Body Arts Laboratoryreport

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4. 身体化・脱身体化の共立

 「カニッツァの四角形」を召喚する仕掛けこそが、パックマンの口を内向きに向けて配置された、カニッツァ図形でした。まさしく、藝術的感興・「ダサカッコワルイ」を召喚する仕掛けこそ、スパイラルホールで展開されたダサカッコワルイ・ダンスだったのです。図1の説明を下敷きにして、図2のように図解し解読してみましょう。

 図1の説明における「図としてのパターン」、「地としてのパターン」の各々が、図2では「身体化」、「脱身体化」に対応します。身体化とは何か。バラバラで統合されるべき根拠を持たない肉体の断片が、滑らかに繋がる不可思議な媒体、それが一般に、身体と呼ばれます。思考する抽象的な「わたし」、理念的存在としての裸のわたしが、わたしを生かしてくれる外部世界・環境に向き合う時、その媒介をし、異質なもの同士の、わたしと環境、を滑らかに接続してくれるもの、それが身体です。あたかも異質なもの同士を共生させる、魔法のような概念が身体ですが、図2に示す「身体化」は、身体の不可能性を担保しています。レベルの異なる部品と配置を一緒にできるとする媒介は、むしろ、異質なものが決して融合しないままに混じり合ったもの、滑らかな溶媒の中にいつまでも溶けずに刺々しい違和感を発し続ける異物を伴う混合体、なのです。だから身体化は、滑らかな媒介である身体を志向しながら、決して身体を実現できない。

図2. 「ダサカッコワルイ」を召喚するダサカッコワルイ・ダンス.

 まさに、ダサカッコワルイ・ダンスで繰り広げられたダンスは、身体ではなく、身体化を実現する。右手から発せられる動きに滑らかに接続し、連動するかに見えた左手は、突然、ギクシャクと場違いな動きを始め、身体の実現を阻んでしまう。志向された身体を、永遠に辿り着けないゴールに向かって無限に漸近するように、身体は決して実現されない。それは決してカメに追いつけないアキレスのようです。こうして体の各部位と全体(配置)は、決して実現できない身体化を垣間見せる。図2上段左の身体化の図式では、部品の一部として、頭部、手、足を示していますが、もちろん体のあらゆる部位、意識化されて断片化された部位の全てが部品なのです。配置の方では、部品が実線で結ばれ、あたかも全ては滑らかに繋がっているかの様ですが、この配置は理念的な設計図、目標であり、実現されているものではないのです。いわば身体化は、実体としての部分と、理念としての全体を接続せんとして実現できない運動なのです。

 ところが、スパイラルホールで展開されたダサカッコワルイ・ダンスは、身体化や、無論、身体にとどまるものではなかった。抽象的なAIにロボットという身体を伴わせ、身体を持った人工知能を構築すれば、人間のような知性が構成できるに違いない。人間の心とは、抽象的理念ではなく、身体化した心(エンボディード・マインド)として実現されている[*1]、といった身体礼賛の科学的趨勢を嘲笑うように、脱身体化するのです(因みに身体化した心という意味での身体化は、先の身体化と異なり、身体と融合したという意味です)。脱身体化とは何か。それは文字通り、折角接続されようとしている肉体の部品や、その配置を脱色し、両者を関係づける、という目論見さえ無効にしてしまう運動なのです。とすると、皆さんは、それは身体実現の不可能性=「身体化」の中にすでにあるのではないか、と思われるかもしれません。そうではありません。

 身体化において、部品は実体化され、配置も理念としては認識可能なものです。共に認識可能でありながら、例えば定量化にあたって異質である。こういう場合、両者を結びつける媒介=身体は、やはり実体を持つものなのです。ヒューマノイド制作の黎明期、金属製のロボットの手に卵を握らせることは計算上、難しかった。平滑な面に囲まれたロボットの金属の指に、微妙に凸凹があり丸みも一個ごとに異なる繊細な卵。この異質なものの接触において、卵が割れないように指からの圧力をコントロールする計算は、リアルタイムで膨大な計算を必要とし、それでも実現が難しかった。ところが金属製の手にゴム製の手袋をはめてやると、ゴムがショックを吸収し、卵の把持は簡単に実現できる様になったのです。いわば、ゴム製の手袋は、膨大な計算の肩代わりをした。これは、最も理解しやすい計算論的な身体の機能です。ここでは論理的に制御可能なロボット、不可能な卵、両者を媒介するゴムの手袋の全てが具体的な形を持っています。だからこそ、ゴムの手袋はロボットの指からの圧力と卵からの圧力を受け入れることができた。身体、身体化は、具体的な形、実体的イメージに根拠づけられた運動だと考えられるのです。

