Not about Judson in Tokyo|ポストパフォーマンストーク
Text|Body Arts Laboratory
ショーケース「Not about Judson in Tokyo」は、2025年2月9日、リーブラホール(東京都港区)でWhenever Wherever Festival 2025の一環としておこなわれた。
※タイトルは、イヴォンヌ・レイナー「ノー・マニフェスト」(1965)を参照している。
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出演・振付:神村恵、アグネス吉井、黒田杏菜、山縣太一、萩原雄太&王梦凡
企画:西村未奈
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記録構成:五月めい|撮影:酒井直之
なぜ、Not about Judson in Tokyoか
西村未奈(WWFes2025共同キュレーター) この企画「ノット・アバウト・ジャドソン・イン東京」ショーケースについて、なぜジャドソンか?という話なのですが、今回のウェンウェアフェスは港区と共催で行うことになり、そこで港区の公共施設を使うことを計画していた経緯があります。このリーブラホールのほかに、区民センターなどを実際に使ってワークショップなどを行なってきました。ここはホールっぽい空間なのですが、当初は体育館みたいなもっとフラットなところをイメージしていました。というのは、アメリカのポスト・モダンダンスの発祥となったニューヨークのジャドソン教会という場所があり、そこがひとつの重要なポイントになっています。
いまでもジャドソン教会で月曜日に無料で見られる、若手からベテランまでのアーティストの実験的な発表を行なっています。もうひとつセント・マークス・チャーチというやはり教会があって、その二つが実験ダンスのメッカで、特に若い世代はポスト・モダンダンスというコンテクストからもう少し自由に、ダウンタウンダンスとも呼ばれる実験的な活動をしています。イヴォンヌ・レイナーさんなど、ポスト・モダンダンスからずっと活動しているアーティストもいるのですが。セント・マークス・チャーチには、教会として日常的に使用されているなかで、三つの前衛プロジェクトが入っています。ダンスの「ダンスペースプロジェクト」、詩の「ポエトリープロジェクト」、演劇の「インキュベータープロジェクト」(リチャード・フォアマンの劇団オントロジカル・ヒステリック・シアターが、後進育成プロジェクトのプラットフォームとしてかたちが変わり、このインキュベータープロジェクトになりました)です。教会がある地域は、当時はあまり裕福と言えないエリアで、イベントはほとんど無料で行なわれるので、社会の周縁にいるひとたちも参加して一緒に愉しめるということがありました。
今回の企画では、公共施設で行なうということと、直接ポスト・モダンダンスを意識するというよりは、ポスト・モダンダンスが掲げたコンセプトの中で、ダンスの民主化──ダンスにかかわるいろいろなヒエラルキーをなくしていくということがキーワードになっています。それは作品の中だけでなく、プロセスにおいてや作品の提示の仕方、コラボレーターとの協働のあり方など、さまざまあると思うのですが、今回そうしたことにかかわる活動をされているように見えるアーティストの方々をお呼びしました。この企画は当初、WWFes共同キュレーターの山崎広太さんが考えた企画で、レイナーさんの“No Manifesto”に触発され、このタイトルにしました。ただ公共施設で公演を行なうと言っても、ニューヨークの教会と、東京のこういう貸し出ししている区民センターには違いがあり、日本ではお寺などであれば近いのかもしれないのですが、比較にならないかもしれないと思いつつ、その距離を含めて「ノット・アバウト・ジャドソン・イン東京」と付けました。
神村恵《開閉の続き》
