new genショーケースにおける身体表現の探索と挑戦
Text|権祥海(東京都現代美術館学芸員)
Whenever Wherever Festival 2025レビュー
Whenever Wherever Festival 2025のプログラム「new genショーケース」は、ダンスや現代美術を通じて、若手アーティストが社会との複雑な関わりを探る実験的な作品を集めた企画だった。会場には、アーティストたちが我々が無意識に受け入れている社会的な構造や他者との関係に対して、試行錯誤の段階のものも含めて独自の視点で挑戦する姿があった。身体表現を通じて、個人と社会の関係性がどのように影響し合うのかを示す一方で、その表現が観客にどう伝わるのか、また社会的な問いをどれだけ効果的に投げかけることができるのかという点でも、慎重に探求されていた印象を受けた。全体として、身体表現が持つ社会とのつながりの可能性が見えたと同時に、さらにその関係性を深めるための課題も浮き彫りになったように感じる。
身体と規範の交錯:無秩序と解放の探求
吉田拓によるキュレーションのもと、「SHIBAURA HOUSE編(side A)」として展開された一連のパフォーマンスは、身体が社会規範とどのように相互作用するのかを探求する作品が並んだ。SHIBAURA HOUSEの1階に設けられた空間は、外の都市風景を取り込みながら、その一部となることを意図したかのような演出が施されており、視覚的にも感覚的にも「上演と現実の境界が曖昧になる瞬間」を提供した。窓から見える道路や歩行者は、時々パフォーマンスの一部として現れ、観客は上演と現実が溶け合う瞬間に直面することとなった。
都路拓未
《椅子を倒して》
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Naoyuki Sakai
都路拓未の《椅子を倒して》では、規律と秩序、そしてその崩壊に対する問いかけが、まさにゲームのように展開される。作品は、個人と集団、そして規範と自由の間で繰り広げられる緊張感を浮き彫りにし、観客に深い思索を促す。1人のパフォーマー(指示者)がちゃぶ台を持って登場し、床に座ってカードをシャッフル。その後、2人のパフォーマー(遂行者)が椅子を持って登場し、指示者はシャッフルしたカードをめくり、そのカードに書かれた言葉を1枚ずつ読み上げる。そのカードには、訓練の号令が書かれており、遂行者たちはその号令に従い、身体を動かし続ける。「気をつけ」「休め」「回れ右」「回れ左」といった聞き馴染みのある動作の中に、都路は「椅子を倒して」という特殊な行為を紛れ込ませている。それらは次々と指示されるが、この号令が特徴的なのは、その出され方が完全に「ランダム」であるという点である。
指示者がシャッフルするカードによって、号令が予測不可能な形で次々と出され、遂行者たちはその状況に適応しながら身体を動かし続ける。ランダムな確率と予測不可能な状況が交錯することで、観客はまるで運命に引き寄せられるかのような感覚を覚え、一種のゲーム的な緊張感を体験することになる。規律に基づいた動作が続く中で、時にその規律が乱れることによって、身体が制御を超えて動き続ける様子が展開される。次第に、指示者の号令はさらに変則的なテンポに変わり、遂行者が動作を完了する前に次の号令が出されることもある。このようなテンポの変化が、規律訓練における身体的制約を一層強調し、その制約を超える身体の動きが無意識的に繰り広げられる。そして「椅子を倒して」という号令が出されると、遂行者たちはまるで倒れた椅子になったように、椅子が置かれた方向に向かって号令を遂行し続ける。社会において規律の象徴でもある椅子が倒れても、指示に従う身体の動きは惰性によって止まることなく続いていくことを示しているように思える。
この作品で注目すべきなのは、規律訓練によって期待される「制御された身体」が、ランダムな状況によってどのように乱れ、無秩序な動きが生まれるのかを示している点だ。制御と混乱が交錯する場面で、観客は次に何が起こるのかを予測しようとしながらも、その予測がことごとく裏切られる経験をする。どんなルールが次に適用されるのか、どのような身体の動きが要求されるのかが分からず、観客はその「次の展開」を強く意識せざるを得ない。