 ところが、脱身体化は違います。脱身体化は、ロボットの指、卵、両者を媒介するゴムの手袋のような具体的な形を全て無効にし、脱色してしまう。そのような具体的な形と思っていたものの意味を失わせてしまいます。だから、図2上段右の図では、部品である肉体の各部位は色を失い、部位を結びつける配置は、理念的にも形を失い、点線で描かれているのです。意味を失った部品や配置は、形を失ったことで、もはや接近させようがない。両者は一見接続できるような場所にいながら、無限に隔てられてしまうのです。ダサカッコワルイ・ダンスでは、それがいとも簡単に実現される。どういうことか。身体の実現を阻むと一瞬見えたところで、翻って、身体化を脱色してしまう。両手を外向きに湾曲させ、胸を張るかと思いきや、一気に肩を落とし前のめりになる。こうして身体化が実現されるや否や、上体は海老反りになって上空を睨む。常人であるなら、とうにバランスを崩して倒れてしまうところを、易々と腰をひねって再度反転し、静止する。ここにはもはや腰の可動域、手と肩の接続の制限が失われている。次の瞬間覆されるだろう、制限や可動域は、有限の範囲に収まらないのです。体の部位の一つ、一つがその形態、その定義を覆され、確定されることを原理的に阻む。つまり私たちが考える肉体の部位や、部品や、配置は、目に見えるということの延長上にある認識可能なもの、自分自身の経験から想定し理解可能な形で確定できるもの、として規定されたものに過ぎなかった。これが覆されることで、肉体の部位、部品は、無限に落ち込むことで色を失い、認識された部位の間は、その接続を無限の可能性に開かせることで、無限に深い淵を落ち込ませるのです。

 すなわち脱身体化は、私たちが、理解している・認識していると思っていた体の部位や部位間の関係を、無限に開いていくことなのです。確定できなくなることで、体の部品や配置は意味を失っていく。ダサカッコワルイ・ダンスの演者は、肉体の動かし方だけで、それをあからさまに示していきます。もちろん、この脱身体化は、鑑賞者である私たちだけのものではありません。鑑賞者においては無論、想定外に繰り出される運動に、無限の深みを見出しますが、日々の練習の中でこれを実現するダンサーにおいても、制限や可動域は絶えず予想外に変質し、無限に開かれるに違いありません。どんなに鍛錬し、体の制限や可動域を把握しても、ちょっとした動かし方次第で、予想外の可動域が生じ、確定されたはずの可動域は覆される。ダンサーは練習において、体の可動域の範囲を確定し、見極めるのではなく、動きの潜在能を確認するのでしょう。だから、脱身体化は、鑑賞者にとっても、ダンサーにとっても成立するのです。

 ここまでくると、カニッツァ図形における「図としてのパターン」と身体化、「地としてのパターン」と脱身体化との対応が理解できると思います。カニッツァ図形における地、それは確定的に描かれ有限の大きさと形を持ったパックマンの外側でした。二次元平面は原理的に制限なく、無限に広がっていますから、地は無限に開かれているのです。つまり地に注意を向けるものは、この無限の広がりに開かれ、無限の淵にどこまでも落ち込んでいくことになるのです。

 ダサカッコワルイ・ダンスは、かくして、身体化と脱身体化の共立(重ね合わせ)によって、そのどちらでもない「ダサカッコワルイ」を召喚するのです(図2下段)。身体化と脱身体化の共立は、一人ひとりのダンサーの中に実現されています。