神村恵 最初に上演した神村です。上演の最初に説明したとおりなのですが、来月(2025年3月)に自分の作品を何かやろうと思っていて、それがなかなか定まらなくて、この企画があったので、その準備として強制的にやってみることにしました。最近それとは別に自分が企画だけをして、作品にはタッチしない立場でかかわる、人に教えたり評価したりというケースが結構あって、自分が現場で何かをすることからちょっとずつ離れている状況があり、そのことに物足りなさも感じていました。自分で国分寺にユングラというスペースを持っているのですが、ユングラと尾久の円盤に乗る場とで、交換レジデンシー・プロジェクトを行なっています。その企画のテーマが「人間のための窓」というもので、もともと関心があってそのテーマにしていたので、それに勝手に自分で応答することだったらできそうだなと思って、今回やったという感じです。
「閉じる」と「開く」という、動作としては具体的だけど、逆にいろいろな意味や状況を含むという点で、すごく抽象的なテーマでもあり、作品としてどういうふうに展開するかまだ見えていないんですけど……。今回の場所のコの字型の舞台の設定が、大きさは全然違うのですが、ふだん稽古している場所に結構近くて、そこには三方に窓があって四角形の空間で、そこで考えたことをこの場所に持ち込んでみました。それから皆さんの公演を見て、全体的にストリート感がすごくある気がしました。
西村 ストリート感。それについては後でお聞きしてみたいです。
アグネス吉井《振付会議〜芝浦編〜》
白井愛咲(アグネス吉井) 2番目に上演したアグネス吉井といいます。わたしたちは二人組のユニットで、舞台で作品をすることは普段全然ないのですが、何をしているかというと、外で踊って短い映像を撮ってそれをインスタグラムなどにアップする活動をしています。そうしたなかで、今回、民主化というキーワードとわたしたちの接点を考えました。わたしたちは二人組なんですけれど、どちらがリーダーということはなく、振付を決めるときも二人のあいだで「なんとな~くこれでいいか」という感覚で決めることを心がけているんですね。どちらかがこれでいこうという主導権を絶対に取らないようにしています。責任をどちらも負わない。なので、できた作品はどちらのせいでもなく、できたものはできたものというふうにつくっています。
KEKE(アグネス吉井) 町を歩きながら、ここで踊ろうとかあまり決めないで、たまたま出会った場所でじゃあここにしようと言って、三脚を立ててカメラを押して撮るというのがスタイルなので……。
白井(アグネス吉井) 場所のせいでもあるし、場所に責任をなすりつけるというか、二人のあいだでどちらか一方が責任を負わせない、負わないかたちでやっていまして、それが民主的と言えば民主的と言えるのかな……と無理矢理捉えることにして、それを会場にいる皆さんと全員でできたらいいんじゃないかという発想でやってみました。意見を募って皆さんに振付を決めていただいて、民意の反映があったほうがいいだろうと、最後は実際にやってみるという流れでした。時間が15分と短く、本当は30分くらいあれば一人ひとりの好みや意見が聞けたと思うのですが、どうしても今回はこれで行きます!というふうになって、そこはちょっと申し訳なく残念でもありました。ただ、わたしたち二人だけでは出ない発想が出てきて、今日のメンバー、この場の感じに結果としてできたので楽しかったですね。皆さんにも、振付をあっちがいいんじゃないかとか、こっちがいいんじゃないかとか、自分にも振付の選択肢や決定権があるという状態を味わっていただきたいという気持ちがあり、ほんのちょっとだったかもしれないですけれど、そういうことを考える時間になっていたら良かったなと思います。
黒田杏菜《Listening》
黒田杏菜 3番目に上演した黒田杏菜です。タイトルは《リスニング》にして、身体の内側を聞くということをやっていました。なぜそれをやったのかというと、今回テーマが民主化についてということで、自分の活動について考えました。私はそこに座っているカークパトリックデイビットさんと二人で、Murasaki Penguin(ムラサキペンギン)という活動をしていて、彼は作曲家・マルチメディアアーティストで、私はダンサーで振付家なのですが、デイビットさんも踊って振付をつくるし、私も音楽や映像をつくります。普通だったら、それぞれ音楽や振付をつくってきたものを合わせるというのが、いわゆるコラボレーションだと思うのですが、一緒につくったほうがおもしろいなと思ってそういうふうにやっています。照明や音楽も、「これでカンパケです」「12345678のところでジャンプ」みたいにつくるのではなくて、ライブでダンスを見ながらデイビットさんも演奏して、ダンスもこの音が、この光が来たら踊るという、全部決まっているんですけど、ヒエラルキーがない活動をしています。
