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舞踊におけるテクニックをめぐって

Q4.

山崎さんは最近創作の中で声を重視していると伺いました[*1]。ピナ・バウシュのダンサーが舞台上で声を出したときにはずいぶん衝撃的だったそうですが、最近はダンサーが声を出す作品がずいぶん見られるようになりました。肉体はテクニックを宿すことによって調律済みの楽器のようにプロフェッショナルな存在となっているのに、多くのダンサーは声の方は素人ですから、そこでプロと素人が同時に存在しているような妙な居心地の悪さを感じることがあります。振付家としては、おそらくそのズレ自体が狙いなのだと思うのですが。山崎さんはダンサーであり振付家でもあって、どちらの気持ちもわかる立場だと思いますが、こうしたプロフェッショナルなテクニックと素人的な声との「ズレ」について、どのようにお考えになりますか。

A.

僕のテクニックは、身体における重力と遠心力によって生まれるリアクションを身体のいろいろな部分において意識化し、そこからムーブメントを発生させる方法を取ってますが、その時の身体にはバイブレーションが派生します。その身体のバイブレーションと声の関係を考えて行なっています。その逆もあり、声を発声して、その声のバイブレーションから身体にムーブメントを発生させることもしており、それは人に伝えるための声ではありません。あくまで身体のムーブメントを起こすための声です。しかし、伝えるための声を考えた場合、この前、少し実験してカラオケ――カラオケと言っても普通の歌でなくて、ある曲に乗せながら木遣りのような高い声と同時に自分のダンスをしたのですが、そうした場合にお客さんは、多分視覚よりも、聴覚の方がインパクトが強いらしく、どうしても歌の方を聞いてしまう。そうした時に歌が下手だと、全くそのダンスの意味が消えてしまいかねません。そこには伝えると言うことの意味が加わり、訓練が必要に思います。多分、声を練習して、そこからムーブメントに繋げる考え方でしょうか。
言霊ではないですけど、日本人には、声の発声と身体の在り方が深く結びついているところがありますよね。声を発することは、日本人的な身体の在り方を模索する上で、自分にとっても、もしかしたら重要な要素になってくるかもしれません。赤ん坊も生を受けて発声によって最初の主張をしますしね。ただし、ここで僕が言う発声はあくまで身体的なものなので、ダンスの一環のようなものです。
なので、質問にお答えしますと、身体を扱うプロフェッショナルであるダンサーにとっては自然な行為でなくてはいけません。一方で、演劇のような、意味をもった言語を伝える目的で話すという行為をともなうダンスを行なう際、パフォーマーはやはり素人であってはいけないと思います。それは演劇の訓練云々ではなく、どのように伝えるかの修練が必要という意味においてです。身体と言葉のズレや距離感などで新しい視点がうまれ、話すという行為が振付家にとって魅力的な要素であることには納得ができます。

Q5.

山崎さんは世界各地で色々なダンサーとお仕事をなさっています。それこそ単に「バレエの人」「モダンダンスの人」「舞踏の人」に収まりきらない多様な身体と向き合ってきた方なのではないかと思います。そうした多様な身体と向き合う際に、自分の中にテクニックがあることが、なにか良い効果を生んだこともあったのかもしれませんし、かえって邪魔になることもあったかもしれません。この、「自分とはテクニックを異にする他者の身体に振り付けるときに、自分のテクニックは役に立つのか邪魔になるのか」ということについて、どうお考えになりますか。特に山崎さんは複数のテクニックを身につけていらっしゃるので、他のダンサーの方とはまた違ったご経験をされているのではと勝手に思ってしまいました。

A.

自分がダンサーとして良いと思ったことは一度もありません。しかし、この年になって周りからダンサーとしていいって言われるようになりました。何故か知りませんが。他者に振り付ける時は二つのパターンがあります。先ずは徹底して自分のムーブメントを振り付けるやり方と、ダンサーに自分の身体の方向性を伝え、それにインスパイアされたダンサーが自分でムーブメントを作り出す方法があると思います。いずれにしろ、自分の身体の方向性を共有し、またそれに対してダイレクトに伝えるのでなく、周辺をうろうろ迂回したり、遊んだり、エクスチェンジすることによって理解していくものです。その辺のダンサーに対しての調整が必要で、ガンガン押さえ込むようなことはしません。
何故なら、僕のムーブメントは確かに独自の言語を持っているかもしれませんが、僕にとって他者の身体ほど、魅力を感じるものはないからです。そして自分の作品と他者の身体が同化したときの感動は、振付家冥利に尽きるものです。ただし、いずれの場合においても、自分のテクニックは役に立つというより、それがなければ振付家として僕の場合は成り立ちません。ここでいうテクニックとは踊りの技術ではなく、自分なりに築いてきたメソッドのようなものです。自分の志向性とともに身体に刻まれた歴史です。僕にとっては、それが、振付の核というかほぼ全てです。


インタビューを終えて

今井彩乃

今回、さまざまな質問に回答いただきましたが、どれも奥が深く、お答えから再度考えさせられたり、または非常に納得させられたりと私にとって大変ためになるものとなりました。特に印象に残ったのは声についての言及でした。「身体のバイブレーションと声の関係を考えて行なっている」という山崎さんの方法論は強く印象に残りました。またそれは「人に伝えるための声ではない」というお答えでさらに驚きました。実際私は踊りながら声を出したことがないので、この身体と声のバイブレーションの関係性の表現が未経験の地でピンとこないのですが、このお話を聞いただけでわくわくするものが込み上げてきます。私たちは人に伝えるための声しか聞いたことがないのではないでしょうか? それが身体と一緒になって出てきてしまう声とは非常に興味深く、その試行過程をとても見たくなりました。

また、山崎さんの振付の仕方にとても魅力を感じました。自分のやり方・方向性を伝え、それを他者がどういう風に表現してくるか。私も同じような思いがあって、同じ振付をしても踊る人によって全く違ったものに見えることってあります。これって面白いなって思えるのです。その人の表現の仕方を観て、この人はこうやって魅せてくるんだ、こんな雰囲気の作品が合う人だなどと理解し、それがまた振付家を刺激し、次の創作につながっていくのだと思います。しかし、その作品の方向性や特定の場面などで、ダンサーが強制的に周りと一緒に合わせなければいけない時もあるとは思います。山崎さんの「ここでいうテクニックとは踊りの技術ではなく、自分なりに築いてきたメソッドのようなものです」というお言葉は心に響くものがありました。そして、舞踏とバレエの両方を学んだことに対して「真逆のものを習得しようとしたわけではない」と仰っています。他にも同じようなことを仰っていたダンサーの方がいて、ジャンルを分けてやっていた、または移ったという思いは一切なく、自分の踊っているものが気付いたらコンテンポラリーダンスと言われていた、と。でもきっとそのようにして新しいダンスの道を切り開いてこられたのだなと感じました。

私自身、コンテンポラリーダンスとは学び始めるまでわからない未知の世界の存在でした。しかしこうやって実際にコンテンポラリーダンスを踊り世界で活躍なさっている山崎さんにお話を伺うことができて、コンテンポラリーダンスの奥深さ、難しさ、そしてダンサー自身の強さというのがわかり、私の中でのコンテンポラリーダンスの理解を深めることができました。お忙しい中、こんな貴重なお話をお聞かせいただけたことにとても感謝をしております。ありがとうございました。

[いまい・あやの|跡見学園女子大学]

  1. 発する身体Back2010年レポート(「プネウマとともに」内プログラム):https://bodyartslabo.com/wwfes2010/festival-report/pune-2.html
    2011年レポート:http://www.artstudium.org/report/2011/10/post_82.htm