作品が問いかけるのは、規範や制度が私たちの身体にどれほど深く刻まれているか、そしてその規範がランダムな状況によってどのように崩れ、動きが無秩序になっていくのかという点である。規律訓練における行動は、意識的であれ無意識的であれ、強い社会的な影響を受けている。そして、この規律が乱れることによって、身体がどのように反応し、どこまでが「制御された身体」で、どこからが「無秩序な身体」なのかを問い直す。フーコーの「監視と処罰」に通じるテーマが暗示され、身体とその動きに潜む社会的な構造が浮き彫りにされる。
また、作品の中で規律訓練が日本の軍隊におけるものを引き合いに出している点も重要である。日本帝国時代に形成された教育制度や、かつての植民地だったアジア諸国の軍隊文化が今なおそれぞれの身体に影響を与えているという事実には、歴史的な深さと重みがある。規律訓練における言語と身体の相互作用は、過去と現在を繋ぐ重要な橋渡しとなり、その中で浮かび上がる「身体の継承問題」は避けて通れないテーマだ。作品が、その問題について十分に示唆しているかは疑問が残るが、身体的な制約を意識させるという点においては一つの示唆を与えている。今後、作品が過去と現在、また地域間の関係に焦点を当てることで、さらに深い問いかけへと繋がることは間違いないだろう。
ジュリア・ファン
《Folded》
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Naoyuki Sakai
ジュリア・ファンの《Folded》は、日常の移動という瞬間に内包される身体的な違和感を掘り下げる作品である。電車という、目的地への移動手段として日常的に使われる場所が舞台となり、その中で感じる不安や緊張、そしてそこから生まれる内面の反応を具象化していく。電車の案内音声が流れ、ハウス風の音楽が流れ始めるが、舞台では何も起こらない。観客はその空白に身を置くが、何も動きが始まらないその瞬間からすでに、観客は不安や期待の入り混じった感覚を抱き始める。
そして、客席から姿を表すジュリア。周囲の空気をゆっくりと動かしながら、何の前触れもなく身体に手を伸ばし、丸められた衣装を解き始める。この「解く」動作が作品の中心となる重要なメタファーを含んでいるが、同時に「折り畳む」という動きが持つ意味を強調すべきである。折り畳まれる衣装は、最初は束ねられた状態から徐々に広げられていく。その過程は、単に物理的な解放を示すだけでなく、社会的・文化的に「折り畳まれた」私たちの感情や思考が、時間をかけて少しずつ表面化していく様子を象徴している。
「折り畳まれる」とは、私たちが日常の中で強制的に受け入れ、隠すことを余儀なくされる社会的な期待や習慣を、無意識的に圧縮して収納する行為である。この衣装を解き放つ行為は、自己の「嫌な部分」や「仕方なく抱え込んでいる部分」を象徴する一方で、それらを「解き放つ」過程の難しさや痛みも含んでいる。衣装が「折り畳まれていた」ことによって、私たちの内面の一部が無意識のうちに押し込められ、静かに圧迫されていることが表される。そして、それを「解く」行為は、圧力を解放し、折り畳まれた部分を現すことで、内面の整理や再構築を試みているとも言える。
また、衣装が「折り畳まれている」とき、その形状は一時的に不完全で、わずかな違和感を伴うものとして観客の前に現れる。まるで時間が圧縮されたように感じられるその衣装は、内面と外面、個人的な領域と公的な領域との境界を曖昧にし、私たちが日常の中で無意識に背負う社会的な重荷を象徴しているかのようである。衣装を解くことで、これらの制約や圧力が少しずつほどけていき、ジュリアの身体はそれに反応していく。
解く行為の後にはより激しい踊りが繰り広げられる。その「電車の中での踊り」は、言わば「移動する身体」の表現である。電車という「公共の場」においては、他者と直接的な接触を避けることは不可能であり、無意識的に触れ合うことさえある。電車の中での不安定さや緊張感は、移動し続ける身体の中に内在し、他者との接触に対する私たちの反応に常に影響を及ぼす。この感覚が、内面と社会間で絶え間ない調律を行うかのように体現される。
目的地を目指して移動する電車の旅は、確かに「一時的な過程」として描かれるが、この移動の中でこそ、自己と他者、内面と社会とのバランスを見つめ直すことが可能となる。この作品における「電車」という設定は、決して終わりなき旅ではなく、むしろ「到達すること」を求められる過程として採用されている。終演に向かって進むこの動きが、私たちにとって「自己への帰還」として捉えられるのである。それは、妄想と現実が交錯する瞬間であり、私たちが無意識に抱え続ける渇望や衝動が解放される過程でもある。