これは言ってみれば「外側」の民主化なので「内側」の民主化って何だろうというふうに思ったんですね。私の身体の部位の一つ一つ、たとえば骨の一つ一つにも投票権があったとしたときに、それを聞いてみようということをやってみました。私だけが聞いているんじゃなくて、今日いらっしゃった方も多分それを聞く。私は自分のお腹の音とかも聞こえるんですけど、見ている人はもっと違う音、自分の身体の音を聞いていたのかもしれない。演出などの外側ではなく、そうした内側のことをやってみたかったので今回上演しました。
山縣太一《トリオの踊り》
山縣太一 オフィスマウンテンの山縣太一です。皆さんのお陰でいい本番ができました、ありがとうございます、空間もよくてお客さんもよくて、素晴らしかったです。オフィスマウンテンは、もう10周年なんですけど、10年前からずっとヒエラルキーをなくそうという活動はしていました。著作権を俳優・ダンサーに渡せるように活動していて、今日見ていただいた《トリオの踊り》も、戯曲なんですけど、よく読んでいくと、こうやって舞台に立てばいいんじゃない?というただの指南書みたいでもあるし、これはダンスのスコアにもなるんだよってことでダンス作品もつくっています。いろいろな3人組が、いろいろなところでいろんなふうにやってほしいなと思って書いた作品です。そういうふうに俳優が能動的に作品を立ち上げるということにずっとトライしています。うまくいかないこともあるし、ヒエラルキーをなくすって、具体的なことを言ったら本当に難しくて、覚悟を持たなければならない部分も多いので苦労しつつなんですけど……。ただ死ぬまでもう少し進化したものがつくれればなと皆で思っています。横浜日ノ出町にワイキキSTUDIOという、大谷能生さんがやっている場所があって、そこで稽古しています。僕が名前を付けたんですけど、いい空間なので、よかったら皆遊びに来てください。
萩原雄太・王梦凡《拒絶情熱的旅行》
萩原雄太 ご参加いただきまして、ありがとうございました、萩原です。彼女は王梦凡(ワン・モンファン)です。彼女は北京と京都をベースに活動していて、僕たちは「日中当代表演交流会」というのを2024年からやっています。交流会をやっているのですが、それだけじゃなくてピースもつくりたいと思ったのと、今回こういうお話が来たので、じゃあモンファンと一緒につくってみようということでやりました。それで何がしたいかとお互い出し合ったときに、僕は触覚、触るということについてやりたいというふうに思いました。彼女は、無意識というものに興味があると言っている。それをじゃあどういうかたちで一緒にできるかをいろいろ考えていた結果、ロバート・ボスナックという心理学者が書いたドリームワークという手法、フレームがあるのですが、それは夢のなかの空間を再現して移動するというもので、それが非常に参照できるんじゃないかと、そのフレームを借りながら、自分の部屋を想像する、それをガイドするというふうにしました。僕は普段、演劇の演出をやっています。パフォーマーではない。それはどういうことかと言うと、まったく踊るとかできないんですね。でも自分がドリームワークをやったときに、自分の身体が「踊れた」、身体的にすごく動いたという感覚になって、非常に変な感じになるんですね。これを踊り、ダンスと言うことができたら、僕は踊りに対してすごくポジティブになれるというか、これを「踊り」と言いたいなと思ってこういう作品になりました。
王梦凡 2年くらい、そんなに長くはないんですけれども、私は自分の夢を記録しています。アーティストは、ある時点から無意識とか下意識というものに潜っていくことが必要だと思います。自分のなかに深い繋がりを持てると、外とも繋がることができる。これは一つのはじまりであって、それを自分の日常に持ち帰ることができるんじゃないかと思っています。そして、何かをつくりだすためのはじまりになるのではないかと思っています。
ダンスの民主化とヒエラルキー