上半身は巫女が何かを捧げるように、拝礼をする姿勢をとりながら、下半身はその姿勢を嘲笑うように崩れながら後退する。

ヘルメットを被り、右半身でパワーショベルの操作をしながら、左手は自らがパワーショベル化してしまったかのように、虚空を弄(まさぐ)る。

折れ曲がって動かなくなった腕が、その根元で痙攣するように激しく振動し、それを周囲に示すように手や足は外気を威嚇する。

何かを示すように指を差し、周囲を睥睨しながらも、捻られた歩みが、何も差していないことを暴き立てる。

瀕死の蝉のように横たわり、今までの生を思い出すように、脚の一本だけが空を切り続けたかと思うや、障害物を巻き込んで、生を漲らせる。

何かを語っていた舞台俳優が、異界からの電波を受信したかのように突然、全身を緊張させる。宇宙からの磁力によってのみ支えられた体は、いつしか丸みを帯び後退する。

不定な多面体が、どこに転がるかわからないように、不規則にコントロールされた足の動きは、前転、後転に歪な軌跡を作り出し、突然覆される。

赤い甲殻類のようなダンサーが、シャツを脱ぎ捨て、カニのような腹筋を見せながら、エビのように床へ飛び込んでいく。

 その基本には、おそらく、身体化・脱身体化の共立を謳う、何か端的な標語でもあったのではないでしょうか。例えば、「何かをせよ・かつ・するな」のような。各々のダサカッコワルイ・ダンスは、多様でありながら、身体化・脱身体化の共立に関して、どれもが筋を通しているのです。そして、身体化・脱身体化は、各々の肉体で実現されるだけではない。一人一人が断片となり、ダンサーの集団全体として身体化しつつ、同時に脱身体化を繰り広げているのです。ある時には複数のダンサーの動きが同期し、つぎの瞬間、無関係性を表明し、ダンサーの間に漆黒の暗い穴が穿かれる。公演の中盤、突然、ボニーMのラスプーチンが鳴り響き、全員が片足立ちでジャンプを始めました。それは、ボニーMの、歌っていないボーカル、ボビー・ファレルが、しばしばラスプーチンでみせる動きであり、ダサカッコワルイ・ダンスのパイオニアであるボビー・ファレルへのオマージュとも取れるものでした[*2]。この一瞬だけダンサー全員が同期を取りますが、しかし、他のいかなる瞬間も、全員がBGMを聴きながら、同期をとっている時と全く同様に、他の者と接続・脱接続していることがわかります。



Photo:
Kuroda Natsuki

 「ダサカッコワルイ」と聞くと、何か逸脱の連鎖であるように感じるかもしれません。逸脱は、何らかのかっちりした制度、規則、構造があって初めて成り立つものですから、ダサカッコワルイを標榜するダンスとは、何かに従いながら逸脱すること、これさえ満たせば、簡単に実現できるようにも思えます。そう考える人は、創造の瞬間、「できた!!」と感じる瞬間に立ち会ったことのない人でしょう。藝術が悪い意味で相対化され、意味が失われたと感じる者が多い昨今、藝術の価値など、言ったもの勝ちだと思う人間は沢山いそうです。そのような感性に対して、私は、「ダサカッコワルイ」と「カニッツァの四角形」とを対比しているのです。「カニッツァの四角形」は、よくわからないもの、あるのかないのかわからず、解釈によっていかようにもなる不明確なものではなく、かっちりとした知覚です。ほとんどの人が明確に「カニッツァの四角形」を知覚し、「これか」と指し示すことができる。これに対比される藝術的感興、「これだ」という感覚は、それこそ感じる人と感じない人がいるでしょうが、それは藝術における「これだ」が、曖昧で、解釈の上で成立する相対的なものだということを意味しているのではないのです。それは創造に立ち会えた人において固有でありながら、明確な形を持つという意味で普遍的なのです。カニッツァの四角形が図と地のパターン化の共立を実現する、内側に口を向けたパックマンによってのみ実現されたように、「ダサカッコワルイ」を召喚できる装置は、ダンサーの「これだ」によって見極められる身体化・脱身体化の共立によってのみ実現されたのです。

5. おわりに

 ダサカッコワルイ・ダンスは、ダンスだけではなく、誰でも、それぞれの現場で実装でき、踊れるものです。少なくとも私は、この公演を見て、「こうしてはいられない」という、希望と焦燥の入り混じった興奮のうちに会場を後にしたのです。


Photo:
Kuroda Natsuki

《ダサカッコワルイ・ダンス》
振付・出演:Aokid、山崎広太、小暮香帆、後藤ゆう、鶴家一仁、宮脇有紀、モテギミユ、山口静
企画:山崎広太

2021年12月23日
スパイラルホール
Whenever Wherever Festival 2021


郡司ペギオ幸夫Gunji Pegio-Yukio
1959年生まれ。東北大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。著書に、『生きていることの科学』(講談社現代新書)、『いきものとなまものの哲学』(青土社)、『群れは意識をもつ』(PHPサイエンス・ワールド新書)、『天然知能』(講談社選書メチエ)、『やってくる』(医学書院)など多数。

  1. Varela, F.J. Thompson, E. and Rosch E. 2017. The Embodied Mind, revised edition: Cognitive Science and Human Experience. The MIT Press.Back
  2. 『やってくる』(p.1註3参照)5章にダサカッコワルイの文脈で言及している。Back
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