最終的には、ジュリアが解き放たれた衣装をどう扱うか、その後の動作が作品をより深く考えさせる。電車の中で感じるあの「小さな違和感」、それは私たちが日常的に無視してきた内面の反響であり、身体の不安定さであり、社会との摩擦の結果として現れるものである。この「移動」のパフォーマンスは、単なる物理的な移動を超え、精神的・身体的な調整の過程を示しているのである。
ジュリア・ファン
《Folded》
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Naoyuki Sakai
身体と空間の交響:自己と他者の境界を踊る
WWFesキュレーターチームによる「リーブラ編(side B)」は、リーブラホールで行われ、SHIBAURA HOUSEの外部の風景とは対照的に、独自の世界が広がるような劇場空間が展開されていた。客席がコの字型に壁際に配置されたその空間は、舞台と観客との距離感を生み出し、特別な緊張感を醸し出していた。参加アーティストたちは、ダンスを駆使して外部との対話を試み、観客の感覚を呼び覚ますようなパフォーマンスを繰り広げていた。
岩田奈津季
《アンテナ》
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Naoyuki Sakai
岩田奈津季の《アンテナ》では、上演の開始とともに、岩田が舞台中央に向かって走ってくる。その姿は、汗をかき、呼吸を荒げた疲れた表情が目に浮かぶが、その苦しみの中にも深い集中力が漂っていた。しばらくの間、彼女は息を整えながら舞台をゆっくりと歩き、その間、観客一人ひとりに意識的に視線を送る。観客はその視線に応じて自然に反応し、彼女の動きや表情を観察しながら、次第にその空間と人々との間で絶妙な呼応が生まれていく。その動きの一つひとつが、観客の内面に何かを呼び覚ますようで、観客は自らもその場の一部となったかのような感覚を味わう。
岩田の身体はまるでアンテナのように、周囲のエネルギーを受信し、それを増幅させるかのように動いていく。腕を天井に向かって伸ばし、足で床を力強く踏みしめ、拍手をしたりする。その一つひとつの動作は、自らの身体を通して周囲の環境をトレースし、物理的な動きと感覚の交差点で、新たな信号を発し、共鳴を生み出しているように感じられる。
突然、舞台の空気が一変し、ワルツ風の軽快な音楽が流れ始める。これにより、観客は予想もしなかった状況に巻き込まれる。音楽の軽快なリズムに合わせて、岩田が発する犬の吠え声が加わり、さらに一層予測できない展開を迎える。暗転後、再びスピーカーから流れる音が新たな層を加え、舞台上に口に小型ランタンをくわえた岩田が現れる。そのランタンの光が空間や観客を照らすと同時に、彼女が向かう先々で不思議な導きのような雰囲気を作り出す。
その過程で、ナレーションが流れ、「僕は○○をする」といった言葉が繰り返される。その言葉が彼女の動きと重なり、観客に対して彼女の行動の意図や背景を説明しているかのような印象を与え、レクチャーパフォーマンスのような構造が形成される。この構造により、観客は単なる視覚的な体験を超えて、一種のメタ的な体験を得ることになる。ナレーションが彼女の動きの背後にある意味を暗示することで、観客は視覚的な体験から一歩踏み込んで、行動の意図や深層に対する認識を促される。
岩田奈津季
《アンテナ》
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Naoyuki Sakai
「アンテナ」というタイトルが示す通り、岩田の身体は受信機のように周囲の微細な信号をキャッチし、それを増幅する役割を担っている。その行為は、単なる動きにとどまらず、観客や空間、さらには物体が持つ「呼吸」や「信号」を具現化する試みであり、彼女の身体はそれを受け入れ、表現するための媒体となっている。岩田の身体は空っぽの器のように外部のエネルギーを全て受け入れる準備ができており、その瞬間瞬間に流れ込んでくるすべてを表現しようとする。彼女の身体は、動作の一つひとつに意味を吹き込み、観客との間に橋を架ける存在となる。身振り、音、空間、観客との相互作用が、まさにこの作品の根幹を成す。
作品は、観客に身体と空間、そしてそれらが交錯する場所での新たな認識を促す。岩田の身体は、外部からのエネルギーを受け入れ、それを表現に変換する媒体として機能する。ナレーションや音楽、ランタンの光などが生み出す多層的な構造が、作品に対する知覚の幅を広げ、観客に対して視覚的・感覚的な反応を促す。岩田の身体が示す「受容」と「表現」の交差点で、観客はただ見るだけではなく、無意識のうちに作品に引き込まれ、空間や身体、エネルギーの間で繰り広げられる微細な変化に気づくこととなる。