西村 ダンスの民主化について考えてみてくださいと皆さんに投げかけたのですが、それは何かと考えたときに、ヒエラルキーをなくすと言い換えたほうがよいのかもしれません。私自身はジャドソン・ポスト・モダンダンスに傾倒した時期もあったんですけど、結構いまは違和感をもっています。そこでヒエラルキーをなくして多様な身体、多様な人たちを一緒にインバルブすると言うときに、実際は白人のエリートの人たちから発せられたもので、自分も外からニューヨークにやって来て活動している身としては、言っていることと内実とのギャップを現実に感じました。教養があって、それを理解したから一つ超えて「ポスト」というような、割と排他的なところがあるなと感じて、うーんとなっていました。
日本だと実験的なオルタナティブな活動を楽しむハードコアな場があると思いますが、結局いつも同じメンバーが来てるじゃん……という感触もあります。ヒエラルキーをなくすという場合に、なくされる側もそこに参加しなくちゃいけないのかもしれないと思います。ヒエラルキーに甘んじている状態というのは、劇場でエスタブリッシュなダンスや演劇をお金を払って見に行くときに、一方的に与えられている状態とも言えて、こういうオルタナティブな現場では、お互い皆が一緒に参加している、楽しむ意識がないと成り立たない。ニューヨークの教会で無料にしているのは、とっかかりがつくりやすいと思うので、日本でも一般の人がふらっと訪れるような、サロンみたいな場がつくれたらいいなと思いました。
萩原 ヒエラルキーという視点から民主化を考えるのはとても大事だと思いました。そこで別の視点からも民主化を考えることができるように思って、アレクシ・ド・トクヴィルという18世紀のアメリカを旅行したフランス人がいます。彼はアメリカの民主主義とは何なのかをリサーチして、その一つの結論としては、皆がいろんなことをいろんなところで言っているぞ、あっちではこの道路をどうやってつくるのか?こっちではこの教会をどうやって補修するのか?と話している。そうしたフランスではなしえないアメリカの民主主義が、すごくおもしろいというふうに言うんですね。つまり、いろいろな人がめいめい勝手にやっている、それを彼の翻訳では喧騒と言っているのですが、すごくかまびすしいなかで、いろいろなものが蠢いているというのが一つ、民主化というものの大事なイメージなのかなと思いました。今日見たなかでも、それが重要なキーワードになりうるんじゃないかとも思いました。
西村 いいですね。今回のフェスティバルのテーマ「1秒に1秒進むtime machineを一緒につくるということ」のイメージとも重なると思って聞いていました。この企画の発端は山崎広太さんだったので、一言お願いできればと思います。
山崎広太(WWFes2025共同キュレーター) コレオグラファー、演出家の役割を考えたときに、かなり飽和して辟易している部分もあって、言葉があることによって絶対的な演出があるんだけれども、演出がなくなることに、もっともコレオグラファーとしてのダイナミズムがあるように感じています。つまり、あなたたちパフォーマーやお客さん自身が、最も才能があり、エナジーがあって、多様なことができるんだということを今回のフェスティバルのテーマだと考えました。僕の作品では極力演出しない、コレオグラフしない、即興でやる、あなたたちにお任せっていうことでした。
これとダンスの民主化がすごく密接に結びついていることがわかったのですが、今日の僕の企画「ウェンウェアダンス」ショーケースの後半は音楽で盛り上がってしまった……。僕が教えているベニントン大学の演劇の先生がいつも言うのは「絶対盛り上げるな、それでいいんだ」と。つまり、ここにはない何かを一生懸命やって盛り上げるのではなくて、ここにあるもの。それがポストモダンのはじまりのような気がしています。アーティストやいろいろな人が、いかに同時にいて場所をつくるかという感覚が民主化であって、その意味で非常にカオティックであり、“no to the glamour”であり、“no to virtuosity”であり、それが本来的なアヴァンギャルドだと思います。
そして今日の映像でも、ただ道を歩いている人が私に振り付けしているという感覚からくる、コレオグラファーの役割に新しい可能性があるように感じています。また、僕自身もダンスサイドから作品で言葉を使うことを意識していたのですが、山縣さんや萩原さんが、どのように言葉とボディとの関係を自分自身のなかに築いているかが、非常にクリアに感じられて良かったです。
