をエフォートとラバン(モダンダンスの理論家)は述べました)
以上の身体について述べた事柄はそのまま、言語の過程に置き換えて考えることができます。ばらばらにされた身体からいかに一つの運動体をつくりだすかは、ばらばら、な個々の単語から、いかにひとつの文を形成するか、言語の形成過程に置き換えることができる。われわれは言葉を理解するとき、個々の単語を理解し、それをただ加算(足して)して意味を理解しているわけではない、(文は単語のたんなる加算ではない)、乗算以上のジャンプがあります、個々の単語にはなかった意味が文からは読み取られる、それはしばしば発話者の感情(自己表出などと単純に理解する批評家もいます)と理解されたり、発話者から受け手への行為遂行的な意志伝達であると読み取られたりもしてきた。いずれにせよ、なぜ、その文が発せられているのか、言われたのか(言われなければならなかったのか)、というモチベーション=エフォートこそが個々の単語そのものの意味よりも重要視され、理解されるわけです。(いいかえれば、この感情的な負荷を帯びていると理解される、モチベーションがなければ、文を発すること、話す事も人はしない)。
だからこそ、ひとは 少々、文法がぶっこわれていても、単語が欠けていても、まったく新しい奇妙な言葉使いでも意味を理解することができるわけです。
誰もが知っているように、言語表現にしろ、身体表現にしろ、美術のような視覚表現にしろ、芸術表現において、もっとも重要な面のひとつは文法的には違反である表現を成立させてしまうことであり、ゆえに、(そのことによって)いままでにない文法=形式、話法を創造してしまうことでもあった。
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山崎広太さんは、天才的な言語感覚の持ち主です。こういう人に出会えるチャンスは滅多にない(まちがいありません)。というほど、ぶっとんでいる天才です、サイキばしっていますが、才気は彼の場合、寛容さ、やさしさと繋がっています。
言葉はしばしばジャンプする、間が飛ばされ、ことばからことばへ論理の関節がふたつ、みっつ省かれて、ジャンプしてしまうようなところがある。この特異な言語感覚(イメージ飛躍力)は、山崎さんの身体技術、その方法と(多くの人がそう直感するように)無関係ではありません。単語と単語をつなぎ合わせるのは、慣習的なシンタックス、(という)法ではない、単語と単語の間をむすびつけるのは、連想です(それがいかに使われうるか、使われてきたか、という具体的な場面での全体的な機能、つまり場そのものが帯びていたイメージ)、この機能的なイメージとイメージを繋ぎ合わせる(アソシエートさせる)こそが、運動である。ある場面での運動(機能)と 別の異なる場の運動(機能)をつなぎあわせる、もう一段上の論理、これが実現させるために必要なのは、むしろ空間的時間的なパラディグム。個々の単語の差異ではなく個々の言葉を、運動する群として、集合として捉える能力です、セザンヌをはじめとするポスト印象派の画家が直感したような。
このあとは 具体的な演習を通してしか実感してもらうしかありませんが、ポスト印象派だのイマジズムだの、映画の理論だの、いろいろと本で読めることはできるでしょうし、手慣れた技術を少しずつ拡張することもできるでしょうが、(ことばではよくいわれることですが)無関係な事柄が、とつぜん変異して、あたらしい運動をつくりだすこと、新しい概念を作り出すこと、こうした出来事は、実践してみないことにはわからないはずです、思考のスケールというものは、こうしたジャンプによってしか把握できないものです。
ということで 山崎広太ゼミを受講することを強く、お勧めします。
岡﨑乾二郎 より
[四谷アート・ステュディウム・メーリングリストより、2013年頃]
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岡﨑乾二郎|Kenjiro Okazaki
造形作家、批評家
1955年東京生まれ。1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、数多くの国際展に出品。総合地域づくりプロジェクト「灰塚アースワーク・プロジェクト」の企画制作、「なかつくに公園」(広島県庄原市)等のランドスケープデザイン、「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど、つねに先鋭的な芸術活動を展開してきた。東京都現代美術館(2009~2010年)における特集展示では、1980年代の立体作品から最新の絵画まで俯瞰。2014年のBankART1929「かたちの発語展」では、彫刻やタイルを中心に最新作を発表した。長年教育活動にも取り組んでおり、芸術の学校である四谷アート・ステュディウム(2002~2014年)を創設、ディレクターを務めた。2017年には豊田市美術館にて開催された「抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」展の企画制作を行い、2019〜20年には同美術館で大規模な個展「視覚のカイソウ」が開催された。東京都現代美術館にて個展「而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」(2025年)。
主著に『而今而後 批評のあとさき(岡﨑乾二郎批評選集 vol.2)』(亜紀書房 2024年)、『頭のうえを何かが』(ナナロク社 2023年)、『絵画の素 TOPICA PICTUS』(岩波書店 2022年)、『感覚のエデン(岡﨑乾二郎批評選集 vol.1)』(亜紀書房 2021年)、『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房 2018年)、『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋 2014年)、『芸術の設計―見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社 2007年)。『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(絵本、谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス 2004年)。作品集に『TOPICA PICTUS』(urizen 2020年)、『視覚のカイソウ』(ナナロク社 2020年)。
『感覚のエデン(岡﨑乾二郎批評選集 vol.1)』にて2022年、第76回毎日出版文化賞(文化・芸術部門)受賞。『抽象の力 近代芸術の解析』にて、2018年、平成30年度(第69回)芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。