日比野桃子
《ぬき足さし足あげ足とり》
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Naoyuki Sakai
日比野桃子の《ぬき足さし足あげ足とり》では、観客を現実と虚構、真実と偽りの狭間へと誘う繊細な踊りが展開される。上演が始まると、日比野は静かに籠から銀箔で作られた小さな動物のオブジェを一つひとつ取り出し、それらを床に慎重に並べていく。そして日比野は、そのオブジェの間をゆっくりと移動し、足元を意識しながら、一歩一歩、まるで踵に尋ねるかのように進んでいく。その動作は、儀式的であり、また同時に空間に対する深い問いかけのように見える。彼女の足の運びが空間を捉え、観客に微細な緊張感を与え、どこか不安定で儚い世界が立ち上がる。
日比野は、普段書き留めているメモやスケッチをまるでスコアのように構築し、それを次々と動きに翻訳していく。日常の中で無意識に生まれる断片的な言葉や思考が、まるで身体を得たかのように空間を漂い始める。そこで発せられる「嘘が苦手」「イカではなくタコでした」「泥棒!」といった言葉は、単なる意味を伝えるのではなく、むしろそれを解体し、無意味な断片として顔を出す。それらの発話は、観客にとっては一見無関係なもののように聞こえるが、実は虚構と現実、真実と偽りの境界を曖昧にし、次第に観客の中にある何かを引き出していく。言葉の持つ不確実性や変容を感じ取ることで、観客は目に見えない亀裂を広げ、そこから何か新しい視点や思考の流れを感じ取ることになる。
「見る」という行為そのものにも焦点が当てられており、観客は日比野がどこで足を止め、次にどんな動きを見せるのかを予測しようとする。しかし、その予測は決して容易ではなく、観客は微細な動きに引き寄せられ、次の展開を待ち望みながらも、予測できない不安と期待が交錯する感覚を味わうことになる。日比野の行動は、意味と無意味、演出と状況の間を漂いながら、観客にとっても彼女自身にとっても不確実で揺れ動くものとして存在し続ける。
日常的な言葉や想像を虚構の世界に持ち込み、それらをどのように関連づけ、解釈していくのか。日比野は、その過程で観客に対して作品の「世界」をどのように共有し、伝えていくのかを探るように見える。彼女の動きは、日常から生まれた想像の断片が身体を通じて共鳴し、踊りとして形を成していく瞬間そのものである。観客はその過程を追いながら、同時に自らの中に潜む日常的な感覚や想像力を呼び覚まされ、作品との間に何らかの繋がりを感じることになる。
作品の中で、日比野の動きは足元とともに成り立っている。振り付けが計算されたものではなく、彼女の身体の「呼吸」に委ねられ、その動きは自然でありながらも微細で確かな質量を持ち、空間を満たしていく。彼女の踊りは、その繊細さが逆に力強さを持っており、観客にとっては異次元の領域に迷い込んだかのような感覚を生み出す。日比野の身体が動くと、空間が膨らみ、沈黙の中に力強い音が鳴り響くように感じられる。その身体が持つ両儀的な意味が一気に感じられる瞬間に、観客は思わず息を呑むだろう。
作品は、動きそのものを通じて、日常の中に潜む複雑で微細な感覚を引き出し、それを表現することで観客に新たな視点をもたらす。細やかながらも力強い踊りは、意味を重ねるのではなく、むしろそれを解き放ち、自由に流れる感覚を与えてくれる。日比野の踊りは、意味の束縛から解放された感覚を観客に提供し、その余韻は長く残る。
今回の「new genショーケース」は、身体表現を通じて社会的構造や自己と他者の関係を探る作品が集められたプログラムだった。参加アーティストは、私たちが無意識に受け入れている社会的規範や他者との関係性を、さまざまな手法で問いかけた。
「side A」では、社会的規範とその無意識的な影響を身体の動きで探る作品が展開され、規律と解放、秩序と無秩序といった複雑なダイナミクスが描かれた。都路の佳《椅子を倒して》では、規律訓練を通じて規範が身体に与える影響とその崩壊を問いかけ、一方、ジュリアの《Folded》では、電車という日常的な空間での身体の違和感や無意識的な感情を表現し、社会との関わりを内面的な解放の過程として描いた。「side B」では、岩田と日比野が観客や自分自身との密接な対話を意識したパフォーマンスを行った。岩田の《アンテナ》では、身体を通じて空間や観客のエネルギーを受信し共鳴させる動きが展開され、観客との境界が柔らかく交わる体験が生まれた。日比野の《ぬき足さし足あげ足とり》では、日常の細かな感覚を踊りで表現し、意味と無意味、真実と偽りの間で揺れ動く感覚が呼び起こされた。