五月めい(WWFes2025共同キュレーター) いまのダンスと言葉についての発言にも関連して、萩原さんに質問です。先ほど作品の中での手法・フレームを通して、ご自身はダンスができないけれども、それをブリッジするような感覚を得たと仰っていました。その「ダンスができた」とは、どういう感覚なのかをもう少しお聞きしてみたいと思います。もう一つ、神村さんが皆さんの作品に感じた「ストリート感」というものが、どういう状態を指しているのか。山縣さんの作品の台詞に、直接に「道」、交差点、通い路のようなワードも出てきましたが、その二つをお聞きできますでしょうか。
萩原 ダンスって何だろうなと考えたときに、一つはいわゆる踊れる、身体が動くということと、もう一つは特殊なものなんですけれども、ダンスというのはある身体のイメージで、知覚や認識や運動を通して、それが自分のなかに造形されてしまうということ。それが一番大事だなというふうに思っています。指示を遂行していくことによって、自分のなかの身体イメージがぐにゃぐにゃと動かされていく、それがダンスとしての経験・体験に近い。そのダンスであれば僕はできると感じました。
神村 ストリート感についてですが、さっきのアグネス吉井の映像でも、単に外に出たりするという状況もあるんですけど、通行している路上にいた子供がパフォーマンスをちらっと目撃して、勝手に意味を解釈したりすることがあると思います。そうしたあり方、雑多な見方が許容されている状況があったように思いました。
山崎 今回多くの方にフェスティバルにかかわっていただき、本当にありがとうございました。2021年から港区、地域を意識したフェスティバルを行なってきました。今回は公益財団法人港区スポーツふれあい文化健康財団(Ktssポート財団)の共催というかたちで開催できることになって、そこで共生社会というテーマがあり、これまでもWWFesはアーティスト同士が出会うという意味でコミュニティベースのフェスティバルだったんですけれども、もっと広い共生社会を意識することになりました。そこで、バリアフリーや福祉での共生社会の取り組みというよりは、僕にできることとして、いろいろな人が共存することを意識したプログラムを行ないました。
Aokidさんの港区の公園で体操をつくるエクササイズや、たくみちゃんの港区のクラブを巡りながら踊りとは何かを探るワークショップにしても、地元の人々と出会うということを初めて意識的に行いました。結果として、今日の蟻鱒鳶ルの岡啓輔さんのプロジェクトに象徴されるように、地域のコミュニティと出会って何かをつくっていくことの素晴らしさを存分に体験できたことと思います。つまりフェスティバルにメジャーな劇団や有名アーティストを呼ぶのではなくて、いまここにあるもので何ができるか、人々が出会ってどうシェアできるのか。それは実験的なアーティストだからこそできると思うんですね。地域の方々を巻き込んだ、チーム・チープロのローラースケート子供ワークショップ、木村玲奈さんの芝の家での作品制作、そして港区で盆踊りの活動をする方々と一緒にプロジェクトを行なうことができたことも、今回の財産だと思います。同時に、新進アーティストの実験的なショーケースなども引き続き実施しつつ、そうした人々と出会うフェスティバルを今後も継続していきたいと思います。
Whenever Wherever Festival 2025
共生と社会と〈らへん〉
1秒に1秒進むtime machineを一緒につくるということ
期間:2025年2月1日・2月9日
会場:SHIBAURA HOUSE、リーブラホール(港区立男女平等参画センター)、芝の家、麻布子ども中高生プラザ ほか
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主催:一般社団法人ボディアーツラボラトリー
共催:(公財)港区スポーツふれあい文化健康財団〔Kissポート財団〕
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キュレーター:Aokid、岩中可南子、五月めい、西村未奈、山崎広太
制作:岩中可南子、林慶一