ただし、これらの作品が独特な視点を提供することを目指していたにもかかわらず、いくつかの点で観客への伝わり方に課題があったと感じた。都路の作品は、規範の崩壊や無秩序のテーマをさらに深く掘り下げ、歴史的背景を加えることで、より同時代性を感じさせる作品になったかもしれない。ジュリアの作品では、電車内での移動や内面的な違和感が意図としては伝わるものの、もう少し観客に強いインパクトを与える方法があったのではないかと思った。岩田の作品では、観客との相互作用が中途半端な形にとどまり、パフォーマンスに単調さが感じられる場面もあった。また、日比野の作品は抽象的すぎてストーリー性が不足し、静かな動きが物足りなく感じられる部分があった。
それでも「new genショーケース」は、若手アーティストたちのポテンシャルを引き出し、身体表現を通じて新たな視点を提供しつつ、アーティスト一人ひとりの個性や探求心を際立たせることができていた。これらの作品は、時に不完全に感じられる部分もあったが、それこそがアーティストたちの探求の過程を示す証であり、未完成な表現に対する挑戦が観客に深い思索を促し、他の視点や考え方を受け入れる柔軟さを育むきっかけとなった。その意味でも、このような企画は、若手アーティストにとって貴重な成長の場となるだけでなく、観客にとっても一歩先の思考や感性を呼び起こす役割を果たしている。今後も、こうしたショーケースが続き、さらに多くのアーティストが自己表現を深化させ、社会との対話を深めていくことを期待したい。
new genショーケース:side A
都路拓未、ジュリア・ファン[Julia Huang]
(キュレーター:吉田拓)
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《椅子を倒して》
構成・演出:都路拓未
出演:阪口智章、澤田直樹、都路拓未
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《Folded》
パフォーマー&振付:ジュリア・ファン[Julia Huang]
ミュージックデザイン:DIY DIY
衣装・舞台デザイン・ジュリア・ファン
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2025年2月1日
SHIBAURA HOUSE
new genショーケース:side B
岩田奈津季(キュレーター:Aokid|WWFes2025)
日比野桃子(キュレーター:五月めい|WWFes2025)
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《アンテナ》
振付・出演:岩田奈津季
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《ぬき足さし足あげ足とり》
振付・出演:日比野桃子
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2025年2月9日
リーブラホール
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Whenever Wherever Festival 2025
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権祥海|Sanghae Kwon
東京都現代美術館学芸員。1990年生まれ。東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻博士課程修了。現代美術と舞台芸術を横断するキュレーション、執筆活動を主軸に、パフォーマンスにおける共集性、個人や共同体のトランスナショナルな社会実践を捉える。主な企画に「Stilllive 2024:Kinetic Net」(クリエイティブセンター大阪(CCO)、2024年)、研究に「東アジアにおける歴史実践としてのパフォーマンス-イム・ミヌク、高山明(Port B)、ワン・ホンカイを中心に-」(博士学位論文、2022年)など。